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第30章 偽りの休日

挿絵(By みてみん)


「お腹を引っ込めて、エララ! あと少しだから!」


「サスキア、苦しいってば! 息ができない!」


「できるわよ! それはただの思い込み。ほら、我慢して!」


ジリッ


無理やり引き上げられたファスナーの音が、私たちの格闘に終止符を打った。


私は胸を押さえながら肩で息をし、サスキアは満足げな顔で二歩下がった。


まるで最高傑作を完成させた芸術家のような、誇らしげな表情だ。


彼女は胸の前で腕を組み、ドラマチックに深く頷いた。


「完璧ね。鏡を見てごらんなさい。見習いの大工さんみたいな、あのぶかぶかのネルシャツより何百倍もマシなんだから」


私は壁に掛けられた、少しひびの入った鏡に向き直った。


そこに映る姿は、あまりにも見慣れないものだった。


セージグリーンの生地に、小さな花柄が散りばめられた膝丈のドレス。


シンプルなデザインだが、ウエストを優しく強調し、腰のラインに沿って柔らかく流れている。


サブリナネックの襟元からは、私の鎖骨が控えめに覗いていた。


綺麗だとは思う。けれど、今の私には……。


破産寸前の小学校教師にしては、少しばかり露出が多すぎる気がした。


「キア、これやりすぎじゃない? ただの本屋さんに行くのよ。披露宴に行くわけじゃないんだから」


私は落ち着かず、スカートの裾を何度も引っ張った。


サスキアは呆れたように鼻を鳴らし、やれやれと肩をすくめた。


彼女は歩み寄り、私の耳元にこぼれた髪を丁寧に整えてくれた。


「いい、先生。今日は日曜日なの。お仕事はお休み。しかも、相手はあの超リッチな子連れパパなのよ。雰囲気が大事なの」


彼女はニヤリと口角を上げた。


「今日のテーマは、社交界の合間に一息つく若奥様、ってところかしらね」


「サスキア!」


私は彼女の腕を軽く叩いた。


口が過ぎるわよ、と目でたしなめる。


「あはは! さあ、行って。白馬の王子様……じゃなくて、白い軽自動車の王子様が外で待ってるわよ。ライラちゃんを待たせちゃダメでしょ」


私は諦めてため息をつき、ショルダーバッグを掴んだ。


早鐘を打つような鼓動を感じながら、部屋の外へと踏み出した。


―――


ジャカルタの朝の太陽は容赦なく照りつけていたが、時折吹くそよ風が肌に心地よかった。


塗装の剥げかけたアパートの門の前に、あの白いハッチバックが静かに停まっていた。


エンジンは滑らかに音を立てている。


ディオは助手席のドアの横に立っていた。


スマホを眺めながら俯いている彼は、清潔感のある白いポロシャツにネイビーのチノパンという出で立ちだ。


襟元にはサングラスが差し込まれている。


リラックスした装いだが、隠しきれない気品が全身から漂っていた。


門が開く音に気づき、彼が顔を上げた。


ぴたっと、


彼は、はたと足を止めた。


ディオはすぐに声をかけようとはしなかった。


スマホを握ったまま、その場に釘付けになっている。


私の靴先から髪の先まで、吸い込まれるような視線が、ゆっくりと私をなぞった。


彼が瞬きを忘れた時間は、三秒ほどだっただろうか。


その視線に、私の顔は一瞬で熱くなった。


どうしていいか分からず、バッグのストラップをぎゅっと握りしめる。


「……変、ですか?」


私は震える声で尋ねた。


ディオは我に返ったように瞬きをし、慌ててスマホをポケットにねじ込んだ。


そして、小さく咳払いをする。


彼の耳の端が、ほんのりと赤くなっているのが見えた。


「いや」


彼は短く答えた。その声は、いつもより少しだけ掠れている。


「全然、変じゃない。むしろ……驚いた。とても、新鮮だ」


彼はわずかに微笑み、助手席のドアを大きく開けてくれた。


「どうぞ、お姫様」


私が席に着く間もなく、後部座席から元気な叫び声が響いた。


「先生ーーっ!」


チャイルドシートに座ったライラが、ピンクのドレスにうさぎのカチューシャをつけて、目を輝かせていた。


「わあ! 先生、すっごく綺麗! 絵本に出てくる妖精さんみたい!」


子供の純粋な褒め言葉は、火照っていた私の頬を完全に真っ赤に染め上げた。


私は車に乗り込み、後ろを向いて彼女のふっくらとした頬を優しくつねった。


「ライラちゃんも可愛いわよ。今日はお揃いね、二人ともスカートだもの」


ディオが運転席に乗り込んだ。


ドアが閉まった瞬間、車内はペパーミントとシトラスの爽やかな香りに包まれた。


「準備はいいかい?」


