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第37章 盤面の支配者

挿絵(By みてみん)


安っぽいパンダンの芳香剤の匂いと、湿った布のシートから漂う埃っぽさが混ざり合い、胃の奥がムカムカする。


私はタクシーの窓に頭を預け、古いエンジンの振動をこめかみに感じていた。


ズキズキと脈打つような痛みが、昨夜の涙の代償として居座っている。


午前十一時三十分。


本来なら、私は今ごろ一年A組の教室の前に立ち、水の循環について説明しているか、あるいはガファの終わりのないお喋りに耳を傾けているはずだった。


放課後になれば、あの白いハッチバックが校門に止まり、ライラが笑顔で駆け寄ってくるのを見届けていたはずだ。


けれど今日の私は、ただの臆病な逃亡者だった。


病欠。


その嘘は完全な間違いではなかった。昨夜、サスキアの車の中で一晩中泣き明かした後、私の体は文字通り粉々に砕け散ったような感覚だったから。


目はひどく腫れ、魂は昨夜のカフェ・アルクスの鉄の階段に、ディオの腕の中に置き忘れてきたようだった。


「お客さん、着きましたよ。ドゥウィジャヤ・トレーディングのビルで間違いないですね?」


運転手の声が、私を現実へと引き戻した。


目の前の四階建てのビルを見上げる。


かつてはこの建物も、清潔な白い外壁と輝く社名ロゴを誇り、堂々とそびえ立っていたのに。


今では塗装は剥げ落ち、ファサードの「D」の文字は片方が傾き、いつも社用車で埋まっていた駐車場は、まるで抜け落ちた歯のように虚しく空いていた。


「……ありがとうございます」


私は車を降り、重い足取りでロビーへと向かった。


内部の惨状は、外観以上にひどいものだった。


受付には誰もいない。大きな鉢植えの観葉植物は黄色く枯れ果て、まるで給料未払いに抗議してストライキでも起こしているかのようだった。


オフィスエリアを通り過ぎようとすると、スタッフたちの囁き声がハエの羽音のように耳にまとわりつく。


「おい、あれ社長の娘だろ?」


「何しに来たんだ? 沈みゆく船の様子でも見物に来たか?」


「俺たちの先月の給料もまだなのに、あいつは小遣いでもねだりに来たのかよ」


私は俯き、歩を早めた。


耳が熱い。彼らは知らないのだ。「社長の娘」である私が、今や売店でコーヒー一杯買う金すら持っていないことを。


私がここに来たのは、たった一つの愚かな希望を確認するためだった。


昨夜のディオの抱擁が私に与えた、微かな希望。


「一晩で世界がひっくり返ることもある」という彼の言葉。


自分の目で確かめたかった。


この倒産は現実なのか? それとも私を無理やり結婚させるための、父と母による残酷なシナリオなのか?


