第26章 雨夜のぬくもりと、帰る場所
サスキアの安アパートの奥にある、湿っぽくて狭い部屋。
そこには、安価な柔軟剤と微かなバニラの香りが混じり合って漂っていた。
私は壁に貼り付けられた、隅が少し欠けた鏡の前に立っていた。
サスキアが「お宝」と称する古着の山から借りた、オーバーサイズのフランネルシャツの襟を整える。
普段の仕事着は堅苦しすぎて、今夜の家庭教師の雰囲気には合わないと思ったからだ。
私は手に持った、スプレーボトルに移し替えられた安物のファブリックミストを構えた。
プシュー、プシュー、
「うわっ! ちょっと、落ち着けって、お嬢様!」
折りたたみマットレスに寝そべって芋けんぴをかじっていたサスキアが、飛び起きた。
彼女は鼻の前で手をひらひらと扇ぎながら、おどけた表情で顔をしかめる。
「それ、香水なの? それとも殺虫剤? 匂いきつすぎ。 小学生に教えに行くのか、それともそのお父さんを誘惑しに行くのか、どっちよ?」
鏡越しに彼女を睨みつけたが、頬が少し熱くなるのを自覚した。
「これはアロマテラピーよ、キア。ライラックスするため。そもそもこれ、あんたの柔軟剤じゃない。」
「そうだけど、適量ってものがあるでしょ」
サスキアはニヤニヤしながら芋けんぴを口に放り込んだ。
「気をつけてね。ディオさんがライラちゃんじゃなくて、あんたの匂いに夢中になっちゃうかもしれないから。」
「サスキア!」
私は近くにあった小さなクッションを彼女に向かって投げつけた。
サスキアはそれを器用に受け止め、満足そうに笑った。
「ひゅーひゅー! 夜の初出勤、頑張ってね、先生。帰りにマルタバを買ってくるか、せめて私の枯れ果てた心に潤いを与えるようなロマンチックな話を持って帰ってきてよ。」
私は軽く首を振り、肩掛けバッグを手に取った。
心臓がトクンッと跳ねた。それは恐怖ではなく、奇妙な高揚感だった。
ただの仕事なのに、まるではじめてのデートに向かうような気分だった。
「うまくいくように祈ってて。私が帰る前に鍵をかけたら承知しないからね。」
• • •
午後六時四十五分。ジャカルタの空は、すでに完全に夜の帳に包まれていた。
塗装が剥げかけた鉄製の門の前に立つ。
ほどなくして、一対のヘッドライトが狭い路地を照らし出した。
今ではすっかり見慣れた白いハッチバックが、門の前に滑らかに止まる。
エンジンが切られ、運転席のドアが開いた。
ディオが降りてきた。今夜の彼は、ネイビーの無地のTシャツにクリーム色のチノパンというラフな格好だった。
髪が少し濡れている。シャワーを浴びたばかりなのだろう。
彼が車の周りを歩いてくる際、石鹸の清々しい香りが微かに鼻をくすぐった。
「こんばんは、エララ。」
彼は短く挨拶した。微笑みは控えめだが、その瞳はやわらかく細められている。
「こんばんは、ディオ。」
膝が少し笑いそうになるのを堪え、私はできるだけ自然な笑顔で返した。
ディオは助手席のドアを開けてくれた。
彼の手がドアの上枠に添えられる。
そんな何気ない仕草一つで、自分がまるでお姫様のように扱われているような錯覚に陥る。
隣の家のテラスでは、夜だというのに掃除をしていたイジャおばさんが手を止めていた。
彼女は目を見開き、口を半開きにしてこちらを凝視している。
明日の朝、八百屋での噂話のネタが決まった瞬間だった。
『あの新しい先生、車に乗った男の人に迎えに来てもらってたわよ』と。
私は詮索の目から逃れるように、急いで車内に滑り込んだ。
しかし、ディオがドアを閉める直前、テラスの方から甲高い声が響き渡った。
「ラ! あんまり遅くならないようにね! 蚊に刺されないように……それとも、別の何かに食われないようにね!」
私はそっと目を閉じた。
サスキアが入り口に立ち、大げさに手を振っているのが見えた。
顔が火が出るほど熱くなる。
「車を出して、ディオ。今すぐ出して。あれはただの野良猫の鳴き声だと思って。」
私はシートベルトを引き寄せながら、低い声で促した。
ディオは楽しそうに笑い、ドアを閉めて車の前を小走りで回った。
彼が運転席に座っても、まだ微かな笑い声が漏れていた。
「君の友達は……個性的だね」
彼はエンジンをかけながら、短くコメントした。
「ごめんなさい。彼女、時々……暴走しちゃうの」
私はこめかみを押さえ、顔を両手で覆い隠した。
車はゆっくりと走り出し、サスキアという名の危険地帯から私たちを遠ざけていった。
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三十分後、私たちは「本拠地」に到着した。
階段を上がって二階へ向かうと、強いコーヒーの香りが迎えてくれた。
だが、今回はコーヒーマシンの音ではなく、パタパタと素早く走る足音が響いていた。
