第38章 終幕の序曲
グランドハイアットのボールルーム。
天井に鎮座する巨大なシャンデリアが、残酷なまでの黄金色の光を振りまいている。
数千のクリスタルが放つ眩い反射は、まるでそこに集う人々の「仮面」を照らし出そうとしているかのようだった。
高級な香水の香りが幾重にも重なり、空気の中に重く澱んでいる。
良心を持つ者にとっては、窒息しそうなほど濃密で、不自然な空間。
私は入口の境界線に立ち、小さなクラッチバッグを指が白くなるほど強く握りしめた。
今夜の私は、敗北した令嬢としてここに来たわけではない。
譲渡されるのを待つだけの、物言わぬ資産でもない。
主役さえ知らないうちに書き換えられた、悲劇的な舞台の最前列の観客。
「笑いなさい、エララ。まるでお通夜のような顔をして」
母の鋭い囁きが耳元で響いた。
隣に立つ母は、これ見よがしにスパンコールを散りばめたケバヤドレスに身を包んでいる。
厚塗りの化粧は、昨日までその裏にあったはずの焦燥を完璧に塗り潰していた。
母にとって、今夜は「勝利」の夜なのだ。
手塩にかけた……あるいは、単に所有していた商品を、最高値で売り抜けた夜。
私はゆっくりと首を巡らせ、感情を削ぎ落とした瞳で母を見つめた。
「笑っているわ、お母様。よく見て」
母は鼻で笑い、私の姿を品定めするように、蔑みを込めて一瞥した。
「それにしても、そのドレス……。正気なの? お母様に恥をかかせるつもり?」
「なぜそんな地味な濃紺を選んだの。用意した宝石は?」
「これでは、迷い込んだ給仕係にしか見えないわよ」
私は視線を落とし、身体を包むネイビーブルーのシルクを見つめた。
レースも、スパンコールも、過剰な装飾も一切ない。
ただ、流れるようなラインだけがそこにある。
これはウェディングドレスではない。
これは、戦装束だ。
そしてこの色は……ディオの持つ、あの静謐な空気を感じさせてくれる色だった。
「私が選んだドレスよ。もし恥ずかしいなら、他人の振りをしても構わないわ」
「貴女――」
「まあ、いいじゃないか。もう時間だ」
父の声が割って入った。
母の背後から現れた父は、痩せ細った身体には少し大きすぎる黒のスーツを着ていた。
顔色は青白く、冷房の効いた室内だというのに、額にはじっとりと脂汗が浮いている。
父と目が合った。
その瞳には、罪悪感と、恐怖と、そしてどうしようもない安堵が混ざり合っていた。
父と私だけが知っているのだ。
この豪華なジャケットの下で、彼はもう「ドウィジャヤ・トレーディング」の主ではない。
ヴェクター・ホールディングスによって、糸を切られた操り人形に過ぎないことを。
「行こう」
震える声に促され、私たちは一歩を踏み出した。
その瞬間、数十の視線が一斉に突き刺さった。
経済紙の記者たちが放つフラッシュが、雷鳴のように絶え間なく瞬く。
私は背筋を伸ばし、顎を引いた。
撮るがいい。
この滑稽な瞬間を、永遠に記録に残すがいい。
部屋の中央、媚びへつらう者たちに囲まれて、レイ・ダルヴィアンが立っていた。
特注のタキシードを完璧に着こなし、髪を隙なく撫でつけている。
その傲慢な顔には、勝利を確信した笑みが張り付いていた。
私に気づくと、彼の笑みはさらに深まった。
新しい玩具が届いたのを見つけた、所有者の顔だ。
レイは人混みを割り、自信に満ちた足取りで近づいてきた。
人々はモーセが海を割るように、彼に道を譲る。
「エララ」
低く滑らかな声。だが、私の耳には蛇の威嚇音のように聞こえた。
彼は許しを請うこともなく、私の腰に手を回した。
所有権を誇示するように、強引に引き寄せる。
鼻を突くきつい香水の匂いが、胃の奥を不快にかき回した。
「五分遅刻だ、愛しい人。また逃げ出したのかと思ったよ」
カメラの前でその手を振り払いたい衝動を、必死に抑え込む。
「渋滞よ、レイ。貴方のパーティーのために、ジャカルタの交通が止まるわけじゃないわ」
冷ややかに返すと、レイは楽しげに喉を鳴らした。
そして顔を近づけ、耳元で囁く。
傍目には恋人同士の睦まじい光景に見えるだろう。
だが、その言葉は猛毒だった。
「ネイビーのドレス? 本気か? ささやかな抵抗のつもりだろうが……」
「まあいい。負け犬の姿としては、それなりに美しいよ」
「今夜を楽しめ。明日からは、着る服の色さえ私が決めることになるんだからな」
血が沸騰するような怒りを感じながらも、私は口角をわずかに上げた。
「ええ、楽しみましょう、レイ。明日何が起こるか、誰にも分からないものね?」
レイは一瞬眉をひそめた。
私の落ち着きすぎた声に違和感を覚えたのだろう。
だが、肥大化したエゴが、その警告をかき消した。
「いい心がけだ。ようやく自分の立場を理解したようだな」