もし会社が普通に機能しているなら、私は今すぐここから逃げ出す。


そしてディオのもとへ戻り、彼を抱きしめ、二度と離さないと誓うつもりだった。


CEO室の重厚な観音開きのドアを押し開ける。


ギイッ……


私の希望は、その音と共に粉々に砕け散った。


広い室内は荒れ放題だった。


床には書類が散乱し、厚いカーテンが閉め切られている。昼間のジャカルタの太陽を拒絶した部屋は薄暗く、古びたタバコの匂いが充満していた。


マホガニーの大きなデスクの向こうで、父が力なく崩れ落ちるように座っていた。


最後に会った時よりも、十歳は老け込んだように見える。


髪は乱れ、シャツの襟元はだらしなく開かれ、目は目の前の赤いファイルの山を虚ろに見つめていた。


差し押さえ通知の山を。


「お父さん……」


絞り出すような声で呼ぶと、父はゆっくりと顔を上げた。


目は赤く充血し、潤んでいる。私を見ても、そこには喜びの光など微塵もなかった。あるのは、ただ深い羞恥心だけ。


「エラ……来たのか」


その声は、粗いサンドペーパーで擦ったように掠れていた。


私は一歩踏み出し、背後のドアを閉めた。


デスクの上のクリスタルグラスからは、微かにアルコールの匂いが漂ってくる。


「お父さんの様子を見に来ただけよ」


私はデスクの前に硬直したまま立った。


「そして、一つだけ聞きたいの。最後にもう一度だけ、正直に答えて」


私は震える手で、書類の山を指差した。


「これ、全部本当なの? 私たち、本当に終わりなの?」


父は笑った。乾いた、痛々しい笑い声。


彼は一冊のファイルを私の方へ投げ飛ばした。ファイルはデスクの上を滑り、私の腰のあたりで止まった。


「自分で見てみろ」


彼は絶望に満ちた声で吐き捨てた。


「明日の朝には、銀行の執行官が来る。このビルも、ブラウィジャヤの家も、車も、ボゴールの土地も……全部だ。終わりなんだよ、エラ。ゼロだ」


父はデスクに顔を伏せ、肩を震わせた。


「レイが唯一の道なんだ。明日の晩に婚約が成立すれば、彼は父さんの個人的な借金を肩代わりすると約束してくれた。済まない、エラ……父さんにはもう、選択肢がないんだ」


膝の力が抜け、後ろに倒れそうになる。


背後の客用椅子にぶつかり、辛うじて踏みとどまった。


やはり、本当だったのだ。


仕組まれた芝居でも、どんでん返しでもない。


ディオは間違っていた。世界はひっくり返ったりしない。世界はただ、私たちをぺしゃんこに押し潰そうとしているだけだ。


私はレイと結婚しなければならない。


それは、覆ることのない死刑宣告だった。


「お父さんなんて、大嫌い」


囁くような声と共に、再び熱く鋭い涙が溢れ出した。


父は答えなかった。ただ静かに泣き続け、その嗚咽だけが防音の効いた部屋に虚しく響いていた。


その時、突然ドアが乱暴に開かれた。


バンッ!


私は飛び上がるほど驚いた。


父は慌てて身を起こし、顔を拭った。レイか、あるいは予定より早く取り立て屋が来たのだと思ったのだろう。


けれど、違った。


見知らぬ男が、堂々と足を踏み入れてきた。


地元の人間に見えない。背が高く、がっしりとした体格。


こめかみのあたりに白髪が混じっているが、ポマードできっちりと整えられている。


彼が身に纏っているチャコールグレーのスーツは、仕立てが恐ろしいほど正確で、デパートの既製品でないことは一目で分かった。


手には、重厚そうな黒い革のアタッシュケースを提げている。


この男が放つオーラは、異質だった。


冷徹で、効率的で、威圧的。


ノックもしなければ、微笑みもしない。


まるでこのビルの所有者であるかのような足取りで入ってきた。


背後には、黒いスーツを着た大柄な男が二人従い、彫像のようにドアを固めている。


「だ、誰だね君たちは?」


父は失いかけた威厳を必死にかき集め、狼狽えながら問いかけた。


「秘書からは何の報告も受けていないが」


男は静かに父のデスクへと歩み寄った。


革靴がパーケットの床を叩き、リズムの良い音が響く。


コツ、コツ、コツ


彼は部屋の隅、書類棚の横で立ち尽くす私には目もくれなかった。


彼にとって、私は透明な存在に過ぎないようだった。


男はアタッシュケースをデスクの上に置いた。


差し押さえ通知の赤いファイルの山の上に、重々しく。


カチッ、カチッ


「レオンハルト・ヴェイルだ」


その声は重低音で、微かな外国訛りはあるものの、流暢なインドネシア語だった。


「シンガポール、ベクター・ホールディングスの最高運用責任者だ」


父は眉を寄せた。


「ベクター・ホールディングス? そんなところと約束はしてないはずだが――」


「約束などない。ラフリ殿、あなたにあるのは『債務』だ」


レオンハルトはケースを開いた。


彼は中から、綺麗に製本された一冊の分厚い書類を取り出した。


それを父の前に置き、タイトルが読めるように向きを変える。


「本日午前十時をもって、ベクター・ホールディングスは貴殿の債権者団から、ドゥウィジャヤ・トレーディングの全ての負債を買い取った。利息、遅延損害金、ペナルティを含めて全てだ」


沈黙。


セントラル空調の唸るような音が、やけに大きく感じられた。


父は呆然と口を開け、目を丸くしてその書類を見つめていた。


震える手で、最初の一ページをめくる。


「な、何だと? 借金を買い取った? だが……マンディリ銀行はそんなこと……」


「銀行はもう貴殿とは無関係だ」


レオンハルトは冷酷に言葉を遮った。


彼はスーツの内ポケットから一本の高級万年筆を取り出し、書類の横に置いた。


「今この瞬間から、我々が貴殿の唯一の債権者だ。貴殿の新しい『主人』だよ」


私は悲鳴を上げそうになるのを、必死で手で押さえた。


ベクター・ホールディングス?


聞いたこともない名前だが、この男が帯びている権力の重みは本物だ。


「待ってくれ……」


父は混乱したように首を振った。


「なぜだ? この会社はもう死に体だ。なぜそんな不良債権を買い取る必要がある?」


レオンハルトは、感情の欠片もない瞳で父を見つめた。


まるで、壊れた臓器を観察する外科医のような目だ。


「それは貴殿が知る必要のないことだ。貴殿が知るべきなのは……」


レオンハルトはデスクの上の赤いファイルを指差した。


「……そのゴミ同然の書類はもう無効だということだ。我々は個人資産の差し押さえ請求を全て取り下げる」


父の目が限界まで見開かれた。


「何だって?」


「言葉の通りだ。貴殿の自宅は守られた。このビルもだ。今のところは、だが」


レオンハルトは胸の前で腕を組んだ。


「だが、その代わりとして、ドゥウィジャヤ・トレーディングの財務管理権は全てベクター・ホールディングスの監視下に置かれる。我々の許可なく、一ルピアたりとも動かすことは許されない。そして……」


彼は鋭い視線で父を射抜いた。


「……我々は第三者の介入を好まない。ダルヴィアン・トレーディングに伝えろ。彼らの救済案ベイルアウトはもう不要だと。追い払え」


心臓が一瞬、完全に止まった。


ダルヴィアン? レイ?


