第19章 泥を喰む朝
隣家の鶏が放つ鳴き声が、鼓膜を容赦なく叩きつけた。
けたたましく、粗野で、スヌーズボタンなど存在しない暴力的な目覚まし時計。
重い瞼をこじ開ける。
視界に飛び込んできたのは、石膏の彫刻が施された高い天井ではない。
雨漏りの跡が茶色いシミとなって広がる、低くて薄暗い天井だった。
それは私の新しい生活、いわば「貧困」という名の抽象画だった。
体を動かそうとした瞬間、背骨が悲鳴を上げた。
「……っ」
首が凝り固まっている。
重力に負けてクッションが完全にへたった古いソファは、お世辞にも体に優しい寝床とは言えなかった。
私は瞬きを繰り返し、散らばった意識をかき集める。
部屋の隅では、首振り扇風機がカタカタと音を立てながら回転していた。
涼しさではなく、ただ微細な埃を撒き散らしているだけだ。
高級ディフューザーから漂うラベンダーの香りはどこにもない。
あるのは、昨夜食べたカップ麺の残り臭と、換気の悪い賃貸特有の湿った空気だけ。
部屋の片隅に目を向ける。
黒い機内持ち込み用スーツケースが、沈黙を守ったまま佇んでいた。
背中の痛みは現実のものだが、不思議と胸のうちは晴れやかだった。
ドアを叩き壊さんばかりの催促も、起床時間を細かく急かす母の怒鳴り声もない。
私は、自由だ。
「起きなさい、お姫様! 浴室の順番待ちが始まるわよ!」
廊下からサスキアが顔を出した。
頭にタオルをターバンのように巻き、目の下にうっすらとクマを作りながらも、その表情は生き生きとしている。
私は体の痛みをこらえて起き上がった。
「キア、今何時?」
「六時十分前。水がなくなる前に浴びてきなさい。うちのポンプ、朝は機嫌が悪いのよ」
私はスーツケースからタオルと洗面用具をひったくり、重い足取りで浴室へと向かった。
浴室の床は濡れていて滑りやすい。
水色のタイル壁には、黒ずみ始めた目地が這っている。
隅にあるのは、大きなプラスチック製のバケツとオレンジ色の手桶だけ。
シャワーはない。給湯器もない。
温度を精密に調整するボタンなど、存在すら許されない空間。
私は生唾を飲み込んだ。
ブラウィジャヤの家では、お湯は当たり前の権利であり、贅沢品ではなかったはずだ。
手桶を握り、バケツから水を汲む。
バシャッ
「……っひ!」
息が止まった。
無数の氷の針が、毛穴という毛穴に一斉に突き刺さったかのようだ。
暴力的なまでの冷たさに、奥歯がガチガチと鳴り響く。
私は震えながら、電光石火の動きで体に石鹸を塗りたくった。
「これは、あんたが選んだ道よ、エララ」
水しぶきで曇った小さな鏡に映る自分に、小さく言い聞かせる。
甘えるな。泣き言を言うな。
• • •
十五分後。
私は扇風機の前に立ち、髪を乾かそうと格闘していた。
だが、スーツケースを開けた瞬間に新たな問題が浮上した。
白い仕事用のシャツが、見るも無惨にシワだらけだったのだ。
昨夜の投げやりなパッキングの結果、腹部や袖に不規則な折り目が深く刻まれている。
「キア、アイロン持ってる?」
食パンを頬張っていたサスキアが、のんびりと振り返った。
「あるわよ。でも先週、ネズミにコードを噛み切られちゃった。まだ買い替えてないの」
私は絶望的な気分でシャツを掴んだ。
「じゃあ、どうすればいいの? 三年間アイロンをかけてないみたいな服で学校に行けって言うの?」
サスキアはパンを置き、指をパチンと鳴らした。
「落ち着いて。貧乏学生のライフハックを教えてあげるわ」
彼女は部屋へ走り、ドライヤーと霧吹きを持って戻ってきた。
「服を吊るして、水を少し吹きかける。それからドライヤーの熱風を当てながら、生地を思いっきり引っ張るの。完璧じゃないけど、シワは目立たなくなるわよ」
疑わしい眼差しを向けたが、背に腹は代えられない。
私たちは十分間、シャツの救出作戦に没頭した。
仕上がりは決して完璧ではなかったが、少なくとも洗濯カゴの底から引っ張り出したようには見えない。
第二の問題。スカートだ。
仕事用のスカートを入れ忘れたことに気づいた。あるのはジーンズだけ。
「私のを使いなさいよ」
サスキアがクローゼットから黒のタイトスカートを放り投げてきた。
「ウエストが少しきついかもしれないけど、入るはずよ」
それを履いてみる。案の定、ファスナーを上げるために息を止めなければならなかった。
「完璧!」
サスキアが親指を立てる。
「さあ、行きましょう。愛車のベララン・テンプル(戦闘バッタ号)が待ってるわ」
• • •
狭いテラス。
サスキアが古いスクーターを引っ張り出してきた。
車体はステッカーだらけで、左のバックミラーは力なく垂れ下がり、シートには猫の爪研ぎ跡が芸術的に刻まれている。
「これ、あんたのヘルメット」
サスキアが差し出したのは、中のクッションが薄くなった黒いハーフヘルメットだった。
私は躊躇いながらそれを受け取った。
臭う。
染み付いた日向臭さと埃、そして発酵した汗が混じり合ったような、饐えた臭いだ。
「被りなさいよ、ラ。警察に捕まるわよ」
バイクに跨ったサスキアに急かされる。
私は深く息を吸い込み――正確には息を止め、残ったプライドを捨て去ってヘルメットを被った。
乾かしたばかりの髪が、硬いクッションに押し潰されていく。
ぶるるんっ……ドゥルンッ!
