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第3章 予期せぬ再会

挿絵(By みてみん)


 エンジンの音が止まった。


 車内を支配したのは、重苦しい静寂だった。


 ボンネットから漏れる、金属が冷えていく微かな音が耳に届く。


 カチ、カチ


 私はハンドルを握ったまま、動けずにいた。


 今日という日が、あまりにも長く感じられたから。


 抗いようのない疲労が、鉛のように背中にのしかかっている。


 窓の外に広がる庭は、不気味なほど静かだった。


 父の定位置である駐車スペースは、まだ空のままだ。


 人々が寝静まる頃にしか帰宅しない彼にとって、これは日常の風景。


 私は重い体を引きずるようにして、車を降りた。


 夕暮れの冷たい風が、髪を容赦なくかき乱す。


 玄関へ向かう足が、ある一点で止まった。


 扉の横にある小さなテーブルに、これ見よがしに大きな花束が置かれていた。


 黄色、白、そして薄いピンク。


 美しいはずの色合いが、今の私には胃の底を掻き回す毒のように見えた。


 私は指先を伸ばし、花の隙間に挟まれたカードを抜き取った。


「エララへ。君の一日が素晴らしいものになりますように。――レイより」


 胸が高鳴ることも、微かに揺れることさえなかった。


 ただ、乾いた溜息が漏れただけ。


 花束の香りが鼻を突き、不快感がこみ上げる。


 ガチャッ


 重厚な玄関の扉が開いた。


 シルクのブラウスを纏い、完璧に結い上げられた髪の母が立っていた。


 彼女が纏うジャスミンの香水が、暴力的なほど周囲の空気を塗りつぶす。


「あら、やっと帰ってきたのね。その花、レイさんからよ。素敵でしょう?」


 母の言葉には、拒絶を許さない響きがあった。


「ええ、お母様。見ました」


 私は短く答え、視線を逸らした。


 母は胸の前で腕を組み、私の姿を上から下まで品定めするように眺めた。


 その鋭い眼光が顔に止まった瞬間、彼女の表情が険しくなる。


 まるで、出来の悪い商品を検品する商人のような目だった。


「今夜、レイさんのご家族とお食事に行くわよ。大切な話があるから、準備しなさい」


 私の眉がぴくりと跳ねた。


 肩に鉄板を乗せられたような、凄まじい圧迫感が全身を襲う。


「今夜、ですか? お母様、私は今日とても疲れています。欠席させていただけませんか」


 母は小さく舌打ちをした。


 私の言い分が、さも愚かなことであるかのように顔を歪める。


「これは大事なビジネスの話なのよ。少しは家族の役に立とうと思わないの? 逃げ出したあのお姉さんとは違うはずでしょう」


 パチンッ


 衝撃こそなかったが、


 けれど、頬を平手打ちされたような熱い痛みが走る。


 奥歯を噛み締め、私は拳を握った。


 姉、アルナの名前。


 それは母が私を操るために使う、最強で最悪の呪文だ。


「もし、婚約の話が出るなら、私はすぐに席を立ちます。私は、商売の道具ではありませんから」


 母は長い間、私を無言で射抜いた。


 怒りが爆発する寸前なのは分かったが、今の私の目が本気であることも悟ったようだ。


「今はそんな話は出ないわ。ただ座って、微笑んでいればいいの。礼儀をわきまえなさい、エララ」


 私は視線を落とし、埃のついた仕事用の靴を見つめた。


「分かりました。行きます。今回だけですよ」


 私は邪魔な花束を抱え上げ、母の横を通り過ぎた。


 階段を一段ずつ上るたび、足取りが重くなる。


 腕の中にある花束は、まるでいつ爆発するか分からない時限爆弾のように感じられた。


 • • •


 寝室の扉を閉める。


 バタンッ


 花束をドレッサーの上に放り出した。


 着替えもせず、吸い込まれるようにベッドへと体を沈める。


 淡いアイボリーの天井が、無機質に私を見下ろしていた。


 思考は、バッグの中で絡まった充電ケーブルのように縺れている。


 他人が敷いたレールの上を、ただ走らされているだけの人生。


 反対することも、降りることも、駅を選ぶことさえ許されない乗客。


