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第33章 資産の証明

挿絵(By みてみん)


部屋の隅で扇風機が、単調できしんだ音を立てて回っている。


そこから送られてくる風は生温く、ただ湿った空気をかき回すだけだ。


肌をなでるだけで、涼しさは微塵も感じられない。


塗装の剥げかけた壁に背を預け、私は座り込んでいた。


仕事着の白いブラウスは、まるで首を絞める鎖のように窮屈に感じられる。


今朝、職員室で感じた恐怖の残滓が、汗よりも色濃く肌に張り付いていた。


黒いバラと白いユリの残像が、頭の中で渦を巻く。


あの吐き気を催すような甘い香りが、鼻の奥にこびりついて離れない。


レイ・ダルヴィアンがどこまでも追いかけてくるのだと思い知らされる。


私はくたびれた靴の先を見つめた。


傍らに放り出された仕事鞄からは、ディオから渡された白い封筒が覗いている。


それは自由への切符のはずだったのに、今は私を嘲笑う重荷でしかなかった。


ブー、ブー


床の上で携帯電話が激しく震え、タイルに不快な唸りを響かせた。


画面に表示された文字に、私の血の気が引いていく。


『母』


そのまま放置し、震えが止まるのを待った。


心の準備なんてできていないし、あの要求ばかりの声を聞く準備が整うことなど一生ない。


しかし、わずか三秒後、携帯がさらに激しく鳴り響いた。


肺が押し潰されそうな感覚を覚えながら、私は深く息を吸い込んだ。


震える指で、緑色のボタンをスライドさせる。


「……もしもし、お母さん」


電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。


怒鳴り声も罵倒もない。ただ、重く途切れがちな呼吸の音だけが聞こえる。


「エララ……」


母の声はひどく弱々しく、喘ぐようだった。


社交界の友人たちの前で同情を買う時に使う声に似ているが、それよりもずっと暗い。


「お父様が……また倒れたわ。書斎で意識を失ってしまったの」


私は強く目を閉じた。携帯を持つ手が小刻みに震え始める。


「嘘よ。昨日、レイは言ってたわ。私が言うことを聞きさえすれば、お父さんは大丈夫だって」


「嘘なものですか!」


母の声が一瞬だけ鋭くなり、すぐにすすり泣きへと変わった。


「あの方はあなたの名前を呼び続けているわ。血圧もひどく高いの」


「医者はストレスを与えてはいけないと言っているけれど、そんなの無理に決まっているでしょう?」


「自分の娘が、ふしだらな女のように家を逃げ出したというのに」


ドクン、と心臓が跳ねた。


ふしだらな女。自分の人生を自分で決めたいと願っただけで、そんな言葉を投げつけられる。


「私は逃げ出したんじゃない、お母さん! ただ、息がしたかっただけよ!」


思わず叫んでいた。熱い涙がこみ上げ、視界が歪む。


三歩歩けば壁に突き当たる狭い部屋の中を、私はうろうろと歩き回った。


「息? あなたが息をしたいと言っている間に、父親は命を懸けて戦っているのよ?」


母の声は、今や剃刀のように鋭い囁きに変わっていた。


「今夜、お父様に何かあれば、それはすべてあなたのせいよ、エララ。あなたのわがままが、あの方を殺すの」


「どうして……どうしていつも私のせいなの!?」


私の声は悲鳴のように裏返った。母は低く笑った。


その乾いた笑い声に、背筋が凍りつく。


「決まっているでしょう。あなたが……この家の面目を保つために残された、唯一の資産だからよ」


資産。


娘ではない。人間でもない。


ただ、バランスシート上の、ただの換金対象でしかないのだ。


「……お母さんなんて、大嫌い」


「好きに嫌いなさい。でも、今夜中に帰りなさい。七時にレイが迎えに行くわ」


「その薄汚いアパートの前にいなさい。もし姿がなければ、明日、この家の前に葬儀の案内が立っても私を責めないで」


プツリ、と通話が切れた。


暗くなっていく画面を見つめたまま、私の指から力が抜けていく。


携帯電話が、折り畳み式のマットレスの上に力なく落ちた。


ガチャン!