セルモーターの荒々しい音が響き、エンジンから伝わる振動が尾てい骨を揺さぶる。
「乗りなさい、お嬢様! しっかり捕まっててよ!」
私は後部座席に座り、サスキアの腰に必死でしがみついた。
心臓が跳ねる。最後にバイクに乗ったのは大学生の頃で、それも数えるほどしかなかった。
バイクは狭い路地を抜け、ジャカルタの凶暴な朝の渋滞へと躍り出た。
レンテン・アグンの道路は、すでに身動きが取れないほど混み合っていた。
容赦ない朝の風が顔を叩く。
それは車のエアコンのような心地よい風ではない。
道路の埃と、強引に追い越していくバスが吐き出す黒い排気ガスを孕んだ風だ。
ゴミが目に入って痛む。
右側を、一台の黒い高級セダンが静かに通り過ぎていった。
窓は固く閉ざされ、暗く、神秘的だ。
運転手はきっと、涼しくて静かなカプセルの中でジャズでも楽しみながら、外の世界の地獄から隔離されているのだろう。
かつて、私はあの中にいた。
暑さに耐えるバイク乗りたちを、憐れみの目で見下ろしていた。
今は、こちら側にいる。
同じ軽油の残留物を吸い込み、うなじに照りつける太陽の熱を感じている。
その皮肉が、舌の上に苦く残った。
「暑いでしょ、ラ!」
風の音に負けないよう、サスキアが叫ぶ。
「まあね!」
私は叫び返した。
「現実の世界へようこそ! 排気ガスの味がするそよ風を楽しんで!」
私は自嘲気味に笑った。
右手で、羽織っているジャケットを強く引き寄せる。
このジャケットだけが、ジャカルタの邪悪な埃から私を守る唯一の盾だった。
交差点の赤信号。
私たちのバイクは、二台のバイクに挟まれて停車した。
隣のバイクの排気口から出る熱風が、遠慮なく私のふくらはぎに吹き付けてくる。
背中に汗が伝い、仕事着が肌にべったりと張り付く不快感に襲われた。
隣のバイク乗りがこちらを向いた。
彼は私を上から下まで眺め、その視線を私の足元で止めた。
サルヴァトーレ・フェラガモのパンプス。
履き替えるのを忘れていた。
教師の月収二ヶ月分にも相当するその靴は、ボロいバイクに跨り、臭うヘルメットを被った姿にはあまりにも不釣り合いで、滑稽だった。
自分が剥き出しにされたような気分になる。
異星に間違えて降り立ったエイリアン。衣装を間違えた役者。
私の動揺に気づいたサスキアが、そっと膝を叩いてくれた。
「無視しなさい。私たちは『アーバン・サバイバル』っていうテーマのファッションショーに出てるのよ」
信号が青に変わる。
サスキアがアクセルを回した。
体が一気に後ろへ持っていかれ、私たちは再び渋滞の渦へと飛び込んだ。
• • •
午前七時十分。学校の駐車場。
私は少し震える足でバイクから降りた。
シートベルトのないジェットコースターに長時間乗せられていたような気分だ。
ヘルメットを脱ぐ。
「ああ……」
髪に触れて、思わず溜息が漏れた。
ぺしゃんこで、脂ぎっていて、無茶苦茶だ。
いつも完璧なカーブを描いていた前髪は、濡れた海苔のように額に張り付いている。
「おはようございます、サスキア先生、エララ先生」
その声に、私は弾かれたように振り返った。
毒舌で有名なベテラン教師、ダルミ先生がピカピカの小型車から降りてくるところだった。
彼女は目を丸くし、私の姿をヘルメットから高級靴までスキャンするように眺めた。
「あら、エララ先生、今日はバイクなんですの? お車はどうされたの?」
慇懃無礼な、嘲笑を含んだ声。
顔が熱くなる。自尊心が鋭く抉られた。
私は顎を上げ、膝の震えを隠しながら、できる限り自信に満ちた笑みを浮かべた。
「たまには気分転換をと思いまして。庶民的ですし、渋滞も避けられますから」
