第31章 琥珀色の砦
――― エララ ―――
夕刻の重たい空気を切り裂くように、ディオの白いハッチバックがカフェ・アルクスの前に滑り込んだ。
車を降りると、アスファルトから立ち上る雨上がりの湿った匂いが、焙煎されたばかりのコーヒーの香りと混ざり合って鼻を突く。
両手に抱えた紙袋には、今日買ったばかりの数冊の参考書と、ライラの新しいコミックが詰まっていた。ずっしりとしたその重みが、なぜか心地よい。
「せんせーい、早く!」
ライラが新しい本を胸に抱きしめ、弾むような足取りで入り口へと駆けていく。
セノパティの街をオレンジ色に染める夕日が、彼女のうさぎのカチューシャを琥珀色に縁取っていた。
チリンッ
ドアベルの乾いた音が響く中、高揚した気分のまま私たちは店内に足を踏み入れた。
店内は夕食前の穏やかな賑わいを見せていた。だが、窓際のいつもの特等席に目を向けた瞬間、私の心臓がどきりと跳ねた。
「……嘘」
そこにいたのは、あまりにも見慣れた、そして今この場所で最も会うはずのない二人。
アルナ姉さんと、ナサン義兄さんだ。
姉さんは私と目が合うなり、不敵な笑みを浮かべて派手に手を振った。義兄さんは落ち着いた様子でコーヒーを啜っていたが、私の姿に気づくと、眼鏡の奥の目を細めて優しく微笑んだ。
「お姉ちゃん? それにナサンさんも……どうしてここに?」
私は紙袋を抱え直したまま、困惑と気恥ずかしさが混ざり合った足取りで彼らのテーブルへと近づいた。ライラも不思議そうに、その大きなグレーの瞳を二人に向けている。
姉さんは立ち上がり、私の頭の先からつま先までを、まるでスキャナーで舐めるように見つめた。サスキアに無理やり着せられたセージグリーンのドレスに視線が止まった瞬間、彼女の瞳に邪悪なまでの輝きが宿る。
「あらあら、見て。誰かと思えば、デート帰りのシンデレラじゃない」
「お姉ちゃん、変なこと言わないで。これは……ただの家庭教師の延長で、本屋さんに行っていただけよ」
言い訳をすればするほど、頬が熱くなっていくのがわかる。
背後から、残りの荷物を抱えたディオが追いついてきた。彼は私の隣で足を止め、テーブルの二人を静かに、しかし鋭く観察した。
「ディオさん、紹介します。姉のアルナと、義兄のナサンです」
私は少し硬い声で紹介した。
ディオは即座に表情を和らげ、丁寧に頭を下げた。
「ディオ・アトマンタです。いつもエララ先生には大変お世話になっております」
ナサン義兄さんが立ち上がり、ディオの手をしっかりと握り返した。
「ナサンです。エララからこのお店のことはよく聞いていましたが、ようやく伺えました。素晴らしい雰囲気ですね」
姉さんが私の脇腹を肘で小突いた。耳元に熱い吐息を感じながら、鋭い声で囁かれた。
「ねえ、エラ。これがあんたが家出までして守りたかった『理由』? 私でも、こんなのが家で待ってるなら、二度とブラウィジャヤには帰らないわね」
「お姉ちゃん、黙って! 恥ずかしいから!」
私は姉さんの口を手で塞ぎたい衝動を必死に抑えた。
私たちは円卓を囲むようにして座った。ライラは私と姉さんの間に陣取り、さっそく手の甲の星のステッカーを自慢げに見せびらかしている。
「私、算数で百点取ったの! それでパパと先生が本を買ってくれたんだよ!」
「まあ、すごいのね。先生の教え方が上手なのね?」
姉さんがライラの頭を撫でながら、私に意味深な視線を送る。
「うん! 先生はとっても優しいの。パパみたいに怖くないし!」
テーブルに笑いが弾けた。ディオは苦笑いしながら、ナサン義兄さんと経済の話を始めた。
驚いたのは、ディオが義兄さんの専門的な話に、ごく自然についていっていることだった。デジタル経済の動向や、ローカルビジネスの生態系。義兄さんは滅多に他人を褒めない主義だが、ディオの言葉に何度も深く頷いている。
「ビジネスの本質は人間ですよ、ナサンさん」
ディオがコーヒーを一口啜り、静かに語った。
「数字だけを追いかけて、周囲のコミュニティを忘れたビジネスは、ただの壊れかけの機械と同じです。いつか必ず、油切れで止まってしまう」
「その通りだ。今のジャカルタには、その『魂』を忘れた経営者が多すぎる」
義兄さんの声には、確かな敬意が混じっていた。
私は横でその様子を眺めながら、胸の奥が誇らしさで熱くなるのを感じた。この人は、高い教育を受けた義兄さんと対等に渡り合っている。ブランド物のスーツも、派手な肩書きも必要ない。彼の言葉そのものに、揺るぎない知性と品格が宿っているのだ。
