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第23章 白い封筒の温度

挿絵(By みてみん)


手の中にある陶器のカップは、すでにその温もりを失いつつあった。


さっきまで立ち上っていたココアの湯気は細くなり、甘い香りは鼻腔をかすめるだけで、どこか味気なく感じられる。私はグレーのソファに深く腰掛けたまま、静まり返った褐色の水面を見つめていた。向かい側に座る男の視線から、必死に逃げるように。


ディオは身を乗り出し、両肘を膝について指を組んでいた。いつもなら穏やかで、どこか悪戯っぽさを湛えている彼の瞳が、今は射抜くような強さで私を捉えている。その密度に、私は消え入りたい衝動に駆られた。


「エララ」


低く、静かな声が私の名を呼ぶ。それは何かを強いる響きではなく、ただ心の扉を叩くような、切実な響きだった。


私はカップの縁を指先で強く擦った。


「ただ……ちょっと運が悪かっただけです。よくあることですよ。人生、色々ありますから」


精一杯の微笑みを作ってみる。けれど、震える唇が私の仮面を無残に引き剥がしていく。


ディオは深く、長い溜息をついた。彼はソファの背もたれに体を預け、一度天井を仰いでから、再び私を真っ直ぐに見つめた。


「君はライラのために、ここまで走ってきてくれた。体調を崩した娘のわがままを聞いて、自分の方が今にも倒れてしまいそうな顔をしているのに」


その言葉が、私の心に刺さる。


「せめて、話してくれないか。力になれるかもしれない。たとえ解決できなくても、誰かと分かち合うだけで、その肩の荷は少しだけ軽くなるはずだ」


単純な言葉だった。けれど、そこに込められた濁りのない誠実さが、朝からひび割れていた私の心の堤防を決壊させた。


喉の奥が熱くなり、視界が急激に滲んでいく。


私はうつむき、ココアの表面に揺れる自分の情けない顔をじっと見つめた。


「私……もう、何も持っていないんです」


絞り出した声は、無様に震えていた。


静寂が流れる。ディオは口を挟まず、ただ私の言葉を待っていた。


「銀行口座は凍結されました。すべての口座が凍結され、一銭も引き出せなくなったんです」


最初の一滴が、カップの中に落ちた。小さな波紋が広がる。


「現金なんて一銭も持っていません。交通系ICカードの残高も底をつき。車も……ああ、もう車なんて持っていなかった。今朝、ミネラルウォーター一本買うのさえ、サスキアに出してもらったんです」


