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第25章 夕暮れの約束

挿絵(By みてみん)


この三日間、私の人生はまるで軌道を急変させたジェットコースターのようだった。


恐怖の絶叫マシンから、穏やかでどこか楽しげなメリーゴーランドへと。


新しいルーティンは驚くほど早く馴染んだ。


朝六時、サスキアの狭いアパートの一室で、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴り響く。


そこにはもう、ガンガンに効いたエアコンも、最高級のキングコイル製マットレスもない。


代わりに私を待っているのは、四千円もしない折りたたみ式の安物ウレタンマットだ。


けれど、意外にもそれは私の体に馴染んだ。


プラスチックのバケツに溜めた冷たい水で身体を清め、サスキアの愛車「バッタ号」の後部座席に飛び乗る。


レンテン・アグンの渋滞を縫うようにして、私たちはジャカルタ南部へと向かう。


立ち込める排気ガス、容赦ない太陽の熱、そして道路の砂埃。


それが今の私の、朝の洗礼だった。


不思議と、汚れを感じることはなかった。


むしろ、これまでの虚飾や完璧を求める重圧から解放され、心が洗われていくような気がしていた。


学校では、溢れんばかりのエネルギーで教壇に立った。


肩の荷がようやく下りたような心地だった。


そして放課後のチャイムが鳴るたび、私の心臓はいつもより激しく鼓動を刻む。


あの白いハッチバック。


ディオさんがライラを迎えに来る。


時折、彼は「偶然」を装って私を家まで送ると言ってくれたり、カフェの軽食を差し入れてくれたりした。


私たち三人の関係は、パズルのピースがようやく居場所を見つけたかのように、しっくりと噛み合い始めていた。


「教師」「保護者」「生徒」という枠組み以外に、まだ名前のない感情。


けれど、その境界線は日に日に曖昧になっていく。


• • •


月曜日の昼下がり。


カーン、カーン、カーン


終業を告げるチャイムが長く響き渡ると、一年A組の子供たちは歓声を上げ、目にも止まらぬ速さで教科書を片付け始めた。


「宿題を忘れないでね! みんな、気をつけて帰るのよ!」


教卓を整理しながら、私は声を張り上げた。


教室から少しずつ人影が消えていく。


窓から差し込む午後の光を浴びて、細かな埃がキラキラと舞っていた。


私は深く息を吸い込み、高鳴る鼓動を鎮めようとした。


今日は特別だ。


ライラの体調が完全に回復し、今日から登校を再開した。


それは「お見舞い」という名目の日々が終わり、今夜から正式な家庭教師としての時間が始まることを意味していた。


腕時計に目をやる。


もうすぐ、彼が来る。


「エララ先生……」


小さな声に呼ばれて振り向くと、ライラが隣に立っていた。


ピンク色のリュックを背負った彼女の顔色は、一昨日までの青白さが嘘のように、健康的な赤みを帯びている。


私たちは並んで教室を出て、校門へと向かった。


午後の日差しは肌を刺すように熱かったが、並木道の木陰を通る風がわずかに体温を奪ってくれる。


校門の守衛所の近くまで来たとき、不意に脇腹を小突かれた。


「痛っ!」


驚いて隣を見ると、サスキアがニヤニヤしながら立っていた。


彼女は私の耳元に顔を寄せ、わざとらしい囁き声を出す。


「おやおや。今夜からいよいよ『夜の当番』開始ね」


私は彼女を睨みつけ、二の腕を軽くつねった。


「仕事よ、サスキア。家庭教師。変な言い方しないで」


サスキアはケラケラと笑い、全く反省の色を見せない。