「先生ー!」
バッグを置く間もなく、ライラの小さな体が私の腰にぶつかってきた。
彼女は私を力いっぱい抱きしめ、目をキラキラと輝かせて見上げた。
「お勉強の机、もう準備したんだよ! 見て見て!」
ライラは私の手を引き、リビングの真ん中へと連れて行った。
厚手の毛布のようなカーペットの上に、リトルポニーの絵が描かれた小さな折りたたみ机が置かれている。
ノート、色鉛筆、そしてボボのぬいぐるみが、まるで出撃を待つ兵士のように整列していた。
「わあ、やる気満々ね」
私は彼女の頭を優しく撫でて褒めた。
後ろに立っていたディオは、満足そうに口角を上げた。
彼は車の鍵を入り口近くのボウルに置いた。
「それでは、始めてください。邪魔はしませんから」
ディオが言った。
「何か必要なら、キッチンのほうにいます。カモミールティーでも淹れておきましょう。」
彼はゆっくりと下がり、私たちのための空間を作ってくれた。
だが、彼がその場を離れる際、名残惜しそうにこちらを見つめていたのを私は見逃さなかった。
まるで、この瞬間を心に刻み込もうとしているかのように。
私はカーペットに座り、ライラと向き合った。
「よし、お姫様。今夜は何をお勉強しましょうか?」
「算数! でも、難しいやつがいい!」
ライラが挑戦的な目で言った。
「わかったわ。じゃあ、助手の人に手伝ってもらいましょう。」
私はボボのぬいぐるみを取り上げた。
「もしボボが蜂蜜の壺を五つ持っていて、お父さんに紅茶を作るために二つあげたとしたら、ボボの蜂蜜はいくつ残るかな?」
ライラは眉をひそめ、自分の指を数えながら懸命に考え込んだ。
勉強の時間は、驚くほどスムーズに流れていった。
ライラの笑い声が、普段は静かな部屋を満たしていく。
正解するたびに、彼女は大げさに拍手し、私は彼女の手に星のステッカーを貼ってあげた。
視界の端に、ソファに座るディオの姿が見えた。
膝の上にはノートパソコンが開かれているが、彼の視線は画面よりも私たちの方に向いていることが多かった。
ライラが声を上げて笑うたびに、ディオの口元もわずかに綻ぶ。
胸の奥に、温かいものが広がっていくのを感じた。
これは単なる仕事ではない。
この家にずっとあった「空虚な隙間」を、少しずつ埋めているような、そんな感覚だった。
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午後八時。
「やったー! 終わった!」
ライラは誇らしげにノートを閉じた。彼女の手には、三つの星が輝いていた。
私は筆記用具を片付けた。
「よく頑張ったわね。また明日続きをしましょう。」
立ち上がろうとしたその時、外から地響きのような音が聞こえてきた。
バリバリッ!
凄まじい雷鳴が轟き、窓ガラスを震わせた。
次の瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨が屋根と窓を叩きつけた。
バラバラバラ、ザアアアア、
激しい嵐だ。
ライラは驚いて飛び上がり、ソファにいる父親の足にしがみついた。
ディオは立ち上がり、バルコニーのガラス戸へ歩み寄った。
カーテンを少し引くと、外の世界は白い水のカーテンに覆われていた。
強風がセノパティ通りの木々を激しくしならせている。
「ひどい雨だ」
ディオが呟いた。彼は真剣な表情で私を振り返った。
「視界はほぼゼロだ。今この状況で走るのは危険すぎる。僕の車のような小さなハッチバックだと、横風で煽られる可能性がある。」
時計を見る。帰る時間ではあったが、外の雨音は確かに恐ろしいほどだった。
「少し雨が弱まるのを待ったほうがいい」
ディオが断定するように言った。それは提案ではなく、安全を考慮した決定だった。
彼の保護本能が働いているのがわかった。
「ええ……そうね。無理して帰るのも怖いわ」
私は同意した。
「ライラは先に寝ようか?」
ディオは娘に優しく語りかけた。
ライラは大きなあくびをした。一時間の集中した勉強のせいで、目はすでに眠たげだった。
「うん、パパ。ボボももう眠いって。」
ディオはライラを抱き上げて部屋へ運んでいった。
私は再びソファに座り、外の世界から私たちを遮断する雨音に耳を傾けた。
まるで、心地よい砦の中に閉じ込められたような気分だった。
• • •
十五分後。
ライラは深い眠りについた。
ディオは部屋から出てくると、音を立てないように静かにドアを閉めた。
彼はキッチンへ向かい、湯気が立つ二つの大きなマグカップを持って戻ってきた。
「カフェ特製のホットチョコレートです」
彼は私に一つ差し出した。
「ライラの最高の家庭教師への特別報酬です。」
「ありがとう。」
