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第2章 予期せぬ父親

挿絵(By みてみん)


 教室の入り口が開いた瞬間、私とサスキアの会話は凍りついた。


 わずか三秒の間だった。


 私たちはただ、そこに入ってきた男を凝視することしかできなかった。


 彼の腕の中にはライラがいた。


 小さな腕を、父親の逞しい首にしっかりと回している。


「ハーフの美形パパ」という私の勝手な予想は、一瞬で脆くも崩れ去った。


 彼は生粋のアジア人だった。


 彫りの深い、整った顔立ち。


 ビジネス雑誌の表紙や、高級時計の広告でしか拝めないような類のご尊顔だ。


 腕まくりされたスリムフィットのシャツから、硬そうな前腕が覗いている。


 彼が抱き方を変えるたび、その皮膚の下で筋肉がしなやかに躍動した。


 ゴクリ。


 唾を飲み込む音が、自分の耳にやけに大きく響く。


 男は私の机の前で足を止めた。


 彼は細心の注意を払ってライラを床に降ろした。


 娘の足がしっかりと上履きの中に収まるのを確認してから、ようやく手を離す。


 その動作はあまりに自然で、淀みがない。


 子供の扱いに慣れていない不器用な父親のそれとは、明らかに一線を画していた。


「先生、すみません。うちの娘が何かご迷惑を?」


 バリトンボイス。


 低くて、心地よく鼓膜を震わせる響き。


 私は弾かれたように我に返った。


 隣にいるサスキアも、魔法が解けたかのように何度も瞬きを繰り返している。


「あ……いえ、とんでもありません。大したことでは……。ひとまず、お掛けください」


 震える指先で、ライラの隣にある空席を指し示す。


 彼は短く頷き、消え入りそうなほど微かな笑みを浮かべて腰を下ろした。


 背筋は真っ直ぐに伸びているが、肩の力は抜けている。


 その佇まいだけで、彼がただ者ではないことが伝わってきた。


 ガタッ!