この男は……この会社は……。


今、盤上からレイを弾き出したのか?


父は衝撃を受けた様子で顔面蒼白だったが、その瞳には狂おしいほどの希望が宿っていた。


突然現れた死神が、サンタクロースに変貌したかのような顔でレオンハルトを見つめている。


「ということは……私はもう……娘を……」


父は一瞬私の方へ視線を向け、すぐにレオンハルトへと戻した。


レオンハルトは、父の視線を追わなかった。


彼はまっすぐ前を見据えたまま、私の存在を完全に無視し続けた。


「貴殿の家庭のドラマなど、我々の知ったことではない、ラフリ殿。我々が関心があるのは資産だけだ。ダルヴィアンのような安っぽい合併工作で、我々の資産を汚されたくないだけだ」


レオンハルトはアタッシュケースを閉じた。


カチッ。


「譲渡書類にサインを。明日の朝、我々の監査チームが来る。部屋を用意しておけ」


答えを待つことなく、レオンハルトは背を向けた。


彼は来た時と同じ速度で歩き出す。効率的で、一切の無駄がない。


私の横を通り過ぎる時、私は息を止めた。


距離はわずか一メートル。彼の纏う、冷たく鋭い高級コロンの香りが鼻を突いた。


彼は私のすぐ横で、一瞬だけ足を止めた。


心臓が早鐘を打つ。私に何か言うのだろうか? 父の借金の代わりに、私に何かを要求するつもりなのだろうか?


だが、レオンハルトは振り向きもしなかった。


彼はただ、シャツの袖口のボタンを整えると、そのままドアの外へと歩み去った。


「失礼する」


無機質な声が、誰もいなくなった部屋に響いた。


ドアが閉まる。


バタンッ


再びCEO室に沈黙が訪れた。


けれど、今度の沈黙は先ほどとは違っていた。死の気配ではなく、身の毛もよだつような困惑の空気。


父は椅子に崩れ落ち、ベクター・ホールディングスの分厚い書類を膝に抱えた。


そして、狂ったような、ヒステリックな笑い声を漏らした。


「助かった……助かったんだ……」


父がうわ言のように繰り返す。


「レイ……レイなんて、もう必要ない……」


私はまだ、部屋の隅で立ち尽くしていた。足が激しく震えている。


レイは、父の借金に対する支配権を失った。


あの婚約の……最大の理由が、今、跡形もなく燃え尽きたのだ。


けれど、安堵感は長くは続かなかった。


レオンハルトが消えた閉まったドアを見つめる。


ベクター・ホールディングスとは何者なのか? なぜ、沈みゆく泥舟を救ったのか? 彼らの狙いは何だ?


まるでワニの口を逃れた直後に、正体不明のライオンの檻に放り込まれたような気分だった。


「エラ!」


父が突然、活力を取り戻した声で呼んだ。


「聞いたか? 私たちは助かったんだ! 家も守られたんだぞ!」


私は虚ろな目で父を見つめた。


彼は、新しい主人が誰であるかなど気にも留めていない。自分が助かりさえすれば、それでいいのだ。


私は答えなかった。


背を向け、足早に部屋を出た。新鮮な空気が欲しかった。考えを整理しなければならなかった。


静まり返った廊下で、私は壁に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。


レイは負けた。


けれど、なぜだろう。あのグレーのスーツの男の残像が、何よりも恐ろしかった。


この介入はあまりにも唐突で、あまりにも……魔法のようだった。


混乱の渦中で、一つの顔が脳裏をよぎった。


ディオ。


なぜだろう、昨夜の彼の言葉がリフレインする。


一晩で世界がひっくり返ることもある。


「……まさか」


私は首を強く横に振った。


ディオはただのカフェのオーナーだ。


コーヒーを淹れるのが上手で、娘を愛している、ただのシングルファーザーだ。


そんな彼が、ベクター・ホールディングスのような巨大な怪物と関係があるはずがない。


サスキアの突飛な想像が、私にまで伝染してしまったに違いない。


けれど、昨夜のディオの瞳に宿っていたあの静かな確信と、先ほどのレオンハルトの冷徹な眼差しを思い出すと……。


全身の産毛が逆立つような感覚に襲われた。


一体誰が、私の運命を弄んでいるのだろう。


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