第22章 守るべき温もり
学校の正門前で、白いハッチバックが、タイヤを鳴らして急停車した。
アスファルトを削るようなその音に、辺りの喧騒が一瞬だけ静まり返る。
運転席から降りてきたのは、黒のポロシャツを纏ったディオだった。鍛え上げられた体躯が、夕日に照らされて長い影を落とす。
サスキアは驚いたようにバイクのスタンドを蹴り下ろした。
「ガチャンッ!」
「ディオさん?」サスキアが戸惑い混じりの声を上げる。
「どうしたんですか、そんなに急いで。ドリフトでも決めるつもりかと思いましたよ」
ディオはその冗談を受け流し、大股でバイクの横を通り過ぎた。
彼は私の目の前、わずか一メートルの距離で足を止める。
その瞳には、いつもの冷静さとは違う、切迫した色が浮かんでいた。
「エララ先生」
低く、心臓の奥に響くような声だった。
「突然で申し訳ないが、迎えに来ました」
私は抱えていた抱えていた仕事カバンを、まるで盾にするように胸元で強く抱え込んだ。
「あの……何かあったんですか? 今ちょうど帰るところで……」
「ライラが」
ディオが言葉を遮るように言った。
娘の名を口にした瞬間、彼の鋭い眼差しにわずかな揺らぎが生じる。
「昼過ぎから高熱を出しているんです。熱が上がる一方で……」
心臓がドクンと跳ねた。
「えっ……ライラちゃんが? 大丈夫なんですか?」
ディオは苦々しく首を振ると、苛立ちを隠せない様子で髪をかき上げた。
「ずっとうなされています。先生の名前を呼んで……」
彼は言葉を一度切り、私を真っ直ぐに見つめた。
「食事も水分も拒否して、薬も飲もうとしない。先生が来てくれないと嫌だと」
その瞳には、一人の父親としての切実な願いが込められていた。
「お願いします。どう宥めても聞き入れてくれないんだ。少しだけ、時間をいただけませんか?」
私は言葉を失った。
今日の学校での出来事、残高ゼロになった銀行口座、そして空腹による目眩。
自分の足で立っているのが精一杯の状態で、誰かの面倒を見られるのだろうか。
隣に立つサスキアを、縋るような思いで見つめる。
彼女はディオの顔と私を交互に見比べ、その緊急性が本物であることを察したようだった。
ポンッ!
サスキアが私の背中を力強く叩いた。
「行きなよ、エララ」
彼女の声は迷いがない。
「ライラちゃんにはあんたが必要なんだよ。それに、今このまま帰っても、あんたはどうせ暗い部屋で落ち込むだけでしょ」
「でも、サスキア……」
「いいから、これは『課外授業』だと思って。ね?」
サスキアはディオに向き直り、釘を刺すように言った。
「ディオさん、私の大事な親友を貸し出しますからね。お腹いっぱいにさせて、無傷で、ちゃんとここまで送り届けてくださいよ」
ディオは力強く頷いた。
その口元に、ようやく安堵の色が混じった微かな笑みが浮かぶ。
「約束します。ありがとうございます、サスキアさん」
私は観念して、小さく溜息をついた。
ライラへの心配が、疲労と惨めさを上回った瞬間だった。
震える手でヘルメットを脱ぎ、それをサスキアに託す。
「気をつけてね、エララ」
サスキアが小声で耳打ちした。
私は小さく頷き、ディオの後を追った。
彼は何も言わずに助手席のドアを開け、私が乗り込むのを待ってくれた。
乗り込む際、彼がそっと手を差し伸べ、私の頭が車のフレームに当たらないよう守ってくれる。
その些細な仕草が、今の私にはあまりにも贅沢に感じられた。
世界からゴミのように扱われた今日、この人だけは私を壊れ物のように扱ってくれる。
バタンッ!