私はテーブルの上にあったプラスチックのコップを掴み、ドアに向かって投げつけた。


割れることもなく、ただ滑稽に跳ね返っただけだったが、その音は胸のつかえをわずかに散らしてくれた。


私は床に崩れ落ち、膝の間に顔を埋めた。


嗚咽が、埃っぽい部屋の中に満ちていく。


袋の鼠となり、出口を完全に塞がれたような絶望感だった。


「エララ!? 嘘でしょう、エララ!」


表のドアが乱暴に開いた。サスキアが息を切らして立っている。


買い物袋を床に落とし、彼女は真っ直ぐ私のもとへ駆け寄ってきた。


「どうしたの? またお母さん? それともあの最低なレイの仕業?」


「お父さんが……倒れたって。私が帰らないと、人殺しになるって言われたわ」


泣きじゃくりながら、私は断片的な言葉を吐き出した。


「私はただの……資産なんだって」


サスキアは私を強く抱きしめた。彼女の体が怒りで震えているのが伝わる。


「あいつら、悪魔よ。信じられない。自分の子供にそんなことを言う親がどこにいるの?」


「どうすればいいの、サスキア……。お父さんを見殺しになんてできない」


私は顔を上げ、腫れ上がった目で彼女を見つめた。


「でも、あそこには戻りたくない。レイと結婚なんて、絶対に嫌なの」


サスキアは親指で私の涙を拭った。


「まだ諦めちゃだめ。他の道を探そう。アルナさんに電話して、それか――」


「だめよ」


私は弱々しく首を振った。


「お姉ちゃんには自分の生活がある。妊娠もしているの。これ以上、あの地獄に引きずり込みたくない」


私はサスキアの腕から離れ、這うようにして仕事鞄へ向かった。


ディオから受け取った封筒を取り出す。四百万ルピア。


「このお金……何の意味もなかったわ」


封筒を見つめながら、私は力なく笑った。


「レイは億単位の金を持っている。お父さんの命を金で買える。私にはこれしかないのに」


サスキアは私の隣に座り、私の肩に頭を預けた。


「ディオさんに連絡しようか? 彼なら、きっと助けてくれるわ」


「だめ、絶対に」


私は強く拒絶した。


「あの人を巻き込まないで。ディオさんは良い人なの。ライラちゃんもいる。私の家の汚い問題に関わらせたくない。レイは危険すぎるわ」


ディオの穏やかな顔を思い浮かべる。


その記憶は、今や遠い夢のようだった。救急車のサイレンで無理やり起こされる前の、美しい夢。


私は再び携帯を手に取った。


ディオから未読のメッセージが届いている。


『ディオ:ライラがずっと、いつ先生が来るのかって聞いてるよ。新しい絵を見せたいんだって』


胸が締め付けられるように痛んだ。


嘘で返すことも、ライラを失望させることも耐えがたい。


けれど、彼らをこの混乱に引きずり込むことはもっと耐えられなかった。


視界が涙で滲む中、私は返信を打ち込んだ。


『私:ごめんなさい、ディオさん。今夜は伺えそうにありません。急な家族の問題ができてしまって。ライラちゃんに謝っておいてください』


送信ボタンを押す。


カチッ


それは、大海原の真ん中で最後の命綱を自ら切ったような音だった。


「……本当に行くの?」


サスキアが消え入りそうな声で尋ねた。


私は答えず、ただ目の前のくすんだ壁を見つめていた。


隙間から差し込んでいた夕日はすでに消え、不吉で長い影が部屋に色濃く落ちている。


時計の針は刻一刻と、七時へのカウントダウンを刻んでいた。


私は機械的な動きで立ち上がった。


「シャワーを浴びてくるわ」


虚ろな声で言った。


「あいつらの前に、みすぼらしい姿で出たくないから」


サスキアは立ち上がり、絶望に満ちた目で私を見つめていた。


私は彼女を無視して浴室へ向かった。


蛇口をひねると、プラスチックの桶に水が当たる激しい音が響いた。


バシャッ!


冷たい水を、何度も何度も頭から被った。


この痛みが、胸の奥の苦しみを凍らせてくれることを願って。


弱いエララという存在を洗い流し、何も感じない人形に変えてくれることを願って。


曇った鏡の中に映る自分の顔を凝視する。


「あなたはただの資産よ、エララ」


鏡の中の自分に、冷たく言い聞かせた。


「役割を果たしなさい」


浴室を出て、くたびれたタオルで髪を拭く。


スーツケースを開け、持ってきた中で一番まともな服を選んだ。


かつて、格式高い場所へ行く時に着ていたシンプルなドレスだ。


サスキアはソファに座り、空虚な目で私を見つめていた。


彼女はもう、私を止めようとはしなかった。


私がこの「冷たい」顔をした時は、誰の言葉も届かないことを知っているからだ。


十八時三十分。


準備は整った。髪を整え、泣き腫らした跡を隠すために薄く化粧を施した。


私はハンドバッグを強く握りしめ、アパートのドアの前に立った。


外では車の通りが減り、辺りは不気味な静寂に包まれている。


ブー。


携帯が再び震えた。ディオからだ。


『ディオ:分かった。問題が早く解決することを祈ってる。何か助けが必要なら、いつでも電話して。いつでもだ』


そのメッセージを、私は長い間見つめていた。


画面の上に指を置き、「助けて」と打ち込みそうになる。


けれど、私はそれを消去した。


携帯をバッグにしまい込む。


路地の奥から、高級車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。


重厚で傲慢なその音は、近所の住民が乗る安物のバイクの音とはあまりにも対照的だった。


ヘッドライトの光が窓をなめ、壁に巨大な影を落とす。


レイが来た。


私は背後に立つサスキアを振り返った。


「ありがとう、サスキア。こんな形で行くことになって、ごめんね」


彼女は答えなかった。ただ、これが最後であるかのように、私を強く抱きしめた。


私はその腕を振りほどき、外へ踏み出した。


門の前には、黒いセダンが待ち構えていた。


レイは助手席のドアの横で、自信に満ちた様子でボンネットに寄りかかっている。


彼はサングラスを外し、近づいてくる私を見て口角を上げた。


「時間通りだ」


レイが言った。


「自分の立場をわきまえている女は好きだよ」


彼は恭しくドアを開けた。


私は二度とアパートを振り返ることなく、車に乗り込んだ。


ドアの前に立ち、涙を流しているサスキアの姿を見ることもなかった。


バタンッ


ドアが閉まると、レイの鼻を突くような香水の匂いが車内に充満した。


車がゆっくりと動き出し、狭い路地を抜けていく。


窓の外を流れる街灯を見つめながら、私は自分に言い聞かせた。


私はブラウィジャヤへ向かっている。


借金と見栄によって築かれた、家という名の黄金の牢獄へ。


私は目を閉じ、最後に一度だけライラの顔を思い浮かべた。


(ごめんね、ライラちゃん)


心の中で呟く。


(先生はもう、会いに行けないわ)


車は速度を上げ、冷え切ったジャカルタの夜を切り裂いて走っていった。



Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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