彼はバックミラー越しに私をちらりと見、それから直接、私の目を見つめた。


その瞳には、悪戯っぽい光が宿っている。


「あまり長居すると、サスキアさんに駐車料金を請求されそうだからね」


私は思わず吹き出した。


「出してください、運転手さん。私の財布がまた空っぽになる前に」


車は日曜日の空いた道路を滑るように走り出した。


後部座席では、ライラがディズニーの主題歌を、デタラメな歌詞で自信満々に歌い始めた。


私とディオは一瞬だけ視線を交わし、同時に笑みをこぼした。


借金の重みも、資産差し押さえの恐怖もない。


この動く鉄の箱の中だけは、世界が完璧に守られているような気がした。


• • •


その本屋は広くて、ひんやりとしていて、古い紙の匂いが心を落ち着かせてくれた。


まさに、私にとっての天国だ。


私たちは高くそびえ立つ本棚の合間を歩いた。


ライラを真ん中に、左側にディオ、右側に私が手を繋ぐという不思議な布陣だ。


まるで通路を塞ぐバリケードのようだったが、誰も気にする様子はなかった。


「パパ! コミックはあっちだよ!」


ライラは私たちの手を離し、通路の奥にある児童書コーナーへと駆けていった。


残されたのは、私とディオ。


フィクション小説の棚の前で、二人きりになった。


ディオは両手をポケットに入れ、礼儀正しい興味を湛えた瞳で本を眺めている。


「エララ、君はどんな本が好きなんだ?」


彼の低い声が、館内の空調の微かな唸り音に溶け込んだ。


私は厚い本の背表紙を指先でなぞった。


「古典かな。ジェーン・オースティンとか、ブロンテ姉妹とか……言葉が美しくて、最後はハッピーエンドで終わるもの。現実逃避ね」


私は彼を振り返った。


「あなたは? ビジネス書? それとも、投資の戦略本?」


ディオは低く笑った。


彼は棚から一冊の薄い本を手に取った。


それは詩集だった。


「いつもそうとは限らないよ。平日は数字で頭がいっぱいになるからね。休日は伝記か……あるいは、こういうものを選ぶ」


彼は詩集を私に見せた。


「論理的には筋が通らなくても、言葉の方が、財務諸表よりずっと正直なことがあるんだ」


私は言葉を失った。


素手で門の鍵を壊すような力強さを持ちながら、休日に詩を嗜む男。


ディオ・アトマンタという人間の、また別の側面。


「あなたは、驚きの連続ね」


「人間は本と同じだよ、エララ」


彼は本を棚に戻し、私をじっと見つめた。


二人の距離は、わずか一歩分しかない。


「表紙だけで、その本の中身を決めつけてはいけない」


心臓が跳ねた。


その言葉は、あまりにも個人的な響きを持っていた。


まるで、もっと深く自分を読んでほしいと、彼が求めているかのように。


「パパ! 先生! 三冊選んだよ!」


ライラの叫び声が、その濃密な空気を切り裂いた。


私たちは二人ともビクッとして、それから気まずそうに笑い合い、小さな主役の元へと急いだ。


• • •


昼食の時間。


私たちは家族連れで賑わうレストランに入った。


フライドチキンとステーキの香ばしい匂いが漂っている。


円卓を囲み、ライラが私とディオの間に座った。


小さな少女は、今、甘えん坊モードが全開だった。


「あーん……先生、お口開けて!」


ライラはトマトソースをたっぷりつけたポテトを、私の口元に差し出した。


私は喜んでそれを受け取った。


「美味しい?」


「ええ、とっても」


「次はパパ! あーん……」


ディオも素直に従い、大きな口を開けて娘に食べさせてもらった。


ふと見ると、ディオの口の端に少しだけソースがついている。


無意識だった。


私の手は自然に動き、ティッシュを手に取ると、ごく当たり前のような動作で彼の口元を拭った。


「ついてるわよ」


小さく呟く。


ディオは固まった。


彼の真っ直ぐな視線が私を捉える。


彼は避けようとしなかった。


私が彼の汚れを拭い去るのを、ただ黙って受け入れていた。


手を引いた瞬間、自分が何をしたかに気づいた。


顔が火を噴くように熱くなる。


これはあまりにも親密すぎる仕草だ。まるで……。


「ごめんなさい……」


蚊の鳴くような声で謝る。


「失礼します」


店員が飲み物のトレイを運んできた。


その時、隣のテーブルに座っていた年配の女性が、私に向かって優しく微笑みかけた。


「可愛らしいお嬢さんね」


その女性は心底感心したように言った。


「お父様とお母様に食べさせてあげるなんて、本当にお利口さんだわ」


私は飲んでいたアイスティーを吹き出しそうになった。


げほっ!


