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第32章 弔いの花

挿絵(By みてみん)


昨夜、アルナ姉さんの家で響いていた笑い声の余韻が、まだ耳の奥に残っている。


デポックの小さな家で感じた温もりは、まるで数分前の出来事のように鮮明だった。


しかし、現実は容赦なく私を引き戻す。


ジャカルタの朝の空気はすでに熱を帯び、排気ガスと埃の匂いが鼻をつく。


サスキアのスクーターの後部座席から降りると、私は通勤で少し皺になった仕事用のスカートを丁寧に整えた。


「頑張って、自由の女神様!」


サスキアがヘルメットを脱ぎながら、明るい声でウィンクを飛ばしてくる。


私は力なく微笑み、肩にかけたバッグの位置を直した。


胸の奥には、奇妙な浮遊感があった。


昨夜の逃亡劇は、まるで新しい空気を吹き込まれたかのように、私の肺を新鮮な空気で満たしてくれていた。


私たちは並んで校門をくぐった。


廊下はすでに登校してきた子供たちの甲高い叫び声で溢れかえっている。


床用洗剤の化学的な匂いと、食堂から漂うココナッツライス(ナシ・ウドゥク)の香ばしい湯気。


いつもの日常。いつもの学校。


そう思っていた。


職員室のドアに手をかけ、押し開けるその瞬間までは。


一歩足を踏み入れた途端、私の晴れやかだった心は、瞬時に鉛色の雲に覆われた。


何かが、おかしい。


普段の職員室なら、安っぽいインスタントコーヒーの甘い匂いと、古びた紙の埃っぽい匂い、そしてダルミ先生がつけすぎているジャスミンの香水の匂いが混ざり合っているはずだ。