重厚なドアが閉まった。
外の世界の騒音――クラクションの音、子供たちの叫び声、アスファルトの熱気。
それらすべてが、魔法のように消え去った。
車内は静寂に包まれている。
エアコンの冷気が、汗ばんだ肌を優しく撫でた。
まるで残酷な現実から切り離された、繭の中に守られているような感覚。
強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていくのがわかった。
ディオが運転席に乗り込む。
カチッ
シートベルトを締めた彼は、すぐには車を出さなかった。
コンソールにあるカップホルダーから、黒いステンレスボトルを取り出す。
「まずはこれを飲んでください」
「……え?」
「温かいジャスミン茶です。来る前に用意しました。少し砂糖を入れてあります」
私はボトルを受け取った。
じんわりとした温かさが、冷え切った指先から伝わってくる。
蓋を開けると、甘く華やかな香りが車内に広がった。
一口、喉に流し込む。
ゴクッ、ゴクッ
温かい液体が空っぽの胃に染み渡り、全身にエネルギーが巡っていく。
下がっていた血糖値が、ゆっくりと回復していくのがわかった。
「ゆっくりでいい」
ディオが穏やかな声で言った。
片手でハンドルを握り、夕暮れの渋滞を滑るように進んでいく。
「ライラに会う前に倒れられては困ります。顔色がひどく悪い」
私はボトルを離し、唇の端を拭った。
「すみません……。今日は、少し……いろいろあって」
ディオは「何があったのか」とは聞かなかった。
ただ前を見つめたまま、私が説明しなくてもいいような空気を作ってくれる。
その沈黙こそが、今の私への最大の贈り物だった。
***
車は高級住宅街、セノパティへと入っていく。
窓の外には、洗練されたビルや大手銀行の看板が並んでいた。
ふと、青いロゴの銀行が目に入る。
私のスマホの中で「残高ゼロ」を突きつけた、あの銀行と同じロゴだ。
反射的に体が強張り、ボトルを握る指に力が入る。
パニックが再び喉元までせり上がってくる。
その時、車内に柔らかな音が響いた。
ピアノジャズだった。
低く心地よい旋律が、張り詰めた空気を溶かしていく。
ラジオの騒がしい音楽ではない、選び抜かれたプレイリスト。
驚いて彼を見ると、ディオの手がステアリングのオーディオスイッチから離れるところだった。
「この曲は、神経を落ち着かせるのにいい」
彼は平然と言った。
まるで、私のパニックを察したことなどおくびにも出さずに。
「少し目を閉じていなさい。あと十分ほどで着く」
私はその言葉に従った。
背もたれに深く身を預け、ピアノの音色に身を委ねる。
頭の中にこびりついていた「ゼロ」という数字が、少しずつ遠ざかっていった。
***
車はカフェ・アルクスの駐車場へと滑り込んだ。
しかし、ディオは客で賑わう正面入口には向かわない。
建物の脇を通り抜け、高い生垣に囲まれた関係者専用のスペースに車を停めた。
エンジンが止まる。
「横の入口から入りましょう。直接二階へ」
ディオがシートベルトを外しながら言った。
「騒がしいカフェを通る必要はありません」
私は心から感謝した。
今の私は、誰の目にも触れたくないほどボロボロだ。
目は腫れ、服はシワだらけで、髪も乱れている。
彼はそんな私の尊厳を、無言のまま守ってくれたのだ。
グレーの鉄扉を開けると、そこには二階へと続く階段があった。
微かにコーヒーの香りが漂っているが、それよりも清潔なワックスの匂いが勝っている。
二階に上がると、リビングのドアが開いた。
家政婦のビ・ヤニさんが、不安そうな顔で私たちを迎える。
「ああ、先生……よく来てくださいました」
彼女は小声で安堵の溜息をついた。
「ずっと先生を呼んで、泣きじゃくっておられたんですよ」
「熱はどうですか、ビさん」
ディオが靴を脱ぎながら尋ねる。
「まだ三十八度五分あります。でも、先生が来ると伝えたら少し落ち着かれました」
ディオが私を振り返る。
「行きましょう」
私たちはライラの部屋に入った。
