表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/86

第22章 守るべき温もり

挿絵(By みてみん)


学校の正門前で、白いハッチバックが、タイヤを鳴らして急停車した。


アスファルトを削るようなその音に、辺りの喧騒が一瞬だけ静まり返る。


運転席から降りてきたのは、黒のポロシャツを纏ったディオだった。鍛え上げられた体躯が、夕日に照らされて長い影を落とす。


サスキアは驚いたようにバイクのスタンドを蹴り下ろした。


「ガチャンッ!」


「ディオさん?」サスキアが戸惑い混じりの声を上げる。


「どうしたんですか、そんなに急いで。ドリフトでも決めるつもりかと思いましたよ」


ディオはその冗談を受け流し、大股でバイクの横を通り過ぎた。


彼は私の目の前、わずか一メートルの距離で足を止める。


その瞳には、いつもの冷静さとは違う、切迫した色が浮かんでいた。


「エララ先生」


低く、心臓の奥に響くような声だった。


「突然で申し訳ないが、迎えに来ました」


私は抱えていた抱えていた仕事カバンを、まるで盾にするように胸元で強く抱え込んだ。


「あの……何かあったんですか? 今ちょうど帰るところで……」


「ライラが」


ディオが言葉を遮るように言った。


娘の名を口にした瞬間、彼の鋭い眼差しにわずかな揺らぎが生じる。


「昼過ぎから高熱を出しているんです。熱が上がる一方で……」


心臓がドクンと跳ねた。


「えっ……ライラちゃんが? 大丈夫なんですか?」


ディオは苦々しく首を振ると、苛立ちを隠せない様子で髪をかき上げた。


「ずっとうなされています。先生の名前を呼んで……」


彼は言葉を一度切り、私を真っ直ぐに見つめた。


「食事も水分も拒否して、薬も飲もうとしない。先生が来てくれないと嫌だと」


その瞳には、一人の父親としての切実な願いが込められていた。


「お願いします。どう宥めても聞き入れてくれないんだ。少しだけ、時間をいただけませんか?」


私は言葉を失った。


今日の学校での出来事、残高ゼロになった銀行口座、そして空腹による目眩。


自分の足で立っているのが精一杯の状態で、誰かの面倒を見られるのだろうか。


隣に立つサスキアを、縋るような思いで見つめる。


彼女はディオの顔と私を交互に見比べ、その緊急性が本物であることを察したようだった。


ポンッ!


サスキアが私の背中を力強く叩いた。


「行きなよ、エララ」


彼女の声は迷いがない。


「ライラちゃんにはあんたが必要なんだよ。それに、今このまま帰っても、あんたはどうせ暗い部屋で落ち込むだけでしょ」


「でも、サスキア……」


「いいから、これは『課外授業』だと思って。ね?」


サスキアはディオに向き直り、釘を刺すように言った。


「ディオさん、私の大事な親友を貸し出しますからね。お腹いっぱいにさせて、無傷で、ちゃんとここまで送り届けてくださいよ」


ディオは力強く頷いた。


その口元に、ようやく安堵の色が混じった微かな笑みが浮かぶ。


「約束します。ありがとうございます、サスキアさん」


私は観念して、小さく溜息をついた。


ライラへの心配が、疲労と惨めさを上回った瞬間だった。


震える手でヘルメットを脱ぎ、それをサスキアに託す。


「気をつけてね、エララ」


サスキアが小声で耳打ちした。


私は小さく頷き、ディオの後を追った。


彼は何も言わずに助手席のドアを開け、私が乗り込むのを待ってくれた。


乗り込む際、彼がそっと手を差し伸べ、私の頭が車のフレームに当たらないよう守ってくれる。


その些細な仕草が、今の私にはあまりにも贅沢に感じられた。


世界からゴミのように扱われた今日、この人だけは私を壊れ物のように扱ってくれる。


バタンッ!