足元でアリの行列を眺めているライラを一瞥してから、再び私に顔を寄せた。


「香水、多めにつけときなさいよ。生徒が早く寝ちゃって、パパの方が『特別授業』を求めてくるかもしれないんだから」


顔が火照るのが自分でもわかった。


「サスキア! 少しは頭を冷やしなさいよ!」


「あはは! 冗談よ。チャンスを逃さないようにアドバイスしただけ」


近づいてくる静かなエンジン音に、会話が遮られた。


白いハッチバックが、校門の前に滑らかに停車する。


透明なフロントガラス越しに、運転席の男の姿が見えた。


ドアが開く。


ディオさんが降りてきた。


今日の彼は、袖を肘まで捲り上げたダークブルーのチェックシャツを羽織っている。


逞しい前腕がのぞき、ボタンを一つ外した襟元にはサングラスが掛けられていた。


シンプルだ。


なのに、彼から放たれる「理想の父親」のオーラはあまりに強く、周囲の母親たちが視線を送りながらひそひそと話し始めるのがわかった。


「パパ!」


ライラは嬉しそうに声を上げたが、すぐには駆け寄らなかった。


その小さな手は、まだ私のジャケットの裾をぎゅっと握りしめている。


ディオさんがこちらへ歩み寄ってくる。


薄く浮かべた微笑みは丁寧だが、その瞳は……。


私を見つめるその眼差しには、膝の力が抜けそうになるほどの熱が宿っていた。


「こんにちは、エララ先生。サスキア先生も」


ディオさんの声は、公の場にふさわしい「模範的な保護者」のトーンに戻っていた。


私は背筋を伸ばし、プロの教師としての仮面を被る。


「こんにちは、ディオさん。ライラちゃん、今日の授業もとても頑張っていましたよ。遅れていた分も、もう追いつきそうです」


「それは良かったです」


ディオさんは礼儀正しく頷いた。


「ご指導、ありがとうございます」


隣でサスキアが口を押さえ、肩を震わせて笑いを堪えていた。


私たちのこの、よそよそしい芝居が滑稽で仕方ないのだろう。


私はこっそり彼女の足を踏みつけた。


「それで……今夜の初授業の準備はよろしいですか、エララ先生?」


ディオさんが問いかける。


その瞳の奥に、悪戯っぽい光が過ったのを私は見逃さなかった。


「もちろんです。予定通りに伺います」


私は硬い声で答えた。


校門付近は混雑していた。


他の保護者や教師、そして少し離れた場所では守衛がこちらを見ている。


私たちは、完璧な距離感を保たなければならない。


しかし、ライラには別の考えがあったようだ。


少女は、ぎこちない会話を続ける大人二人を交互に見つめ、不思議そうに首を傾げた。


なぜパパと先生は、こんなに他人行儀なの?


突然、ライラが私の手を強く引き、父親の白い車の方へと歩き出した。


ぐいっ。


「行こう、先生! 一緒に帰ろう!」


ライラの大きな声が、昼下がりの校門に響き渡った。


静寂。


その透き通った声は、周囲の喧騒を切り裂くようにして周囲の耳に届いた。


いくつかの首がこちらを向いた。


さっきまで囁き合っていた母親たちが、隠そうともせずにこちらを凝視している。


守衛さんは、飲んでいたコーヒーの手を止めて固まった。


顔が燃えるように熱い。


心臓が喉元まで跳ね上がった。


「え……ライラちゃん、あのね……」


私は引きずられる足を止めようと、少し腰を落とした。


「先生は……夜に行くのよ。今じゃないわ」


ライラは立ち止まり、唇を尖らせた。


瞳に涙が溜まり始める。


「どうして今じゃないの?」


震える声で彼女は抗議した。


「だって、いつもはお家でパパと私と一緒にいるじゃない! どうして今は一緒に帰ってくれないの?」


ドカンッ!