私はカップを受け取った。温もりが手のひらに伝わり、エアコンの冷気と外の雨の冷たさを和らげてくれる。
ディオは私の向かい側のソファに座った。
私たちはしばらく無言で、雨のリズムを聞きながら飲み物を啜った。
「ライラは今夜、本当に楽しそうだった」
静寂を破ったのはディオだった。彼の目がじっと私を見つめる。
「彼女があんなに心から笑うのを聞いたのは……久しぶりだ。」
彼は言葉を濁したが、その先は言わなくてもわかった。
『母親がいなくなってから』ということだろう。
「彼女は賢い子よ、ディオ。ただ、自分の話を聞いてくれる友達を求めているだけなの」
私は静かに答えた。
立ち上るチョコレートの湯気を見つめていると、不意に過去の記憶が蘇ってきた。
「昔……私がライラと同じくらいの年だった頃、私の父もあなたみたいだったわ」
雨が作り出した親密な空気のせいか、そんな告白が自然と口から漏れた。
ディオはカップを置いた。
彼は身を乗り出し、私に全神経を集中させた。
「そうなのか?」
私は自嘲気味に微笑んだ。
「ええ。父は私のヒーローだった。自転車の乗り方を教えてくれたのも、眠れない夜に絵本を読んでくれたのも父。父はいつも言っていたわ。自分の何よりの役目は、子供たちの笑顔を守ることだって。」
私は唾を飲み込んだ。甘いチョコレートの味の裏に、苦い感情が忍び寄る。
「でも、父の会社が大きくなるにつれて、野心も大きくなっていった。そして突然……私たちはもう子供ではなくなったの。ただの資産。利益を生むための投資対象になったのよ。」
私はディオを真っ直ぐに見つめた。瞳が潤んでいたが、涙は流さなかった。
「あなたとライラを見ていると……あなたが彼女を守る姿、彼女を心配する姿を見ていると、昔の父を思い出すの。借金と見栄に飲み込まれて消えてしまった、あの頃の父を。」
ディオは沈黙した。その表情には、共感と、抑えきれない怒りが混ざり合っていた。
おそらく、私の父に対して怒ってくれているのだろう。
「ディオ」
私はかすれた声で呼んだ。
「何だい?」
「お願い、変わらないで。ライラが自慢できる父親のままでいて。お金や野心に、ライラを後回しにするようなことはしないで。親が自分よりも世間体や評判を愛していると気づいた時の痛みは……本当に耐え難いものだから。」
静寂。ただ、雨音だけが私たちの間の空白を埋めていた。
ディオはテーブル越しに手を伸ばした。
私に触れることはなかったが、彼の手は私のカップのすぐ近くに置かれた。
私たちの距離は、吐息が届くほど近かった。
「約束するよ、エララ」
彼の声は低く、強い感情で震えていた。
「ライラのため、そして僕にそれを思い出させてくれた君のために……僕は決して、そんな人間にはならない。」
彼の瞳は、私の息が止まるほどの強烈な光を宿していた。
外では嵐が吹き荒れているが、この瞳の中には、不思議な安らぎがあった。
ホットチョコレートの熱とは違う、別の温かい何かが胸を駆け抜ける。
ずっと探し求めていた「帰る場所」を見つけたような、そんな感覚だった。
• • •
雨はやがて、細かい霧雨へと変わった。
白いハッチバックが、サスキアのアパートの門の前に止まる。
濡れた路面が街灯の光を反射し、どこか物悲しい雰囲気を醸し出していた。
エンジンの音が静かに響いている。
「送ってくれてありがとう、ディオ。ホットチョコレートも。」
ドアノブに手をかけたが、体が動くのを拒んでいるようだった。
「どういたしまして。ゆっくり休んで」
ディオが答えた。
私は車を降り、濡れないようにテラスまで小走りで向かった。
ドアの前で振り返ると、ディオの車がゆっくりと動き出すのが見えた。
私はその白い車を、長い間見つめていた。
かつての私は、「帰る場所」とはブラウィジャヤの豪華で柔らかなベッドのことだと思っていた。
昨日の私は、「帰る場所」とはサスキアのアパートへ逃げ込むことだと思っていた。
けれど今夜、この冷たいテラスに立ち、遠ざかっていくディオの車を見送っていると……恐ろしくも安らかな、ある事実に気づいてしまった。
ここはただ、眠るための場所でしかない。
私の帰る場所は……あそこなのだ。
あのグレーのソファがあり、ホットチョコレートの香りが漂い、熊のぬいぐるみを抱いた少女がいて、そして、ディオ・アトマンタという名の男の穏やかな眼差しがある場所。
私は高鳴る胸に手を当てた。
「まずいわ……」
私は霧雨の中で微笑みながら、独り言を漏らした。
「恋に、落ちちゃったみたい。」
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.
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