重厚なドアが閉まった。


外の世界の騒音――クラクションの音、子供たちの叫び声、アスファルトの熱気。


それらすべてが、魔法のように消え去った。


車内は静寂に包まれている。


エアコンの冷気が、汗ばんだ肌を優しく撫でた。


まるで残酷な現実から切り離された、繭の中に守られているような感覚。


強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていくのがわかった。


ディオが運転席に乗り込む。


カチッ


シートベルトを締めた彼は、すぐには車を出さなかった。


コンソールにあるカップホルダーから、黒いステンレスボトルを取り出す。


「まずはこれを飲んでください」


「……え?」


「温かいジャスミン茶です。来る前に用意しました。少し砂糖を入れてあります」


私はボトルを受け取った。


じんわりとした温かさが、冷え切った指先から伝わってくる。


蓋を開けると、甘く華やかな香りが車内に広がった。


一口、喉に流し込む。


ゴクッ、ゴクッ


温かい液体が空っぽの胃に染み渡り、全身にエネルギーが巡っていく。


下がっていた血糖値が、ゆっくりと回復していくのがわかった。


「ゆっくりでいい」


ディオが穏やかな声で言った。


片手でハンドルを握り、夕暮れの渋滞を滑るように進んでいく。


「ライラに会う前に倒れられては困ります。顔色がひどく悪い」


私はボトルを離し、唇の端を拭った。


「すみません……。今日は、少し……いろいろあって」


ディオは「何があったのか」とは聞かなかった。


ただ前を見つめたまま、私が説明しなくてもいいような空気を作ってくれる。


その沈黙こそが、今の私への最大の贈り物だった。


***


車は高級住宅街、セノパティへと入っていく。


窓の外には、洗練されたビルや大手銀行の看板が並んでいた。


ふと、青いロゴの銀行が目に入る。


私のスマホの中で「残高ゼロ」を突きつけた、あの銀行と同じロゴだ。


反射的に体が強張り、ボトルを握る指に力が入る。


パニックが再び喉元までせり上がってくる。


その時、車内に柔らかな音が響いた。


ピアノジャズだった。


低く心地よい旋律が、張り詰めた空気を溶かしていく。


ラジオの騒がしい音楽ではない、選び抜かれたプレイリスト。


驚いて彼を見ると、ディオの手がステアリングのオーディオスイッチから離れるところだった。


「この曲は、神経を落ち着かせるのにいい」


彼は平然と言った。


まるで、私のパニックを察したことなどおくびにも出さずに。


「少し目を閉じていなさい。あと十分ほどで着く」


私はその言葉に従った。


背もたれに深く身を預け、ピアノの音色に身を委ねる。


頭の中にこびりついていた「ゼロ」という数字が、少しずつ遠ざかっていった。


***


車はカフェ・アルクスの駐車場へと滑り込んだ。


しかし、ディオは客で賑わう正面入口には向かわない。


建物の脇を通り抜け、高い生垣に囲まれた関係者専用のスペースに車を停めた。


エンジンが止まる。


「横の入口から入りましょう。直接二階へ」


ディオがシートベルトを外しながら言った。


「騒がしいカフェを通る必要はありません」


私は心から感謝した。


今の私は、誰の目にも触れたくないほどボロボロだ。


目は腫れ、服はシワだらけで、髪も乱れている。


彼はそんな私の尊厳を、無言のまま守ってくれたのだ。


グレーの鉄扉を開けると、そこには二階へと続く階段があった。


微かにコーヒーの香りが漂っているが、それよりも清潔なワックスの匂いが勝っている。


二階に上がると、リビングのドアが開いた。


家政婦のビ・ヤニさんが、不安そうな顔で私たちを迎える。


「ああ、先生……よく来てくださいました」


彼女は小声で安堵の溜息をついた。


「ずっと先生を呼んで、泣きじゃくっておられたんですよ」


「熱はどうですか、ビさん」


ディオが靴を脱ぎながら尋ねる。


「まだ三十八度五分あります。でも、先生が来ると伝えたら少し落ち着かれました」


ディオが私を振り返る。


「行きましょう」


私たちはライラの部屋に入った。