窓の外では、夜の帳が静かに降りていた。カフェの照明が一段落とされ、琥珀色の光が店内に満ちていく。
ふと見ると、ライラの頭が私の肩にこっくりと預けられていた。はしゃぎ疲れたのだろう、彼女の呼吸は既に一定のリズムを刻み、長い睫毛が微かに震えている。
「あら、電池切れね」
義兄さんが声を潜めて笑った。
ディオがすぐに立ち上がり、テーブルを回って私たちの側へ来た。
「失礼します」
彼は流れるような動作で屈み、ライラの小さな体を抱き上げた。その手つきは驚くほど優しく、そして迷いがない。ライラを自分の肩に預け、背中をトン、トン、と一定のリズムで叩く。
姉さんがその光景をじっと見つめていた。その瞳には、からかいではない、もっと深い……母親のような温かい色が浮かんでいる。
「エラ、ディオさん……。あなたたち、まるで何年も連れ添った夫婦が、家族旅行から帰ってきたみたいに見えるわよ」
ドクンッ!
心臓が跳ねた。耳の先まで一気に熱が駆け上がる。
「お姉ちゃん、本当にやめてってば……」
私は俯き、バッグのストラップを弄ることで動揺を隠そうとした。
ディオは否定しなかった。彼はただ、眠る娘を抱きかかえたまま、静かに微笑んでいた。
「ライラを上に運んできます。ヤニさんが待っていますから」
ディオが階段の方へ消えていくと、姉さんが私の手を強く握りしめた。
「エララ、分かってる?」
「何が?」
「あの人は知ってるわよ。あんたが家を追い出されたことも、今追い詰められていることも。全部よ」
私は息を呑んだ。
「……どうしてそんなことが言えるの?」
ナサン義兄さんが代わりに答えた。
「ディオという男は、観察眼が鋭すぎる。君が普通の家庭教師としてではなく、必死に『居場所』を求めていることに気づかないはずがない」
姉さんが身を乗り出す。
「彼はあんたを憐れんでいるんじゃない。あんたの尊厳を守っているのよ。施しではなく『仕事』という形を与えて、あんたが自分を惨めだと思わないように。……あんな過保護な盾、そう簡単に見つかるもんじゃないわよ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
あの前払いの給料。あの優しい送り迎え。そして、何も聞かずに隣にいてくれる沈黙。
すべては、私を壊さないための、彼なりの戦いだったのか。
しばらくしてディオが戻ってきた。私たちは短い別れの挨拶を交わした。姉さんたちはデポックへ帰る時間だ。
「エララ、今日は私たちが送るわ。ディオさんもお疲れでしょうから」
姉さんに促され、私は立ち上がった。
「ディオ、今日は本当にありがとう。明日、また学校で」
「ああ。ゆっくり休んで、エララ」
ディオは店の入り口まで見送りに来てくれた。夜風が通りを吹き抜ける。
義兄さんが車へと向かう間、姉さんがふと足を止め、ディオの耳元で何かを囁いた。
私は聞こえなかった。だが、ディオの体がわずかに強張るのが見えた。彼は目を見開き、それから私を……射抜くような、深い眼差しで見つめた。
「お姉ちゃん! 何言ったの!」
私は姉さんの腕を引き、車へと押し込んだ。姉さんは満足げに高笑いしながら、車に乗り込んだ。
車が走り出す。バックミラーを覗くと、琥珀色の光に包まれたカフェの入り口で、ディオがいつまでも私たちの車を見送っていた。
「……ねえ、なんて言ったのよ」
私は後部座席から詰め寄った。
姉さんはバックミラー越しにニヤリと笑った。
「ただの忠告よ。『この子を逃したら、一生後悔するわよ』ってね」
「お姉ちゃん!」
私は両手で顔を覆った。指の隙間から、ジャカルタの夜の灯りが流れていく。
義兄さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
彼は私のために、盾になってくれていた。
冷徹な両親や、傲慢なレイ・ダルヴィアンから私を守るために、彼は目に見えない琥珀色の砦を築いてくれていたのだ。
私はバッグの奥にある、彼からもらった給料袋にそっと触れた。
ディオ・アトマンタ。
あなたは、一体どこまで私を甘やかすつもりなの。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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