血の気が引くと同時に、動悸が激しくなる。


お母様? 妻?


「あの、いえ……奥様、私は……」


私は否定しようと、慌ててぶんぶんと手を横に振った。


「私は先生で……私たちはそういうんじゃ……」


「ありがとうございます」


私のパニックを遮るように、落ち着いたバリトンボイスが響いた。


驚いてディオを振り返る。


彼はその女性に向かって、穏やかに微笑んでいた。


丁寧に会釈をし、勘違いを訂正しようとする様子は微塵もなかった。


「本当に、優しい子なんです」


ディオは事もなげに付け加え、何事もなかったかのようにナシゴレンを口に運んだ。


女性は満足そうに微笑み、自分のテーブルへと戻っていった。


私は口をあんぐりと開けたまま、まじまじと彼を見つめた。


胸の奥で、心臓が早鐘を打っている。


「ディオ……」


私は鋭く、けれど小さな声で囁いた。


「どうして否定しなかったの?」


ディオがこちらを向いた。


彼はスプーンを置き、深く、静かな眼差しで私を見つめた。


そこにはわずかな悪戯心と、それ以上の真剣さが混じり合っていた。


「どうして否定する必要があるんだ?」


彼は低い声で問い返した。


「あの方はライラを褒めてくれただけだ。それに、僕たちが似合いの夫婦だと言ってくれた。温かい祝福のようなものだと思っておけばいい」


彼は片目を軽くつむってみせ、ライラのポテトを一つつまんだ。


私は言葉を失い、立ち尽くした。


頬は熟れたトマトのように赤らんでいるに違いない。


彼は否定しなかった。


他人が私たちを家族だと思うことを、受け入れたのだ。


そして、何よりも恐ろしいのは……。


私がそれを、心地よいと感じてしまっていることだった。


ライラの母親だと思われることが。ディオのパートナーだと思われることが。


• • •


帰りの車内は、行きよりも静かだった。


けれど、それはとても心地よい沈黙だった。


夕日が西に傾き、ジャカルタの街を黄金色の光で包み込んでいる。


後部座席では、ライラがすっかり眠りについていた。


首を傾け、口を少し開けて。ボボ人形をぎゅっと抱きしめている。


ライラが寝てしまったので、私は助手席へと移動した。


スピーカーからは、柔らかなジャズのインストゥルメンタルが流れている。


私は窓に頭を預け、流れていく街路樹の影を眺めた。


頭の中は、レストランでの出来事でいっぱいだった。


この幻は……なんて甘いんだろう。


甘すぎて、胸が痛くなる。


今日一日、私はすべてを手に入れたような気分だった。


可愛い子供、気遣ってくれるパートナー、そして今日一日だけの、金銭的な不安から解き放たれた心地。


けれど、明日は月曜日だ。


明日の私は、残高が底をついた小学校教師に戻る。


明日になれば、また資産差し押さえの督促状が届くかもしれない。


明日は現実に打ちのめされ、私はディオ・アトマンタの人生に現れた、ただの「雇われ家庭教師」に過ぎないことを思い知らされるだろう。


恐怖が、じわじわと忍び寄ってくる。


この瞬間を失うことへの恐怖。


これがただの白昼夢で、目を開けた瞬間に弾けて消えてしまうのではないかという不安。


私は隣で運転に集中しているディオの横顔を盗み見た。


引き締まった顎のライン、高い鼻、そして曲のリズムに合わせて指先でハンドルを軽く叩く動作。


不意に、ディオがこちらを向いた。


視線が重なる。


彼は何も言わなかった。


ただ、薄く微笑み、左手を伸ばして私の膝の上にある手の甲に触れた。


ほんの一瞬の、軽い接触。


けれど、それは彼が「僕はここにいるよ」と言ってくれているような気がした。


私は無理に微笑みを返したが、胸の奥はひりひりと痛んだ。


(どうか、私を起こさないで)


私は心の中で、どこかにいる神様に祈った。


(この幻が、もう少しだけ長く続きますように)


車は速度を落とすことなく、道の先で待つ現実へと、私たちを運んでいく。

Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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