けれど今朝は違った。


ある一つの強烈な香りが、部屋の空気を完全に支配していた。


甘ったるく、重く、そしてどこか冷ややかな香り。


それは、葬儀場や墓地でしか嗅ぐことのない、死を連想させる芳香だった。


濃厚なユリの甘さと、鼻を突くようなバラの香り。


私は入り口で足を止めた。


「ラ? どうしたの?」


背後からサスキアが顔を覗き込む。


次の瞬間、彼女が息を呑む音が聞こえた。


「ヒッ……」


部屋の中央。


いつもなら出席簿の束とプラスチックのボトルしか置かれていない私の粗末なデスクの上に、とてつもなく不吉な「それ」が鎮座していた。


巨大なスタンド花だ。


開店祝いに贈られるような華やかなものではない。


黒いベルベットのような大輪の黒薔薇と、完璧に開花した純白のユリ。


それらが背の高いスタンドに飾られ、私の椅子が見えなくなるほどの威圧感を放っている。


それは間違いなく、葬儀用の供花だった。


ザワ、ザワ……


部屋の隅で、年配の教師たちがひそひそと話しているのが聞こえる。


体育教師のアセップ先生は、コーヒーカップを持ったまま、呆然と私と花を交互に見つめていた。


サスキアが私の腕を強く掴んだ。彼女の指先が冷たくなっている。


「エラ……あれ、何?」


答えられなかった。


足が鉛のように重い。


私は視線を集めながら、ゆっくりと自分のデスクへと歩み寄った。


近づくにつれ、花の香りが暴力的に鼻腔を侵食してくる。


周囲の空気がすべて、この死の香りに塗りつぶされてしまったかのようだ。


黒薔薇の棘の間に、一枚のカードが挟まれていた。


クリーム色の上質な紙に、金色の縁取りが施された高級なカード。


蛍光灯の光を反射して、不気味に輝いている。


サスキアが横から手を伸ばし、私より先にそのカードをひったくった。


彼女の手が激しく震えている。


「なんてこと……」


サスキアの唇から、悲鳴のような囁きが漏れた。


彼女はカードを私に突きつけた。


私は視線を落とした。


そこには、太く、流れるような金色のインクで、こう書かれていた。


『エララ、君の自由の終焉に、心からの哀悼を。結婚式で会おう』


そしてその下には、傲慢さを誇示するかのような力強い筆致で、差出人の名前が記されていた。


レイ・ダルヴィアン


カタッ


私はカードを机の上に落とした。


胃の底に、巨大な氷の塊を飲み込んだような感覚が走る。


冷たく、鋭く、内臓を凍らせていく。


これは単なる悪趣味な贈り物ではない。


宣戦布告だ。


レイは知っているのだ。


私がどこで働いているか。どうすれば同僚の前で私を辱められるか。


そして何より、昨夜の逃亡劇など、彼にとってはほんの少しの余興に過ぎないということを。


「最低……」


サスキアが低い声で唸った。怒りで声が震えている。


「あいつ、これが面白いと思ってるの? 学校に葬式の花を送りつけるなんて、正気じゃないわ!」


私は無言のまま、黒い薔薇を見つめていた。


脳裏には、この花を注文した時のレイの薄ら笑いが浮かんでいた。


彼は私に伝えたかったのだ。


『お前に隠れ場所などない。お前は常に、俺の手のひらの上にいる』と。


「あらあら、まあまあ。朝から随分とドラマチックなこと」


甘ったるい、けれど棘のある声が響いた。


振り返らなくても分かる。


ダルミ先生だ。


彼女は愛用の白檀の扇子をパタパタとあおぎながら、ゆっくりと近づいてきた。


私のデスクの横で立ち止まると、わざとらしく鼻をつまんで顔をしかめる。


「エララ先生。ここは神聖な学び舎であって、葬儀場ではありませんのよ」


分厚い眼鏡の奥から、冷ややかな視線が私を射抜く。


「このお花、大変目障りですわ。それにこの匂い……ああ、頭痛がしてきそう」


私は乾いた唾を飲み込んだ。


「申し訳ありません、ダルミ先生。私も……こんなものが届くとは知らなくて」


ダルミ先生は鼻を鳴らした。


彼女の目は、軽蔑と、そして隠しきれない嫉妬の色を帯びて、豪華な花束を値踏みしている。


「最近の若い先生は、本当に奔放でいらっしゃること。プライベートな痴話喧嘩を職場に持ち込むなんて。保護者の方々がご覧になったら、何とおっしゃるか」


パチンッ


彼女は扇子を閉じた。その乾いた音が、静まり返った職員室に響き渡る。


「すぐに片付けていただけます? 校長先生の目に触れる前に。ここは教育機関ですのよ。あなたの……その、少々不気味な恋愛劇を披露する劇場ではありませんから」


ダルミ先生は顎を上げ、香水の匂いを撒き散らしながら自分の席へと戻っていった。


彼女の背中を見送りながら、私は身が縮む思いだった。


他の教師たちがパソコンに向かいながら、横目でこちらを盗み見ているのが分かる。


「気にしないで、ラ」


サスキアが私の肩を抱き寄せた。


「あのババア、誰からも花なんて貰ったことがないから嫉妬してるだけよ。たとえそれが呪いの花束だとしてもね」


私は引きつった笑みを浮かべようとしたが、顔の筋肉が麻痺したように動かなかった。


深く息を吸い込み、喉元までせり上がってくる吐き気を必死に抑え込む。


「キア……これを捨てるのを手伝って。裏のゴミ捨て場まで」


「捨てるの? もったいない。これ、本物の黒薔薇よ? 数百万ルピアはするわよ」


私は冷え切った目でサスキアを見た。


「一秒たりとも、目に入れたくないの」


サスキアは私の覚悟を悟り、真剣な顔で頷いた。


私たちは二人掛かりで、その巨大なスタンド花を引きずり出した。


茎の棘が私の掌に刺さり、鋭い痛みが走る。


けれど、胸の中で渦巻く屈辱感に比べれば、そんな痛みは何でもなかった。


私たちは裏口から出て、体育倉庫の裏にあるゴミ集積所へと向かった。


ドサッ!


豪華な花束は、無残な音を立ててゴミの山の上に転がった。


黒い花弁が、古びたプラスチックゴミや埃の中に散らばっていく。


私はしばらくそこに立ち尽くし、まだ花の中に残っていた金色のカードを見つめていた。


レイ・ダルヴィアン。


あの男は、高級スーツを着た悪魔だ。


「行こう、ラ。もうすぐ予鈴が鳴る」


サスキアが私の背中を押した。


私は機械的に頷き、職員室へと戻った。


自分の席に座り、出席簿を開く。


視界から花は消えたはずなのに、あの甘ったるい死の匂いが鼻の奥にこびりついて離れない。


ブーッ、ブーッ


机の上に置いていたスマートフォンが震えた。


心臓が跳ね上がる。


レイか?


『気に入ってくれたかい?』とでも聞いてくるつもりか?


恐る恐る画面を見る。


表示された名前は、レイではなかった。


『お母様』


WhatsAppの通知が一件。


震える指で、メッセージを開く。


インディラ・ドウィジャヤ:


『今夜、帰ってきなさい。お父様がまた倒れました。あなたのことばかり心配して、心労が重なったのです。あなたは、自分の父親を死に追いやる親不孝者になりたいのですか?』


カタンッ


スマートフォンが手から滑り落ち、机に当たった。


脅迫。


それは単なる怒りのメッセージではない。母が私を支配するために使う、最後の切り札だ。


母は知っているのだ。父が私の唯一の弱点であることを。


私が、父に万が一のことがあった時、その罪悪感に耐えられない人間であることを。


私は椅子の背もたれに深く沈み込み、薄汚れた天井を見上げた。


完璧な挟み撃ちだ。


レイは職場で私の尊厳を攻撃し、母は家から私の良心を攻撃する。


彼らは結託して私を追い詰め、息つく暇さえ与えないつもりだ。


「ラ? 大丈夫? 顔色が真っ白よ」


サスキアが心配そうに覗き込んでくる。


私は答えられなかった。


ただ、明滅するスマートフォンの画面を見つめていた。


その光は、昨夜手に入れたばかりの私の自由に対する、死刑宣告のように見えた。


キーンコーンカーンコーン……


始業のチャイムが鳴り響く。


その音は、私の頭の中で警鐘のように反響した。


行かなければならない。


教壇に立ち、子供たちの前で「優しいエララ先生」を演じなければならない。


ライラに笑顔を向けなければならない。


彼女の父親が、私の知らないところで必死に私を守ろうとしてくれていることなど、おくびにも出さずに。


私は立ち上がり、マーカーと教科書を掴んだ。


「教室に行くわ、キア」


声は、驚くほど平坦だった。


「ラ、もし辛かったら、私が代わるから……」


「大丈夫」


私は嘘をついた。


職員室を出て、廊下を歩き出す。


一歩進むたびに、足元が崩れていくような感覚がした。


私は教室へ向かっているのではない。


家族という名の処刑台へと、自らの足で歩いているのだ。


Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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