部屋の明かりは落とされ、ナイトランプの淡い光だけが灯っている。
ぬいぐるみに囲まれたベッドの中で、小さなライラが大きな布団に埋もれるように横たわっていた。
額には冷却シートが貼られている。
「ライラちゃん……」
私は枕元に歩み寄り、熱を持った頬にそっと触れた。
長い睫毛が震え、瞳がゆっくりと開く。
潤んだグレーの瞳が、私を捉えた。
「……せんせい?」
掠れた、消え入りそうな声。
「そうよ、先生よ。ここに来たわ」
ライラの唇が、弱々しく弧を描いた。
布団から伸びてきた小さな手が、私の指をぎゅっと握りしめる。
力はないけれど、その熱さが胸に刺さった。
「せんせい……もう、こないとおもった……」
「そんなわけないでしょう。先生もライラちゃんに会いたかったのよ」
ディオが盆に載せた粥と水を持って現れた。
それをナイトテーブルに置き、私を見つめる。
「少しだけでも、食べさせていただけますか? 薬を飲ませたいんです」
私は頷き、茶碗を手に取った。
「ライラちゃん、少しだけ食べようか? ほら、ほら、あーんして。あーん、しましょうね」
先ほどまで食事を拒んでいたのが嘘のように、ライラは素直に口を開けた。
ゆっくりと、一口ずつ、彼女は粥を飲み込んでいく。
その無垢な顔を見つめながら、胸の奥が熱くなった。
この子には、自分のために必死になってくれる父親がいる。
愛され、守られ、帰るべき場所がある。
不意に、視界が歪んだ。
私とは、あまりにも対照的だ。
親に金のために切り捨てられ、帰る場所さえ失った私。
一滴の涙が、頬を伝って落ちた。
私は慌てて手の甲でそれを拭い、ライラに精一杯の笑顔を向けた。
「お利口さんね……。もう一口、頑張れるかな?」
ライラは虚ろな瞳で私を見つめ、教師の心の内にある絶望など知る由もなかった。
彼女にとっての真実は、大好きな先生とパパがそばにいてくれる、その安心感だけだった。
***
三十分後。
ライラの呼吸は穏やかになり、解熱剤の効果で深い眠りに落ちていた。
私は繋がれていた小指をそっと離し、毛布を整える。
部屋を出ると、全身の力が抜けるような感覚に襲われた。
蓄積された疲労と精神的なダメージが、一気に押し寄せてくる。
リビングへ向かうと、メインの照明が暗めに落とされていた。
ディオが一人、ソファに深く腰掛けている。
ポロシャツを脱ぎ、グレーのラフなTシャツに着替えた彼は、いつになく隙があるように見えた。
テーブルの上には、二つのマグカップから湯気が立ち上っている。
濃厚なホットチョコレートの香りが、部屋を満たしていた。
私の足音に気づき、ディオが顔を上げた。
その表情は真剣で、射抜くような眼差しが私を捉える。
「眠ったか」
「はい。ぐっすりと」
ディオは顎で、目の前のソファを指した。
「座れ、エララ。これを飲め」
エララ?
彼が再び、私の名前を呼び捨てにした。
私は促されるままに座り、温もりを求めるようにカップを両手で包み込んだ。
ディオは私を真っ直ぐに見つめている。
その視線は、私のボロボロになった心の内を見透かしているかのようだった。
彼は少し身を乗り出し、膝の上に肘をついて私を逃がさないように見据えた。
「サスキアから昨夜、少しだけ話は聞いた。だが、今は君の口から直接聞きたい」
その声は低く、重く、そして拒絶を許さない響きを持っていた。
保護者としてではない。一人の男としての、剥き出しの関心だった。
「顔色は真っ青で、服は乱れ、目はすべてを失った人間のようだ。……一体、今日何があったんだ?」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
この物語が少しでも皆様の心に届き、エララやディオの想いを温かく受け止めていただければ、作者としてこれ以上の幸せはありません。
拙い文章ではありますが、一文字一文字に精一杯の想いを込めて書いています。物語の意図や雰囲気が、皆様に正しく伝わっていることを願うばかりです。
これからもこの物語を大切に紡いでいきますので、どうぞよろしくお願いいたします。




