第20章 影の支配者
プシューッ。
エスプレッソマシンのスチームノズルが鋭い音を立て、ミルクの甘い香りが漂う。だが、俺の狙いは、それじゃない。氷を詰め込んだプラスチックカップに、抽出したばかりの熱い液体を注ぐ。
カラン、コト。
氷がひび割れる微かな音が、バーカウンターの喧騒に紛れる。
「アイスアメリカーノ、ショット追加です。どうぞ」
俺は営業用の完璧な笑みを浮かべ、水滴のついたカップをカウンターに滑らせた。
「ありがとう、マスター」
パリッとしたシャツを着た男性客が軽く会釈し、カップを掴んで店を出ていく。自動ドアが開く一瞬、ジャカルタのセノパティ通り特有の、アスファルトが焼けるような熱気と湿度が店内に流れ込み、すぐに空調の冷気に飲み込まれた。
客足が途絶える。
俺は手についた水滴を黒いエプロンで拭いながら、肺の奥に溜まった澱を吐き出すように、深く重いため息をついた。
視線を落とすと、ステンレスのカウンターに自分の顔が映っている。そこにあるのは「カフェ・アークス」の親切なオーナー、ディオの顔だ。だが、その瞳の奥には、昨夜の記憶が冷たい棘のように刺さっていた。
『エララは……売られたのよ。借金を返すために』
サスキアの震える声が、脳内でリフレインする。
助手席で眠っていたエララの、疲れ切った寝顔。ホットチョコレートのマグカップを握りしめていた、あの細い指の震え。そして、彼女の瞳の奥に巣食っていた、底知れぬ恐怖。
あれは単なる家庭の事情ではない。生きる気力を失った人間が浮かべる、絶望の色だった。
俺は首にかけていたエプロンの紐を解いた。
バサリ。
黒い布がカウンターの下に落ちる。「一般人」としての仮面を脱ぎ捨てる音のようだった。
「ディマス」
俺は声を潜めた。怒鳴ったわけではない。だが、その声のトーンは、カフェのオーナーのものではなかった。
テーブルを拭いていたディマスが、弾かれたように顔を上げる。
「はい、ボス?」
「店を頼む。俺は上で片付ける仕事がある」
ディマスは俺の目を見た瞬間、いつもの軽口を飲み込んだ。彼は勘がいい。俺が今、コーヒー豆の在庫管理やシフト調整の話をしていないことを悟ったのだ。
「……了解です。よほどのことがない限り、お呼びしません」
「助かる」
短く答え、俺はスタッフ専用の木製ドアへと向かった。足音が変わる。スニーカーの柔らかい着地音ではなく、獲物を追う獣のような、重く静かな足取りに変わる。
• • •
二階の廊下は静寂に包まれていた。
ライラの部屋の前を通る。ドアは閉まっているが、中から微かな寝息が聞こえるような気がした。今朝から熱を出して学校を休んでいる娘。
俺は足を止めず、廊下の突き当たりにある壁へと向かった。
一見すると、ただのモダンな木製パネルの装飾壁だ。ドアノブもなければ、鍵穴もない。知らなければ、ただの行き止まりにしか見えないだろう。
俺はその壁の前に立ち、ある一点を見つめた。木目の間に隠された、極小のレンズを。
ピピッ。
網膜スキャン完了を告げる電子音が、耳を突く。
プシュー……。
油圧式のシリンダーが作動し、壁が音もなくスライドした。
途端に、空気が変わる。
廊下のラベンダーの香りとは対照的な、無機質で冷徹な匂い。冷却ファンが排気するオゾンの匂いと、張り詰めた電子機器の熱気。
俺は中へと足を踏み入れた。
四メートル四方の完全防音室。窓はない。壁一面が吸音材で覆われた灰色の空間。
部屋の中央には、強化ガラスで作られた黒いデスクが鎮座している。その上には三台の湾曲モニターが並び、世界中の株式市場の動きをリアルタイムで映し出していた。赤と緑の数字が滝のように流れ落ち、世界経済の脈動を可視化している。
ここが《ザ・ノード》。
アークシロン・ヘリテージ・キャピタル、東南アジア支局の中枢神経。
背後で壁が閉まる音がした。外界との遮断完了。
俺はエルゴノミクスチェアに深く腰を下ろした。革の冷たい感触が背中に伝わる。この瞬間、俺はライラの父親でも、カフェのマスターでもない。
三十億ドルの資産を動かす、影の会長に戻る。
指先がレーザーキーボードの上を滑る。
カタ、カタ、カタ……ッ、ターンッ!
