第18章 暁の逃避行
白いハッチバックが速度を落とし、クリーム色のペンキが塗られた質素な借家の前で静かに止まった。エンジンが切れる。
静寂が訪れる。
ダッシュボードの時計は午前二時三十分を指していた。
ジャカルタ郊外のこの住宅街は、虫の音と電柱の微かな唸りだけが響く死んだような静けさに包まれている。
「やっと着いたわね」
後部座席からサスキアが囁き、沈黙を破った。
私は深く長い溜息をついた。何時間も呼吸を止めていたかのように、ようやく人心地がついた気がした。
「ありがとうございます、ディオさん」
運転席の方を向き、私は静かに告げた。
ディオは微かに微笑んだ。その瞳には少しの疲労が滲んでいたが、警戒の光は失われていない。
「どういたしまして。さあ、降りましょう。荷物を運ぶのを手伝います」
車を降りると、深夜の冷たい空気が肌を刺し、グレーのフーディーを通り抜けて体温を奪っていく。
サスキアが先を歩き、腰の高さまである錆びついた鉄の門へと向かった。彼女はジャケットのポケットを探り、大げさな動作で南京錠の鍵を取り出した。
カチッ、カチッ。
静寂。門は動かない。
「ちょっと、嘘でしょ」
サスキアが低く唸った。彼女は力任せに鍵を回そうとする。
「お願い、いい子だから。こんな時間にへそを曲げないで。お客さんの前で恥ずかしいじゃない」
私は寒さに耐えるように自分を抱きしめ、彼女の後ろに立った。
「サスキア、また詰まったの?」
「そうなのよ。いつものことだけど、油を差さなきゃいけないのに、私ったら神頼みで解決しようとしてたわ」
サスキアが苛立ちを込めて門を揺らす。静まり返った夜の闇に、鉄が擦れ合う嫌な音が響いた。
「私にやらせてください」
背後からディオの低いバリトンボイスが聞こえた。
ディオが前に出ると、サスキアの手から自然な動作で鍵を受け取った。彼は迷いのない力強い動きで錠を押し上げ、滑らかに回した。
カチッ。
開いた。呆気ないほど簡単に。
「わあ……」
サスキアが感嘆の声を漏らす。
「魔法の手ね」
ディオは門を大きく開け、車のトランクへと戻った。そして、私の重いスーツケースを下ろす。
私は手伝おうと一歩踏み出した。
「ディオさん、それは私が引きずって——」
言葉が終わる前に、ディオはそのパンパンに膨らんだキャリーケースを右手一本で軽々と持ち上げた。長袖のシャツ越しに、腕の筋肉が硬く引き締まるのがわかる。
街灯の光に照らされた彼の手の甲には、浮き出た血管が逞しく走っていた。
まるで空の段ボール箱でも運ぶかのように、私の人生の半分を詰め込んだような、重い荷物を彼は呆気ないほど簡単に持ち上げた。
「引きずる必要はありません。近所迷惑になりますから」
彼は事もなげに言い放ち、そのまま庭へと足を踏み入れた。
私はその場に立ち尽くし、彼の背中を呆然と見送った。
不意に、温かい囁きが耳元をくすぐった。
「ねえ、ララ……」
サスキアが私の肩に寄り添い、ディオの逞しい背中を悪戯っぽい目で見つめている。
「前世の罪の重さくらいありそうなあのケースを、片手でひょいって? 信じられないわ」
彼女は私の脇腹を軽く小突いた。
「想像してみてよ。あの人があんたを持ち上げたら、きっと綿菓子みたいに軽いんでしょうね。お姫様抱っこで走り回ることだって余裕よ、きっと」
ドクン。
頬に熱が駆け上がった。一瞬だけ、私の脳裏に不埒な想像がよぎる。
「サスキア! 妄想も大概にして!」
私は顔を赤くしながら、彼女の腕を抓った。
サスキアは小さく吹き出し、ディオの後を追って小走りに駆けていった。
「さあ入って! ボロ家へようこそ!」
ガチャリ。
玄関のドアが開く。サスキアが壁を探り、照明のスイッチを入れた。
パッ。
白い蛍光灯の光が、それほど広くないリビングを照らし出した。
そして……そこは惨状だった。
コーヒーテーブルにはファッション雑誌の山が築かれ、棚の近くには靴が散乱している。何より酷いのは、一人掛けのソファに山積みになった衣類の塊だ。
サスキアの目が驚愕に見開かれた。連れてきた客が私だけでなく、ディオ・アトマンタという隙のない男であることを今更思い出したらしい。
「あ、あはは……この凄まじい散らかりようは無視して!」
サスキアは叫び声を上げると、光の速さで動き出した。彼女の足が服の山をソファの下へと蹴り込む。
バサッ、シュルッ。
雑誌をひっ掴むと、それらを棚の上へと無造作に放り投げた。
「さあ、入って! 泥棒にでも入られたと思って寛いで!」
彼女は肩で息をしながら、必死にエレガントな笑みを浮かべようとしている。