彼は私の腰を強く抱き寄せ、招待客たちの方へと身体を向けた。
「皆様!」
レイが声を張り上げると、ざわめきが潮が引くように収まっていく。
全ての視線が私たちに集中した。
最前列では、母が友人たちに向かって勝ち誇ったように手を振っている。
「今夜はお集まりいただき、感謝する」
マイクを通した彼の声が、広いホールに反響した。
彼は私を促し、白い花々で飾られたステージへと上がらせた。
皮肉なことに、それは彼が学校に送りつけてきた弔花の色と同じだった。
スポットライトの暴力的な光が顔を焼く。
眩しさに目を細めると、下には人間たちの海が広がっていた。
彼らは皆、愛という名の包装紙に包まれた「人身売買」を祝って、微笑んでいる。
「今夜は特別な夜だ」
レイの瞳が勝利の悦びにぎらついた。
「先週の大きな入札に勝ったことだけではない」
「私の隣にいる、この女性の心を射止めたことが何よりの誇りだ」
割れんばかりの拍手が沸き起こった。
口笛を吹く者さえいる。
「ドウィジャヤ・トレーディングとダルヴィアン・トレーディングは、単なる戦略的パートナーではない」
「私たちは一つの家族となる。この合併は、インドネシアのコモディティ業界に新たな巨人を誕生させるだろう!」
淀みない嘘。
これは合併ではない。併合であり、略奪だ。
「そして、その結束の象徴として……」
レイはジャケットのポケットから、赤いベルベットの箱を取り出した。
そして、その場に跪く。
会場が息を呑んだ。
母は口元を押さえ、嘘泣きの涙を浮かべている。
「エララ・ドウィジャヤ」
芝居がかった声が響く。
「私を支え、妻となり、ダルヴィアンの栄光を共に分かち合ってくれないか?」
私は彼を見下ろした。
開かれた箱の中で、巨大なダイヤモンドが冷たく輝いている。
本来なら、ここで頷き、感動の涙を流し、人生を差し出す場面だ。
私は、心の底から冷ややかな笑みを浮かべた。
「レイ」
マイクが私の小さな声を拾い、会場の隅々まで届けた。
「答える前に……一つ聞かせて」
「貴方は本当に、ドウィジャヤ・トレーディングに合併する価値があると思っているの?」
レイが顔を上げ、眉間に皺を寄せた。
「……何の話だ?」
「つまり……貴方はまだ、自分が主導権を握っていると思っているのかしら?」
レイが言い返すよりも早く、ボールルームの正面扉から重厚な音が響き渡った。
どおん!
高く重い観音開きの扉が、壁に叩きつけられるようにして左右に開かれた。
その衝撃音は、BGMを、拍手を、そしてレイの顔に張り付いた笑みを一瞬で消し去った。
会場にいた全員が、一斉に振り返る。
静寂。
そこには、三人の男が立っていた。
彼らは華やかなパーティーウェアなど身に着けていない。
鋭利な刃物のような、チャコールグレーと黒のフォーマルスーツ。
放たれるオーラが、この場の誰とも違っていた。
彼らは祝うために来たのではない。狩るために来たのだ。
中央に立つのは、昨日父のオフィスを訪れたあの男。
レオンハート・ヴェイル。
彼は背筋を伸ばし、片手に革のブリーフケースを持ち、もう片方の手で静かにジャケットを整えた。
退屈そうに会場を見渡すその視線は、騒がしい鶏小屋を眺める主人のようだった。
背後には、イヤホンを装着した体格の良い男たちが控えている。
レイは跪いた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。
困惑に染まっていた顔が、次第に怒りで赤黒く変色していく。
「貴様ら、何者だ!」
レイがマイク越しに怒鳴り散らした。
「これはプライベートな集まりだ! 警備員! 警備員はどうした!」
だが、警備員が現れる気配はない。
レオンハートが歩き出した。
磨き上げられた革靴が、大理石の床を叩く音が静寂の中に響く。
コツ、コツ、コツ
彼は自然と道を譲る招待客の間を、真っ直ぐに突き進んだ。
ステージへ、レイへ、そして私の方へ。
柱の陰にいた父が、膝から崩れ落ちるようにして寄りかかった。
彼は理解したのだ。何が、誰が来たのかを。
レオンハートはステージの真下で足を止めた。
上がることはせず、ただレイを、慇懃な蔑みを込めて見上げた。
「ダルヴィアン様。貴方の小さな茶番を邪魔してしまい、申し訳ありません」
マイクなどなくても、その重厚な声はホールの隅々まで通った。
「私はレオンハート・ヴェイル」
「ヴェクター・ホールディングスの代理人です」
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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