「レオンハルト・ヴェイルへ接続。回線暗号化レベル1」
モニターの一つにコールサインが表示される。呼び出し音は二回だけ。三回目が鳴る前に、画面に男の顔が浮かび上がった。
ニューヨーク、マンハッタンの高級アパートメント。背景には摩天楼の夜景ではなく、重厚なカーテンが引かれている。現地時間は深夜一時だ。
画面の中のレオンハルトはシルクのパジャマ姿で、片手にミネラルウォーターのグラスを持っていた。白髪交じりの髪が少し乱れている。
「……ディオ?」
寝起き特有の、少し掠れた声。だが、その眼光は鋭い。
「こんな時間に専用回線を使ってくるとはな。天変地異でも起きたか? それとも天地がひっくり返るような事態か?」
「美人の隣で寝ていたところを悪かったな、レオン。だが、お前の知恵を貸してくれ」
レオンハルトは苦笑し、グラスをサイドテーブルに置いた。
「皮肉はいい。若様が俺を叩き起こすなんて、よほどの事態だ。言ってみろ」
「ある企業の解剖をしてほしい。今すぐにだ」
俺の言葉に、レオンハルトの表情から眠気が消えた。彼はプロフェッショナルだ。
「社名は?」
彼は画面外にあるタブレットを引き寄せた。
「ドウィジャヤ・トレーディング。ジャカルタの貿易会社だ」
レオンハルトが片眉を上げる。
「ローカルの中小企業か? アークシロンの投資基準にはカスりもしないぞ。なぜそんな案件に興味を?」
「いいから、やれ」
俺の声が低くなる。レオンハルトはそれ以上何も聞かず、指を動かし始めた。
カチャ、カチャ、カチャ。
俺の手元のモニターにも、データが同期され始める。貸借対照表、キャッシュフロー計算書、主要取引先リスト、そして債務残高。
沈黙が二分間続いた。部屋に響くのは、サーバーの低い唸り声だけだ。
「ふむ……」
レオンハルトが鼻を鳴らした。
「こいつは酷いな。いや、見事と言うべきか」
「何が見える?」
「真綿で首を絞めるようなやり口だ、ディオ。見るに堪えない惨状だ」
レオンハルトは画面を指差した。
「過去二年で、キャッシュフローが不自然に悪化している。原因は主要ベンダーによる支払いサイトの短縮と、銀行融資の突然の引き締めだ。まるで誰かが蛇口を閉めるタイミングを指揮しているみたいにな」
俺の目が細められる。
「そのベンダーたちの背後関係を洗え」
「……ビンゴ。すべて『ダルヴィアン・トレーディング』の息がかかっている」
予想通りだ。
俺は奥歯を噛み締めた。レイ・ダルヴィアン。あの男は、ただエララを欲しがっているだけではない。彼女の家族ごと追い込み、逃げ場をなくし、尊厳を奪った上で「救世主」として現れるつもりだ。
「マッチポンプだな。自分で火をつけておいて、消火器を高値で売りつける」
「古典的だが、効果的だ」
レオンハルトは冷ややかに言った。
「だがディオ、なぜお前がこれに関わる? この会社には技術的価値も、将来性もない。ただの沈みかけた泥舟だ」
俺はモニターに映る『ラフリ・ドウィジャヤ』という名前を見つめた。エララの父親。かつては誇り高かったであろう実業家が、今や娘を売らなければならないほど追い詰められている。
「……この会社の社長の娘が、ライラの担任教師だ」
俺は正直に答えた。
「そして、母親がいなくなってから初めて、ライラを心から笑わせてくれた人間でもある」
画面の向こうで、レオンハルトの動きが止まった。彼の表情がふっと緩む。彼は俺がどれほどライラを大切にしているか、そしてカミーユが去った後の俺たちがどれほど壊れていたかを知っている数少ない人間だ。
「ああ……『先生』か」
レオンハルトは納得したように頷いた。
「なるほど。アークシロンの会長を動かす理由としては、十分すぎるほどだ」
彼は再びデータに目を落とし、さらに指を走らせた。
「待て。今朝、新しい動きがある。ドウィジャヤのメインバンクが、資産凍結の手続きに入ったようだ」
「なんだと? 早すぎる」
「ああ。引き金になったのは、保証人の撤退だ。その保証人の名前は……レイ・ダルヴィアン」
俺は拳を握りしめ、ガラスのデスクを叩きそうになるのを堪えた。
レイは、エララが拒絶した瞬間に次の手を打ったのだ。父親を刑務所送りにするという脅しを現実に近づけるために。
「袋の鼠にして、猫が来るのを待っているわけか」
胸の奥で、どす黒い怒りが渦巻いた。
金を使って人の心を支配しようとする傲慢さ。それはかつて、俺から全てを奪おうとした連中と同じ匂いがする。そして何より、俺がフランスで自分の名前を捨てた理由そのものだ。
「レオン」
