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第35章 黄金の鎖

挿絵(By みてみん)


まぶたの裏に砂をまかれたような、ざらついた痛みが走る。


昨夜から一睡もできていない。


瞬きをするたびに、こめかみの奥で金槌が頭蓋を叩くような、鈍い痛みがリズムを刻んでいる。


私は学校の廊下に立ち、塗装の剥げかけたコンクリートの柱に背を預けた。


休み時間のチャイムが鳴り響き、子供たちの騒ぎ声が遠くの羽音のように聞こえる。


午前十時のジャカルタは、すでに湿った熱気に包まれていた。


埃の匂いと、食堂から漂う油の匂いが混じり合い、肺を圧迫する。


その喧騒を切り裂くように、一人の男が校門をくぐってきた。


仕立ての良いサファリ服に身を包んだその姿は、サンダル履きの保護者たちの中で異様に浮いている。


男は軍隊のような正確な足取りで歩き、鋭い視線で周囲をなめた。


そして、私の前でピタリと足を止める。


「エララ・ドウィジャヤ様ですね?」


低く、事務的な声だった。


私はただ、力なく頷くことしかできない。


男は無言で、金色の大きな封筒を差し出してきた。


厚手の紙に施された繊細なエンボス加工。


中央には、ダルヴィアン家の紋章が刻印された赤い封蝋が、傲慢に私を見下ろしている。


男はそれを受け取らせると、背を向けて去っていった。


手の中にあるその封筒は、太陽の光を反射して眩しく輝いている。


高級な紙のはずなのに、それはまるで鉛の塊のように重かった。


バサッ


食堂の隅、マンゴーの木の下にある古びたテーブルに封筒を放り出した。


サスキアはビニール袋に入ったアイスティーを混ぜる手を止め、目を丸くしている。


「何よそれ、ラ。どこの王様からのラブレター?」


冗談めかした口調だが、彼女の瞳には隠しきれない不安が揺れていた。


私は答えず、ただ椅子に深く沈み込む。


サスキアが身を乗り出し、封筒の文字を読み取った。


「ダルヴィアン……」


彼女の声が震え、顔から血の気が引いていくのがわかった。


「開けなさいよ、ラ。はっきりさせなきゃ」


震える指先で、私は封蝋を引き剥がした。


中から現れたのは、ベルベット素材の招待状だった。


『婚約ガラディナー 土曜夜』


都心の五つ星ホテルの名前と共に、エララ・ドウィジャヤとレイ・ダルヴィアンの名が並んでいる。


金色のインクが、目を刺すように鋭く光った。


「土曜の夜? あと三日しかないじゃない! 正気なの?」


サスキアの叫び声が、遠くで響いている。


私にとって、これは招待状などではない。


すでに署名され、執行を待つだけの死刑執行令状だ。


「選択肢なんて、最初からなかったのよ、キア」


私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「でも、また逃げられるでしょ? アルナさんの家に行くとか、どこかに隠れるとか……」