 ふと、姉の顔が脳裏をよぎった。


 アルナ姉さんは、鉄のような意志を持っていた。


 扉を叩きつけ、愛する人を選び、両親から死んだものと見なされても幸せを掴み取った。


 羨ましくて、仕方がなかった。


「私にも、お姉ちゃんの半分の勇気があれば」


 私は枕を抱きしめ、強く目を閉じた。


 これから始まる、地獄のような晩餐を乗り切るための正気をかき集める。


 • • •


 夜の八時。グナワルマン地区。


 訪れたレストランは、どこを見渡しても高級感に溢れていた。


 黒い大理石の床、巨大なクリスタルのシャンデリア、そして深々と頭を下げる給仕たち。


 私は車を降り、母が選んだアイボリーのドレスの裾を整えた。


 肌触りは柔らかいのに、まるで拘束衣を着せられているような窮屈さを感じる。


「ダルヴィアン様は、VIPルームでお待ちです」


 父は硬い表情で頷き、私たちは個室へと案内された。


 扉が開いた瞬間、そこに用意されたシナリオがすべて理解できた。


 二つのテーブルが離れて置かれている。


 一つは豪華な前菜が並ぶ円卓、もう一つは二人掛けの小さなロマンチックなテーブル。


 そこには、すでにレイが座っていた。


 私の足が、一瞬だけ止まる。


 彼らは、最初から私たちを二人きりにするつもりだったのだ。


 レイが立ち上がり、しわ一つない白いシャツとダークブレザーを誇示するように微笑んだ。


 自分の容姿に絶対的な自信を持っている男の、余裕に満ちた笑み。


「こんばんは、エララ」


 父がレイの肩を親しげに叩いた。


「さあ、行きなさい。退屈なビジネスの話は、我々に任せておけばいい」


 母が私に視線を送る。


 余計な真似はするな、という明確な脅迫だった。


「うつむかないで。笑いなさい」


 母の囁きが耳元を掠め、彼女たちは円卓へと向かった。


 私は足を引きずるようにして、レイの向かいの席に座った。


 部屋の空気が薄くなったような気がする。


「こんばんは、レイさん」


「やっと二人で話せるね。嬉しいよ」


 レイの声は低く、親密さを演出しようとしているのが透けて見えた。


 給仕が前菜を運び、皿が触れ合う音が静かに響く。


 カチャッ


「花は届いたかな?」


 私は膝の上のナプキンを広げることに集中した。


「ええ。ありがとうございました」


「君のことを、いつも考えているんだ。分かってほしい」


 レイが身を乗り出し、高価なコロンの香りが漂ってきた。


「そんなに気を遣わなくて結構です」


「そうはいかないよ。君の美しい顔が頭から離れないんだから」


 レイの手がテーブルの上を這い、私の指に触れようとした。


 サッ


 私は反射的に手を引っ込めた。


 口角だけを上げた愛想笑いを浮かべるが、目は冷え切っている。


「失礼」


 レイは手を引っ込めたが、気分を害した様子はなかった。


 むしろ、拗ねている子供をあやすような、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。


「いいよ。ゆっくりで」


 食事の時間は、這うような遅さで過ぎていった。


 向かいのテーブルからは両親たちの笑い声と、ワイングラスの重なる音が聞こえる。


 私たちのテーブルを支配する、気まずい沈黙とは対照的だった。


 レイは自分のビジネスの成功、新しい車、ヨーロッパでの休暇について語り続けた。


 私は適切なタイミングで相槌を打つだけの、聞き役に徹した。


 ようやく、この拷問のような時間が終わった。


 レイの父、ラファエルが満足げに立ち上がった。


「レイ、エララさんを送り届けてやりなさい。私たちはもう少しコーヒーを楽しんでいく」


 母が私にウィンクをした。


「気をつけて帰るのよ、お母様の大事な娘」


 母の声は甘ったるく、虫酸が走るような不快感を覚えた。


 レイが手を差し出してきたが、私はそれを無視して立ち上がった。


 • • •


 レイの車内では、重苦しい沈黙が支配していた。