顔を上げると、熱い涙が頬を伝った。耐え難い羞恥心が、私の肌を焼き尽くすようだった。


「明日……何を食べていいのかさえ分かりません。どうやって仕事に行けばいいのかも。私は……正真正銘の一文無しなんです。ディオさん」


その告白は、溜まっていた泥を吐き出すような苦痛を伴った。


彼が軽蔑の目を向けるのを覚悟した。「没落したお嬢様なんて、惨めなものだ」という憐れみの視線を。


だが、違った。


彼は静かに息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がり、私の目の前で真剣な表情を浮かべた。


「エララ、君の力を貸してほしいんだ」


私は瞬きを繰り返し、困惑した。「私の……助け?」


「ああ。ライラのために、家庭教師を頼みたい」


眉をひそめる私に、ディオは力強く頷いた。


「君も見ての通り、ライラは体が弱く、学校を休みがちだ。基礎的な学習も遅れている。何より、彼女は新しい人間に心を開くのが難しい」


彼は一歩近づき、私の目線に合わせるようにその場に跪いた。


「彼女をやる気にさせられるのは、君だけだ。ライラが耳を傾けるのは、君だけなんだよ」


「でも……私は学校の担任です。それは、私の職務の一部で……」


「これは別だ」


ディオの声が、私の言葉を遮った。


「放課後の、プライベートな時間をお願いしたい。ここに来るか、ライラが望む場所で、毎日一対一で指導してほしいんだ」


彼は私の瞳をじっと見つめ、逃がさない。


「プロとしての仕事だ。慈善事業じゃない。私は君の働きに対して、正当な報酬を支払いたい」


鈍くなった頭で、私はその提案を反芻した。彼は私に仕事を、役割を与えようとしているのか。私が自分を最も無価値だと感じているこの瞬間に。


「給料だが……」


ディオが口にした数字に、私は絶句した。それは、学校でもらっている一ヶ月分の基本給に匹敵する額だった。


「それは……多すぎます、ディオさん。ただの小学生に読み書きを教えるだけなのに」


私は慌てて拒絶しようとした。それはまるで、施しを受けているようで。


「娘とこれ以上ないほど相性の良い、一流の講師に対する相場だよ」


ディオは私の思考を見抜いたように、素早く言葉を重ねた。


「ライラの安全と安心は、私にとって何物にも代えがたいものなんだ。だから、遠慮しないでくれ」


私は沈黙した。プライドが理屈と戦っていたが、空っぽの胃袋が勝者を告げていた。


「少し待っててくれ」


ディオは立ち上がり、昨日サスキアと共に足を踏み入れた、あの重厚な扉の向こうへと消えた。


ほどなくして戻ってきた彼の手には、一通の白い封筒があった。


彼はそれを、私のココアの隣に置いた。


「これは最初の月の前払いだ。四百万ルピア。現金で入っている」


封筒を見つめる心臓が、激しく脈打つ。それはお金だ。私の命を繋ぐ、救いの手。


「ディオさん……まだ仕事も始めていないのに。せめて、月末に……」


ディオは首を横に振った。その唇に、どこか悲しげな、けれど温かい微かな笑みが浮かぶ。


「今の運命は、君に少し意地悪なようだ。明日を生きるための支えが必要だろう。食事、交通費、そして……一息つくために」


彼は封筒を、少しだけ私の方へ押しやった。


「頼む。これ以上拒まないでくれ。家庭教師に逃げられたくない、強欲な雇い主だと思ってくれて構わない」


また涙が溢れた。今度は、感謝で胸が痛かった。私の尊厳を傷つけないよう、細心の注意を払って助けを差し出す彼のやり方に。


私は震える手を伸ばした。


指先が、封筒の端に触れる。


それと同時に、ディオもまだ封筒から手を離していなかった。


私たちの指先が、重なった。


ビクッ!


静電気のような、けれど熱い衝撃が走った。


私は硬直した。ディオも動きを止め、手を引こうとはしなかった。


視線が絡み合う。


この距離では、彼の暗い瞳の中にある茶色の斑点までが見て取れた。清潔な石鹸の香りと、微かなコーヒーの香りが混じり合い、私の鼻をくすぐる。


空気の質が変わった。親密で、保護者と教師という枠組みを超えた何かが、そこに漂い始める。


「パパ……?」


廊下から響いた掠れた声が、その魔法を瞬時に解いた。


私たちは弾かれたように手を離し、まるで秘密の逢瀬を見つかった若者のように狼狽した。


「のど……かわいた……」


振り返ると、ライラの部屋のドアが少しだけ開いていた。


私の教師としての本能が、あるいはもっと深い場所にある何かが、すぐに体を動かした。私はティッシュをひったくるようにして頬の涙を拭い、立ち上がった。


「私が行きます」


ディオの返事を待たず、キッチンへと向かう。ウォーターサーバーからお湯と水を混ぜ、適温の白湯をグラスに注いだ。もう、手は震えていなかった。


やるべきことがある。私を必要としている子供がいる。


不思議なことに、それだけで、自分が再び世界に繋ぎ止められたような気がした。


• • •


夜の九時。


白いハッチバックは、塗装の剥げかけたサスキアのアパートの前に静かに停まった。


エンジンはかかったままで、エアコンの風が低く唸っている。


道中、私たちは多くを語らなかった。けれど、その沈黙は決して気まずいものではなかった。それは、共有された痛みの後の、穏やかな安息だった。


スピーカーからは、ピアノジャズが静かに流れている。


私は仕事鞄を強く抱きしめた。その中には、あの分厚い白い封筒が入っている。重みを感じるそれは、明日を生きるための翼でもあった。


「着いたよ」


ディオが静かに告げた。


私が隣を見ると、街灯の淡い光が彼の横顔を照らし、鋭い顎のラインを際立たせていた。


「ありがとうございました、ディオさん。いろいろと。送り迎えも、お粥も……そして、お仕事の話も」


ディオはエンジンを切った。彼は体を少しこちらへ向け、左腕をハンドルに乗せた。


そして、私を深く見つめた。


「お礼なんて、もういいんだ、エララ。僕たちは対等だ。君はライラを助け、僕は君を助ける。それだけだよ」


彼の手が動き、ドアのロック解除ボタンを押した。


カチッ


けれど、私はまだ降りたくなかった。この車内の、守られたような空気の中に、もう少しだけ浸っていたかった。


「明日からは……」


ディオがさらに声を和らげた。


「君の、本当の笑顔が見られるのを楽しみにしている。さっきのような、作り笑いじゃなくてね」


心臓が、大きく跳ねた。


「そうなれるように頑張ります」


私は小さく、けれど今度は心からの微笑みを返した。


「ゆっくり休んで。もう何も心配しなくていい。明日はきっといい日になる」


「あなたも。気をつけて帰ってください」


私はドアを開け、カプセルのように守られた空間から外へと降り立った。


夜の空気が肌を撫でる。けれど、もうそれは私を窒息させるものではなかった。


錆びた門の前に立ち、ゆっくりと走り去る白い車を見送る。その光が角を曲がって消えるまで、私はずっとそこに立っていた。


手のひらを見つめると、まだ彼と触れ合った場所が熱を持っているような気がした。鞄の中の封筒の形を、指先でなぞる。


四百万ルピア。


かつての私なら、靴一足分にも満たない金額だったかもしれない。


けれど、家族に捨てられ、社会から抹殺されかけた今夜……この封筒は、世界中のどんな宝石よりも輝いて見えた。


私は深く息を吸い込み、湿った土の匂いが混じる夜風を胸いっぱいに溜めた。


私は貧乏だ。銀行の残高はゼロだ。


けれど、錆びついた門を開ける時、私はブラウィジャヤの邸宅にいた頃よりも、ずっと豊かな気持ちでいた。

最後までご一読いただき、誠にありがとうございました。拙い物語ではございますが、エララとディオの行く末を少しでも楽しんでいただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。皆様の温かい応援が、何よりの励みになります。心より感謝申し上げます。

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