部屋の明かりは落とされ、ナイトランプの淡い光だけが灯っている。


ぬいぐるみに囲まれたベッドの中で、小さなライラが大きな布団に埋もれるように横たわっていた。


額には冷却シートが貼られている。


「ライラちゃん……」


私は枕元に歩み寄り、熱を持った頬にそっと触れた。


長い睫毛が震え、瞳がゆっくりと開く。


潤んだグレーの瞳が、私を捉えた。


「……せんせい?」


掠れた、消え入りそうな声。


「そうよ、先生よ。ここに来たわ」


ライラの唇が、弱々しく弧を描いた。


布団から伸びてきた小さな手が、私の指をぎゅっと握りしめる。


力はないけれど、その熱さが胸に刺さった。


「せんせい……もう、こないとおもった……」


「そんなわけないでしょう。先生もライラちゃんに会いたかったのよ」


ディオが盆に載せた粥と水を持って現れた。


それをナイトテーブルに置き、私を見つめる。


「少しだけでも、食べさせていただけますか? 薬を飲ませたいんです」


私は頷き、茶碗を手に取った。


「ライラちゃん、少しだけ食べようか? ほら、ほら、あーんして。あーん、しましょうね」


先ほどまで食事を拒んでいたのが嘘のように、ライラは素直に口を開けた。


ゆっくりと、一口ずつ、彼女は粥を飲み込んでいく。


その無垢な顔を見つめながら、胸の奥が熱くなった。


この子には、自分のために必死になってくれる父親がいる。


愛され、守られ、帰るべき場所がある。


不意に、視界が歪んだ。


私とは、あまりにも対照的だ。


親に金のために切り捨てられ、帰る場所さえ失った私。


一滴の涙が、頬を伝って落ちた。


私は慌てて手の甲でそれを拭い、ライラに精一杯の笑顔を向けた。


「お利口さんね……。もう一口、頑張れるかな?」


ライラは虚ろな瞳で私を見つめ、教師の心の内にある絶望など知る由もなかった。


彼女にとっての真実は、大好きな先生とパパがそばにいてくれる、その安心感だけだった。


***


三十分後。


ライラの呼吸は穏やかになり、解熱剤の効果で深い眠りに落ちていた。


私は繋がれていた小指をそっと離し、毛布を整える。


部屋を出ると、全身の力が抜けるような感覚に襲われた。


蓄積された疲労と精神的なダメージが、一気に押し寄せてくる。


リビングへ向かうと、メインの照明が暗めに落とされていた。


ディオが一人、ソファに深く腰掛けている。


ポロシャツを脱ぎ、グレーのラフなTシャツに着替えた彼は、いつになく隙があるように見えた。


テーブルの上には、二つのマグカップから湯気が立ち上っている。


濃厚なホットチョコレートの香りが、部屋を満たしていた。


私の足音に気づき、ディオが顔を上げた。


その表情は真剣で、射抜くような眼差しが私を捉える。


「眠ったか」


「はい。ぐっすりと」


ディオは顎で、目の前のソファを指した。


「座れ、エララ。これを飲め」


エララ?


彼が再び、私の名前を呼び捨てにした。


私は促されるままに座り、温もりを求めるようにカップを両手で包み込んだ。


ディオは私を真っ直ぐに見つめている。


その視線は、私のボロボロになった心の内を見透かしているかのようだった。


彼は少し身を乗り出し、膝の上に肘をついて私を逃がさないように見据えた。


「サスキアから昨夜、少しだけ話は聞いた。だが、今は君の口から直接聞きたい」


その声は低く、重く、そして拒絶を許さない響きを持っていた。


保護者としてではない。一人の男としての、剥き出しの関心だった。


「顔色は真っ青で、服は乱れ、目はすべてを失った人間のようだ。……一体、今日何があったんだ?」

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。


この物語が少しでも皆様の心に届き、エララやディオの想いを温かく受け止めていただければ、作者としてこれ以上の幸せはありません。


拙い文章ではありますが、一文字一文字に精一杯の想いを込めて書いています。物語の意図や雰囲気が、皆様に正しく伝わっていることを願うばかりです。


これからもこの物語を大切に紡いでいきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