 静寂を切り裂くように、椅子を引きずる荒々しい音が響いた。


 サスキアが電光石火の動きを見せたのだ。


 彼女は近くにあった児童用の椅子をひったくると、私の真横に叩きつけるように置いて座り込んだ。


 頬杖をつき、瞬き一つせずに目の前の「獲物」を見つめている。


 私は横目で彼女を鋭く睨みつけた。


 机の下で、彼女の足を軽く蹴飛ばす。


「何してんのよ」


 声を出さずに唇だけで訴える。


「監督。続けて」


 サスキアはニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、小声で返してきた。


 私は小さく溜息をついた。


 監督もへったくれもない。ただの目の保養だろうに。


 私は大きく深呼吸をし、窓の外へ逸れかけていた意識を、プロとしての自覚で無理やり引き戻した。


 そして、ゆっくりと右手を差し出す。


「初めまして。ライラさんの担任を務めております、エララ・ドウィジャヤです」


 男が私の手に応じた。


 その掌は熱く、少しだけ硬い。


 書類にサインしかしないような男の手ではなく、何かを成し遂げてきた「働く男」の手だ。


「ディオ・アトマンタです。エララ先生、よろしくお願いします」


 手を引こうとしたその瞬間、横から別の手が割り込んできた。


 サスキアが、ディオさんの手を奪い取るようにして握りしめたのだ。


 彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。


「サスキアです! 隣の1Bの担任です! よろしくお願いします、ディオさん!」


 満面の笑み。


 ディオさんは戸惑いながらも、苦笑いを浮かべた。


「は……はい。よろしくお願いします、サスキア先生」


 私はこめかみを押さえた。


 サスキアには「ブレーキ」という概念が存在しないらしい。


 奇妙な自己紹介タイムが終わり、私は椅子を引き寄せて本題に入った。


 ディオさんは即座に姿勢を正し、全神経を私に集中させる。


 シトラスと、微かなシナモンの香りが漂ってきた。


 きつい香水ではない。清潔感のある、心を落ち着かせる香りだ。


「それでは、事の経緯をご説明しますね」


 ディオさんは頷き、無意識のうちにライラの乱れた前髪を優しく整えた。


 私は話し始めた。


 廊下での出来事。


 ガファ君が「お母さんがいない」とライラをからかったこと。


 そして、ライラが感情を爆発させ、彼を叩いてしまったこと。


 話している間、ディオさんの顎のラインが一瞬だけ硬くなった。


 ほんの一瞬。


 彼はライラに視線を向けた。


 その瞳に怒りはなく、むしろ……悲しみが混じっているように見えた。


 大きな手が、娘の小さな背中を優しくさする。


「ライラ」


 低い、柔らかな声。


 少女は深くうつむき、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。


「もう二度としないで。叩くのは良くないことだ。嫌なことを言われたら、まずは先生に相談しなさい。それか、パパに話して」


「うん、パパ……」


 ライラの声は消え入りそうだった。


「ごめんなさい」


 その光景に、私の胸の奥がじんわりと熱くなった。


 怒鳴り散らすわけでもなく、教師の前で恥をかかせるわけでもない。


 ただ、傷ついた子供の心に寄り添う一人の父親の姿がそこにあった。


 サスキアが私の肘を軽く突いた。


 彼女もまた、この光景に毒気を抜かれたらしい。


 ディオさんが再び私に向き直った。


 その眼差しは、驚くほど誠実だった。


「ガファ君のご両親にも、私から謝罪を伝えていただけますか。あちらの非だけを責めるのは、公平ではありませんから」


「承知いたしました、ディオさん。明日、お迎えの際にお伝えしておきます」


 私は精一杯のプロフェッショナルな微笑みを返した。


 心臓の鼓動が、平常心を少しだけ乱しているのを感じながら。


「ありがとうございます、エララ先生。何かあれば、いつでも連絡をください」


 私たちは立ち上がった。


 ディオさんは別れの挨拶として、再び手を差し出す。


「こちらこそ、ご協力ありがとうございました」


 私がその手を握ると、案の定、サスキアの手がすでに空中でスタンバイしていた。


 彼女は自分の番を虎視眈々と狙っている。


 ディオさんは可笑しそうに口角を上げると、サスキアの手も丁寧に握った。


「失礼します。エララ先生、サスキア先生」


 彼はライラの小さな手を引いて歩き出した。


 少女は入り口で振り返り、私たちに手を振る。


「ばいばーい、エラ先生……キア先生……」


「バイバイ、気をつけてね」


 私たちは、廊下の角にその親子が消えていくまで、その後ろ姿を見送っていた。


 静寂が訪れる。


 天井の古い扇風機が、だるそうに回る音だけが教室に響く。


「……ヤバい」


 サスキアが溶けたゼリーのように椅子に沈み込んだ。


「ライラのパパ、スペック高すぎない? 枯れた白人のおじいさんが出てくると思ってたのに!」


 私は机の上の書類を片付けながら、込み上げてくる笑いを必死に抑えた。


「あなただけじゃないわ。私も驚いた」


 サスキアはディオさんが座っていた椅子をくるりと回すと、探偵のような目つきで私を凝視した。


「ねえ、エラ。あの人、独身よね?」


「どうして?」


「ガファが『お母さんがいない』って言ってたじゃない。ってことは、死別か、離婚か、蒸発か。とにかく今はフリーってことでしょ」


 こういう時のサスキアの洞察力は、恐ろしいほどに鋭い。


「そうね」


 私は出席簿を閉じながら答えた。


「私の知る限りでは、シングルファーザーよ」


 サスキアは跳ねるように立ち上がり、教科書を抱えて不敵な笑みを浮かべた。


「あんな極上物件のシングルファーザーなら、私、全然アリだわ」


「こら。制服着てるのよ、キア。威厳を持ちなさい」


 私は彼女の背中を押し、出口へと促した。


「冗談じゃないわよ、エララ。私、もう四ヶ月もフリーなの。これは運命を自分から掴みに行く努力って言うのよ」


 彼女は入り口で足を止め、探るような視線を私に向けた。


「もしかして……あんたも気になってる?」


 ドクン。


 熱いものが首筋から頬へと一気に駆け上がった。


 まずい。体の反応が正直すぎる。


 私は彼女を追い越すように早歩きで廊下に出た。


「バカ言わないで。そんなわけないでしょ」


 背後でサスキアの爆笑が響いた。


 誰もいない廊下に、その声が愉快に反響する。


「ハハハ! 顔真っ赤じゃない! ほら、図星! あんたがいらないなら、私がもらっちゃうからね!」


「聞こえなーい!」


 私は耳を塞いで駐車場へと急いだ。


 どうしても緩んでしまう口元を、必死で引き締める。


 ディオさんがライラの髪を整えていた時の、あの優しい手つき。


 脳内で、そのシーンがスローモーションのように繰り返される。


 全く興味がないなんて、嘘だ。


 でも、自分に言い聞かせる。


 落ち着け、エララ。


 あれは「保護者」なのよ。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

外国語での執筆ということもあり、表現や言葉選びに不自然な点があるかもしれません。

もしお気づきの点や、文章のスタイルについてのアドバイスがございましたら、ぜひ感想欄で教えていただけると嬉しいです。

皆様の声が、執筆の大きな励みになります。


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