ディオは部屋の隅に、私のスーツケースを慎重に置いた。彼は先ほどの「超特急片付けパフォーマンス」など見ていなかったかのように振る舞っている。その紳士的な態度が逆に痛々しい。
「本当にありがとうございます、ディオさん」
私は改めて礼を言った。今夜の彼の親切に対して、感謝の言葉だけでは到底足りない気がした。
「こんな時間まで、お引き止めしてしまって申し訳ありません」
ディオは体を起こし、周囲を見渡した。散らかった部屋を見ているのではない。彼の鋭い視線は、リビングから見える窓や裏口の鍵をスキャンするように動いていた。
「気にしないでください、エララさん。当然のことをしたまでです」
彼は窓際へと歩み寄り、クレセント錠を確かめた。
「ここの鍵、少し緩んでいますね」
カチッ。
彼は確かな手応えがあるまでレバーを押し込んだ。
「明日、調整するか、何かで固定したほうがいい」
そのまま彼は、開け放たれたキッチンのドアの方へと向かった。
「裏口は閉まっていますか、サスキアさん」
「え? あ、はい! いつも閉めてます、ディオさん!」
サスキアが慌てて答える。
ディオは頷いたが、それでも自分の目で確かめるために奥へと進んだ。裏口の取っ手を引き、しっかりと施錠されていることを確認してからリビングに戻ってくる。
その振る舞いは……本能的なものに見えた。まるで群れを守る雄のライオンが、休息の前に自分の縄張りの安全を確かめるかのような。
私やサスキアの安全をこれほどまでに気にかけてくれる彼の姿に、胸の奥が熱くなるのを感じた。ブラウィジャヤの家では、安全とは警備員の仕事だった。けれどここでは、安全とは「思いやり」の形なのだ。
グゥゥゥゥ。
長く、そして情けない音が響いた。感動的な空気が一瞬で霧散する。
私たちは三人同時に、音の源へと視線を向けた。
サスキアが自分のお腹を抱え、馬のようにニカッと笑った。
「へへ……アドレナリンの反動かしら。お腹の虫が、残業代をよこせって大騒ぎしてるわ」
私は小さく笑った。正直なところ、私の胃も悲鳴を上げていた。最後に食事をしたのは、昼間にディオとライラと一緒にいた時だ。
「何か食べるものはあるの、サスキア?」
「冷蔵庫は空っぽよ。あるのは冷たい水とフェイスパックだけ」
サスキアはあっけらかんと答えた。
「でも……魔法の棚には宝物が眠ってるわ」
彼女がキッチンの戸棚を開けると、そこには様々な味の袋麺が整然と並んでいた。
「汁あり? それとも焼きそばタイプ?」
「汁あり」
私とディオの声が重なった。
私たちは顔を見合わせ、気まずそうに笑った。
「オッケー! シェフ・サスキア特製、チキンカレーラーメンの完成を待ってなさい!」
サスキアが鍋を手に取ろうとしたその時、ディオが一歩前に出て、フーディーの袖を肘まで捲り上げた。
「私がやりましょう」
ディオはサスキアの手から鍋を奪うように受け取った。
「サスキアさんは疲れているようだ。エララさんと一緒に座っていてください」
「え? マジですか、ディオさん? インスタントラーメンなんて作れるんですか?」
サスキアが半信半疑で尋ねる。
ディオは顔を上げ、片方の眉を上げた。その唇には、少しだけ挑戦的な笑みが浮かんでいる。
「私はカフェのオーナーですよ、サスキアさん。即席麺の調理くらい、基礎カリキュラムに含まれています」
十五分後。
スパイシーなカレーの香りと熱い湯気が、狭いリビングに満ちた。
私たちは、この家で唯一清潔で柔らかそうな毛足の長いカーペットの上に車座になって座った。中央には、三人分まとめて調理された大きな鍋が鎮座している。
ディオが三つの小さなボウルとレンゲを運んできた。
「どうぞ」
彼は公平に麺を分け与えた。
私は自分のボウルを見つめた。麺は伸びておらず、程よい弾力を保っている。スープは濃厚で、その上には……黄身がとろりと溶け出す絶妙な半熟卵が添えられていた。
「わあ……」
私は目を輝かせた。
「すごく美味しそう」
「アルデンテの技法です」
ディオは私の正面で胡坐をかきながら、冗談めかして言った。
私たちは食べ始めた。
ズルッ。
最初の一口が口に入る。カレーの深いコク、温かいスープ、そして麺のコシが口の中で弾けた。
「美味しい!」
思わず声が出た。
「今まで食べたインスタントラーメンの中で一番美味しいかもしれない」
「同意!」
サスキアも咀嚼しながら親指を立てた。
「この卵、ディオさん! 神がかった火の通り加減ね! どうやったの?」
ディオはレンゲのスープに息を吹きかけた。
「秘訣は卵を入れるタイミングです。二度目の沸騰の瞬間に投入し、火を止めて二分間蓋をして蒸らす」