その言葉は、群衆のど真ん中で爆弾のように炸裂した。


「いつも」「お家で」「一緒にいる」。


純粋な子供の口から放たれたその言葉は、独身の女教師にとって致命的なスキャンダルの火種になりかねなかった。


周囲の視線が、さらに鋭く突き刺さる。


ひそひそ声が、波のように広がっていく。


「あら、エララ先生……ディオさんと一緒に住んでるの?」


「おとなしそうな顔して、隅に置けないわね……」


顔が真っ赤を通り越し、羞恥心で火が出るほど熱かった。


助けを求めてサスキアを見たが、親友は腹を抱えて顔を真っ赤にし、吹き出しそうなのを必死に堪えていた。


この裏切り者。


私はパニックになりながら、ディオさんを見つめた。


「なんとかして!」と、視線で訴える。


ディオさんは小さく咳払いをした。


一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、事態を収拾しにかかった。


彼は素早く膝をつき、娘と視線の高さを合わせた。


大きな手が、ライラの小さな肩を優しく、それでいてしっかりと包み込む。


「ライラ、パパの話をよく聞いて」


落ち着いた声だった。


そのバリトンボイスは、周囲の人々にもはっきりと聞こえるように響いた。


それは、間接的な釈明でもあった。


「先生は、今お仕事が終わったばかりなんだ。とても疲れているんだよ。だから、一度自分の家に帰って、お風呂に入って、着替えをして、ゆっくり休まないといけないんだ」


ディオさんは親指でライラの頬を撫でた。


「無理に今連れて行ったら、先生はまた病気になってしまうかもしれない。ライラは、先生が病気になるのは嫌だろう?」


ライラは黙り込み、父親の論理を頭の中で組み立てているようだった。


私を見、それからディオさんを見た。


まだ不満そうに口を尖らせてはいたが、私の手を引く力は緩んだ。


「でも……夜には本当に来る?」


消え入りそうな声で彼女が尋ねる。


ディオさんは力強く頷いた。


「約束する。今夜、先生はライラとお勉強するために、わざわざ来てくれるんだ。いいかい?」


ライラは、大人の真似をする子供特有の仕草で、深く、長い溜息をついた。


「わかったわ」


彼女はようやく私の服の裾を離した。


名残惜しそうではあったけれど。


「約束だよ、先生?」


ライラが小指を差し出してくる。


私は安堵の笑みを浮かべ、その小さな指に自分の小指を絡めた。


「約束よ。先生、必ず行くわね」


ディオさんは立ち上がり、ズボンの膝についた砂を払った。


そして、私を見た。


その瞳には、可笑しさと申し訳なさが入り混じったような光があった。


「先ほどの……失礼な言動、申し訳ありませんでした、エララ先生」


丁寧な言葉遣いだったが、彼の口角はわずかに震え、笑いを堪えているのがわかった。


「さあ、ライラ。帰ろう」


「バイバイ、先生! バイバイ、サスキア先生!」


ライラは手を振り、父親の手を握って車へと向かった。


運転席に乗り込む直前、ディオさんが一瞬だけこちらを振り返った。


彼は軽く頭を下げた。


その仕草は、この人混みの中にあって、なぜかひどく親密なものに感じられた。


その眼差しは、言葉を使わずにこう告げていた。


――今夜、待っている。


バタンッ


ドアが閉まる。


エンジンが静かに唸りを上げ、白い車はゆっくりと校門を離れていった。


私はその場に立ち尽くし、遠ざかる車の後ろ姿を見つめていた。


心臓が激しく脈打っているのは、もう羞恥心のせいではない。


期待のせいだ。


「やば……」


サスキアが、ようやく堪えていた爆笑を解き放った。


「あははは! 最高! エララ、あんたの顔、茹で上がったタコみたいだったわよ! 『いつもはお家でパパと私と一緒にいるじゃない』なんて、今年の流行語大賞決定ね!」


私はサスキアの肩を強く叩き、火照ったままの顔を隠した。


「うるさい! もう帰るわよ。冷たい水でシャワーを浴びたいわ」


「どこに帰るの? 私のアパート? それとも、あっちの『お家』?」


サスキアがバイクのエンジンをかけながら、さらにからかってくる。


私は「バッタ号」の後部座席に跨り、親友の腰をぎゅっと抱きしめた。


「いいから出して、サスキア」


バイクが走り出すと、夕方の風が頬を撫でた。


サスキアの背中の後ろで、私は小さく微笑んだ。


ライラが言った「帰る」という言葉が、まだ耳に残っている。


かつての私にとって、帰る場所とはブラウィジャヤにある冷え切った豪邸のことだった。


けれど今、その定義が少しずつ、形を変え始めている。


「帰る」とは、単なる場所のことではない。


待ってくれている人がいる、という感覚のことだ。


そして今夜、私は自分が本当に必要とされている場所へと「帰る」のだ。



最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。自立への第一歩を踏み出したエララと、彼女を自分たちの世界へ引き込もうとするディオとリラ。三人の距離感が少しずつ、しかし確実に変化していく様子に、私自身も筆を動かしながら胸が熱くなる思いです。

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