 ジャカルタの街灯が、交互に私たちの顔を照らし出していく。


 ダッシュボードの上で影が素早く動き、私は窓の外のバイクを数えていた。


「エララ」


 レイが静寂を破った。


 私は息を止めた。


 余計なことは言わないで、吐き気がするから。


「今夜、正直に伝えたいことがあるんだ」


 彼は勝利宣言の準備でもするかのように、深く息を吸った。


「君のことが好きなんだ。ずっと前から」


 胃のあたりがムカムカする。


 分かっていたことだが、直接聞かされると車から飛び降りたくなった。


「レイさん……」


「本気だよ。ただの知り合い以上の関係になりたい」


 知り合い? 友達ですらないのに。


 私は黙り込んだ。舌が強張っている。


 はっきりと拒絶したいが、母の顔と『役立たず』という言葉が脳裏にちらつく。


 車はセノパティ通りへと入った。


 高級なカフェやレストランが立ち並ぶ、ジャカルタの夜が最も活気づく場所。


「今すぐ答えが出なくても構わない。待つよ」


 レイの声には少しの落胆と、それ以上の自信が混じっていた。


 私は力なく頷き、外の景色を眺めた。


 その時、私の視線がある一点に釘付けになった。


 温かいオレンジ色のライトに照らされた、屋外テラス席。


 見覚えのある姿があった。


 ディオだ。


 彼は硬苦しいシャツではなく、黒いTシャツにデニムジャケットを羽織っていた。


 膝の上にはライラ が丸まって座り、タブレットの画面を指差している。


 二人は笑っていた。


 その光景は、あまりにもシンプルで、温かかった。


 この冷え切った車内と、計算高い会話とは正反対の世界。


 砂漠の中でオアシスを見つけたような衝撃が走る。


「止めて!」


 私は思わず叫んでいた。


 レイが驚いてハンドルを切る。


「え? ここで?」


「ええ。止めてください。お願い」


 困惑しながらも、レイは車を路肩に寄せた。


 キキィッ


 車輪が止まるのと同時に、私はシートベルトを外した。


 ドアの取っ手を掴む。


「ここで降ります」


「待てよ、エララ!」


 レイも慌ててドアを開けようとする。


「いいの、レイさん」


「でも、家まで送る責任が――」


 私は素早く振り返り、彼の目を射抜いた。


「必要ありません」


「エララ!」


「レイさん!」


 私は彼の言葉を遮った。


「さっきの言葉、考える時間が欲しいんです。一人にしてください」


「……」


「この小さなお願いさえ聞いていただけないなら、このお話はなかったことにしてください」


 レイは絶句した。


 プライドが傷ついたようだが、最後には渋々と頷いた。


「分かった。でも、着いたら連絡してくれ」


「ありがとうございます」


 バタンッ


 ドアを閉めた。


 レイの車が走り去るのを待たず、私は歩き出した。


 夜風が顔を叩く。冷たいが、自由だった。


 足は微かに震えていたが、私はその温かい光の方へ向かった。


 心臓の鼓動が速くなる。


 恐怖ではなく、奇妙な高揚感のせいだ。


 近づくにつれ、ライラ の笑い声がはっきりと聞こえてきた。


 ディオが娘の頭を優しく撫でている。


 それは、あまりにも自然で慈愛に満ちた仕草だった。


 私はテラスの柵の前に立ち止まった。


 胸の奥が熱くなり、声が震える。


「リ……ライラ ちゃん……」


 ライラ がこちらを向き、その大きな瞳を丸くした。


 ディオも手を止め、驚いたように顔を上げた。


「エララ先生?」


第 3 章をお読みいただき、本当にありがとうございます。

息苦しい日常と、予期せぬ再会。エララの心が動く瞬間を、皆さんと共有できて嬉しいです。

もし「この先が気になる」と思っていただけたなら、ブックマークをいただけると大変励みになります。次の更新を見逃さず、一緒に物語を追いかけましょう。

皆さんからの感想が、執筆の何よりの光になります。

それでは、また次の章でお会いしましょう。

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