私たちは小さな笑い声を上げながら食事を進めた。先ほどの逃走劇がいかに滑稽だったか、私たちが通り過ぎた時に寝ぼけていた警備員の顔がいかに間抜けだったか。
ほんの一時だけ、私は自分が両親の家から逃げ出してきたことを忘れていた。定まった住処がないことも、未来が不透明であることも。
そこにあるのは、温かい食事と、満たされた胃袋、そして心から信頼できる仲間たちの存在だけだった。
鍋はあっという間に空になった。
サスキアはボウルを置くと、わざとらしいほど大きなあくびをした。
「ふあぁぁぁ……。お腹がいっぱいになると、猛烈に眠気が襲ってくるわね」
彼女は這うようにしてソファへと移動した。
「私、お先に失礼するわ。もう限界。あんたたち、話があるならテラスでしなさいよ。明け方の空気は気持ちいいから」
答えを待つまでもなく、彼女はどこからか取り出した毛布を被り、目を閉じた。
次の瞬間、微かな寝息が聞こえてくる。あまりにも白々しい。
私は笑いを堪え、親友のあまりにも分かりやすい気遣いに首を振った。
ディオが立ち上がり、汚れた食器をまとめて洗い場へと運んだ。
「少し洗ってきます」
「いいですよ、ディオさん!」
「いいから、座っていてください」
彼は手際よく食器を洗い、手を拭いた。
「行きましょう。帰る前に、少し風に当たりたい」
私たちは合成ラタンで作られたテラスチェアに腰を下ろした。東の空が僅かに紺色に染まり始め、夜明けが近いことを告げている。
朝の風が頬を撫でるが、今度は恐ろしい冷たさではなく、心地よい涼しさを運んできた。
ディオは隣の椅子に座り、まだ静まり返っている住宅街を見つめた。私たちの間には、小さなテーブルがあるだけだ。
「エララさん」
彼は静かに呼んだ。
「はい?」
ディオは私を真っ直ぐに見つめた。その瞳は深く、暗いが、不思議と心を落ち着かせる力がある。そこには一片の迷いもなかった。
「車の中でサスキアさんから事情は聞きました。今夜は君にとって、とても過酷な夜だったはずだ。でも、君は立派だった。自分の意志で決断したんだから」
視界が熱くなった。そんな単純な褒め言葉が、母のパーティーで浴びせられるどんな虚飾に満ちた賛辞よりも価値があるように感じられた。
「サスキア……そしてディオさんがいなかったら、今頃どうなっていたか分かりません」
私は正直な気持ちを口にした。
「ありがとうございます。ええと、サスキアは何て言っていましたっけ? 荷物持ち?」
ディオが低く笑った。その声は、朝の空気の中で心地よく震えた。
「ああ、荷物持ちでも、運転手でも、即席麺の料理人でも……何でもいいですよ。君の助けになれるなら」
彼は椅子から立ち上がり、ポケットから車のキーを取り出した。
「そろそろ失礼します。ライラが起きた時、父親がいないと可哀想ですから」
私も立ち上がり、門のところまで彼を見送った。
ディオは車のドアを開けたが、乗り込む前にもう一度こちらを振り返った。彼は、私が本当に大丈夫かどうかを最後にも確認しようとしているかのようだった。
彼の手が僅かに動き、私の肩に触れようとしたが、彼はそれを自制した。代わりに、手をフーディーのポケットに深く突っ込んだ。
「ゆっくり休んで、エララ」
彼は優しく囁いた。「エララ先生」でも「エララさん」でもない。ただ、私の名前を呼んだ。
「君はもう安全だ。誰にも、無理強いなんてさせない」
その言葉が、私の最後の防波堤を突き崩した。心臓が激しく脈打つ。それは恐怖ではなく、胸の奥から湧き上がる未知の感情のせいだった。
「……気をつけて、ディオ」
私も勇気を振り絞り、彼の名前を呼び捨てにした。
ディオは微笑んだ。それは、今まで見た中で最も純粋な微笑みだった。
彼は車に乗り込み、エンジンを始動させると、静かにハッチバックを走らせて去っていった。
私は門の冷たい鉄格子を掴み、白い車のテールランプが通りの角に消えるまで見つめ続けた。
東の地平線から、薄明が広がり始めている。
私は一文無しになり、疲れ果て、スーツケース一つと小学校教師の仕事以外には何も持っていない。
けれど、背後にある小さな借家を振り返った時、私は自然と微笑んでいた。
今夜、私はどん底に落ちた。けれど、奇妙なことに……そして狂っているかもしれないけれど……。
私は今、恋に落ちているような気がしていた。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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