ダルミ先生は鼻を鳴らすように不敵な笑みを浮かべ、そのまま校舎へと消えていった。
「嫌なババアね」
サスキアがハンドルロックをかけながら低く毒づいた。
「行きましょう、ラ。トイレで化粧直しよ。お直しが必要だわ」
• • •
教職員トイレの個室。
私はドアに背中を預け、そっと目を閉じた。
消毒液の臭いが鼻を突くが、少なくともここは静かだ。
ポケットを探り、スマートフォンを取り出す。
画面を点ける。
通知はない。
母からのメッセージも、父からの着信もない。
昨夜の私の出奔など、彼らにとっては無意味だったかのようだ。
怒鳴られるよりも、無視される痛みの方が鋭く胸に刺さる。
だが、一件だけ、新しい通知があった。
アイコンは白黒のコーヒーカップのロゴ。
指を震わせながら、それを開く。
ディオ:
『自由な女性としての初日が、素晴らしいものになるよう願っています。朝食を忘れないように、先生。頑張って』
簡潔。無機質。
私はそのメッセージを何度も読み返した。
背中の痛みも、肌のベタつきも、親に捨てられた心の傷も。
すべてが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
胸のひび割れを埋めるような、温かな感覚が全身に広がる。
「……ありがとうございます、ディオさん」
小さく呟き、深く息を吸い込んでから個室を出た。
• • •
一年A組の教室。午前七時三十分。
「皆さん、おはようございます!」
空腹で悲鳴を上げている胃袋を無視して、私は精一杯の元気な声を張り上げた。
「「「おはようございまーす、先生!」」」
教壇に立ち、ホワイトボード用のマーカーを手に取る。
習慣的に、教室全体を見渡した。
いつも満面の笑みで私を迎えてくれる、あの小さな顔を探して。
真ん中の列、三番目の席。
空席。
ライラがいない。
眉間に皺が寄る。珍しいこともあるものだ。
ディオがライラの送迎に遅れることはまずない。
もし欠席なら、朝一番に連絡があるはずだ。あんな励ましのメッセージを送ってくるくらいなのだから。
不安が脳裏をかすめる。道中で何かあったのか。急病か。
あの小さな少女の不在が、私の張り詰めていた気力を削ぎ落としていく。
無意識のうちに、私はライラと彼女の父親を、自分の心の拠り所にしていたのだと思い知らされる。
コン、コン、コンッ
教室のドアが控えめに叩かれた。
期待が膨らむ。きっと遅れてきたライラだ。
私は満面の笑みで振り返った。
「入りなさい、ライラ――」
笑みが凍りついた。
ライラではない。ディオでもない。
そこに立っていたのは、警備員の男性だった。
顔は青ざめ、帽子を手に握りしめて落ち着かない様子で立っている。
「お忙しいところ申し訳ありません、エララ先生……」
「どうしたんですか?」
「事務室に、先生宛てに至急の電話が入っています。非常に重要だそうで」
警備員は生唾を飲み込み、まるで死神の使いであるかのような同情の眼差しを私に向けた。
「ご家族の弁護士を名乗る方からです。非常に……高圧的な口調で。資産の差し押さえに関する件だと言っていました」
全身の血の気が引いていくのがわかった。
教室がぐにゃりと歪み、視界が回る。
手に持っていたマーカーが、指先から滑り落ちそうになった。
弁護士。資産の差し押さえ。
彼らは、私に息をつく暇さえ与えないつもりだ。
暁の追撃はすでに始まっており、彼らは私の防衛線の急所を、正確に射抜こうとしていた。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.
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