「無理よ」


私は彼女の言葉を遮った。


「母さんが切り札を使ったの。……父さんよ」


サスキアが絶句する。


彼女は知っているのだ。父の健康状態のことになると、私がどれだけ弱いかを。


どんなに反抗的な態度をとっていても、私は親が壊れていくのを見ていられない出来損ないの娘なのだ。


私はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。


指が勝手に、連絡先の一番上にある名前を選択してしまう。


プルル、プルル、プルル……


呼び出し音が鳴るたびに、心臓の鼓動が遅くなっていく気がした。


学校の裏手、カビ臭い体育倉庫の影に身を潜める。


積み上げられた壊れた椅子と、屋根の上で鳴く雀の声だけがそこにあった。


「……もしもし? エラ?」


電話の向こうから、弱々しい声が聞こえた。


一語ごとに重い呼吸が混じる。父の声だ。


「お父さん……エラよ」


沈黙が流れる。


父が大きな事務机に座り、支払えない請求書の山に囲まれている姿が目に浮かんだ。


「エラ……どこにいるんだ。帰ってきなさい……」


父の声が震えている。


そこには深い後悔と、それ以上に醜い「諦め」が混ざっていた。


「お父さん、本当に具合が悪いの? 母さんの嘘じゃないの?」


父は短く咳き込んだ。


「すまない、エラ……。会社を守れなかった。お前を守れなかったんだ」


私は唇を強く噛み締めた。喉の奥からせり上がる嗚咽を必死で抑え込む。


「レイ君と話したよ。彼は、土曜の夜の儀式が終われば、すべての負債を肩代わりすると約束してくれた」


父は言葉を切った。その呼吸の音が、鋭い刃物のように私の胸を切り裂く。


「これしか道がないんだ、エラ。お父さんにはもう、他に方法がないんだ。……一度だけでいい、助けてくれ」


ドクンッ


その言葉が、私の希望の最後の一片を叩き潰した。


「……私を、売るつもりなの?」


「売るんじゃない! レイ君は立派な青年だ、お前を幸せにしてくれる……」


「もういいわ、お父さん」


私は一方的に通話を切った。


力が抜け、腕がだらりと身体の横に垂れ下がる。


掌の中のスマートフォンが、氷のように冷たかった。


底知れない虚無感が、全身の細胞を侵食していく。


海水がゆっくりと陸地を飲み込んでいくように、悲しみがすべての感情を塗りつぶした。


倉庫の荒い壁に頭を預け、広い青空を見上げる。


世界は回り続けている。


校庭では子供たちが笑い、太陽は残酷なほど輝いている。


けれど、私の世界だけが、今この瞬間に停止した。


ザッ、ザッ。


重い足取りで校舎へ戻る。


すれ違う人々が、ただのぼやけた影のように見えた。


挨拶も、微笑みも、今の私には届かない。


脳内では、一つの計画が組み立てられ始めていた。


逃亡の計画ではない。完全な降伏の計画だ。


今夜、ブラウィジャヤの家に戻らなければならない。


彼らが選んだドレスを着て、レイの隣に立ち、カメラの前で微笑む。


父の命を繋ぎ止めるために、母の虚栄心を守るために、腐りきったドウィジャヤの名を守るために。


私は私自身を差し出すのだ。


代償は私の自由。代償は私の未来。


教室の前にたどり着き、崩れ落ちないようにドアの枠を掴んだ。


その時、遠くの芝生の広場に、一人の少女の姿が見えた。


ライラ。


彼女は二つ結びの髪を揺らしながら、ボールを追いかけて走り回っている。


あどけない、純粋な笑い声がここまで聞こえてきそうだ。


そして、私の脳裏に、その少女の背後にいつも立っている男の姿が浮かんだ。


ディオ。


凍えそうな私に温かいチョコレートを差し出してくれた、穏やかな瞳の男。


何も持たない私に仕事を与え、資産ではなく一人の人間として扱ってくれた人。


胸が締め付けられるように痛む。


鋭い破片が心臓を突き刺したような、激しい痛みだ。


今夜は、あのカフェの二階での家庭教師の予定がある。


気づいてしまった。


涙が溢れ、止めることができない。


今夜が最後になるかもしれない。


ディオの目を、恥じることなく見つめることができるのは。


「レイ・ダルヴィアンの所有物」に成り下がる前の、彼が敬意を払ってくれた「先生」でいられるのは。


手の甲で乱暴に涙を拭った。


キーン、コーン、カーン、コーン。


授業再開を告げるチャイムが鳴る。


私は深く息を吸い込み、人生で最も不自然な「営業スマイル」を顔に貼り付けた。


そして、教室へと一歩を踏み出す。


土曜日に私の世界が終わるとしても。


今日この数時間だけは、まだ魂を持っているふりができるはずだから。


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