俺は低く、重い声を出した。
「指示を聞け」
レオンハルトが背筋を伸ばす。俺がこのトーンで話す時、それは相談ではなく、絶対的な命令であることを彼は知っている。
「『ベクター・ホールディングス』を使え。去年、シンガポールでの買収に使ったペーパーカンパニーだ」
「了解。ベクターを使って、どうする?」
「ドウィジャヤ・トレーディングの債権を買い取れ。銀行が持っている分、未払いのベンダーへの債務、すべてだ。一ルピアたりとも残すな」
レオンハルトが目を見開いた。
「正気か? あの会社は死に体だぞ。債権を買うということは、ゴミを金で買うのと同じだ。ROI(投資利益率)はマイナス確定だ」
俺はカメラレンズを睨みつけた。その視線が、海底ケーブルを越えてニューヨークの彼を射抜くように。
「利益などどうでもいい。俺が欲しいのは『支配権』だ」
俺は言葉を区切った。
「ドウィジャヤの首根っこを押さえるのは、ダルヴィアンじゃない。俺たちだ」
トロイの木馬。
敵の懐に「最大の債権者」として入り込み、内部から主導権を奪う。会社を潰すためではない。守るために。
「……三日くれ」
レオンハルトが渋い顔で言った。
「二十四時間だ。裁判所から差し押さえ通知が出る前に片付けろ」
「お前は本当に……人使いが荒いにも程がある」
レオンハルトは降参するように両手を上げたが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。彼もまた、こういう無茶な喧嘩が嫌いではないのだ。
「了解した、ボス。寝るのは諦めるよ。ライラのため、そしてその先生のためにな」
「頼んだぞ、アンクル」
俺が昔の呼び名を使うと、彼は優しく微笑んだ。
プツン。
通信が切れる。
俺は暗闇の中で、しばらく動かずにいた。モニターの青白い光が、俺の顔を照らしている。
レイ・ダルヴィアン。お前は神のつもりで人の運命を弄んでいるようだが、相手が悪かった。
お前が喧嘩を売ったのは、ただのバリスタじゃない。
• • •
午後一時四十五分。
俺はパネルの裏から出た。
ウィーン……ガチャリ。
壁が閉まり、冷徹な支配者の顔は再び封印された。
俺は深呼吸をし、肩の力を抜いた。顔の筋肉を緩め、冷たい鉄仮面を脱ぎ捨てる。そして、心配性の父親の顔を貼り付けた。
ライラの部屋のドアを、そっと開ける。
「……パパ?」
微かな声。
ライラはベッドの上で小さくなっていた。熱のせいで頬が赤い。愛用のボロボロになった人形「ボボ」を、胸に強く抱きしめている。
俺はすぐにベッドの縁に座り、彼女の額に手を当てた。まだ熱い。だが、朝よりは少し落ち着いているようだ。
「やあ、お姫様。起きたのかい?」
ライラは力なく頷き、その大きな瞳で部屋の入り口を探した。
「……エララ先生は? 来ないの?」
胸が締め付けられるような痛み。
「先生は学校でお仕事だよ。今日はライラがお休みしたから、会えなかったね」
ライラの唇がへの字に曲がる。
「でも……先生に会いたい。先生に、お粥フーフーしてほしい……」
その目尻から、涙がこぼれ落ちた。
部屋の隅で控えていた家政婦のヤニさんが、心配そうに俺を見た。サイドテーブルには、手つかずのお粥が冷めかけている。
「ずっとぐずってらして……。先生じゃないと嫌だって」
ヤニさんが小声で報告する。
俺はお粥の器を手に取った。スプーンでかき混ぜ、少しでも食欲をそそるように湯気を立てる。
「パパじゃダメかな? ほら、飛行機だぞー。ブーン……」
スプーンを口元に運ぶが、ライラは顔を背けた。
「イヤ……先生がいい……」
拒絶。
普段なら聞き分けの良い娘が、これほどまでに誰かを求めるなんて。
俺はお粥を置いた。
娘の涙を見るたびに、心臓が雑巾のように絞られる。そして同時に、エララを追い詰めている連中への怒りが、どす黒い炎となって燃え上がる。
俺の娘がこれほど慕う女性を、金のために壊そうとする奴ら。
許さない。絶対に。
俺はライラの汗ばんだ髪を優しく撫でた。
「ライラ」
俺は彼女の耳元で囁いた。それは、自分自身への誓いでもあった。
「パパが約束する。必ず、先生を連れてくるから。そして、二度と先生が悲しい顔をしないように、パパが守ってあげる」
ライラが濡れた瞳で俺を見上げた。
「……ほんと?」
「ああ、本当だ。アトマンタの男は嘘をつかない」
俺は彼女の額にキスをした。
そうだ。レイ・ダルヴィアンは、眠っていた怪物を起こしてしまったのだ。
その代償は、彼が想像するよりも遥かに高くつくことになるだろう。




