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第17章 逃避行の夜

挿絵(By みてみん)


冷たい大理石の床が、足の裏から体温を奪っていく。


暗闇に包まれた廊下には、換気口の隙間から差し込む街灯のオレンジ色の光が、細長く不気味な影を落としていた。


私は寝室の入り口で、石像のように立ち尽くした。


右手に機内持ち込み用のスーツケース、左手にボストンバッグ。


心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響いていた。


ドクン、ドクン……


スーツケースを完全に持ち上げる。


決して引きずってはいけない。


午前二時の静寂の中、大理石の上を転がる車輪の音は、戦車の轟音のように響き渡るはずだ。


腕の筋肉が重さに悲鳴を上げる。だが、それを無視して一歩を踏み出した。


音はしない。


まずは、第一関門突破だ。


自分の家でありながら、まるで泥棒のように忍び足で廊下を進む。


視線は常に、廊下の突き当たりにある主寝室に向けられていた。


父と母の部屋だ。


その扉の真横を通り過ぎようとした瞬間、低く地響きのような音が鼓膜を震わせた。


ぐおおお……


父のいびきだ。


まるで手入れの行き届いていない古い原付バイクのような、不規則で騒がしい音。


私は息を止め、その場に凍りついた。


普段なら不快でしかないその音が、今夜ばかりは極上の音楽のように聞こえる。


彼らが深い眠りに落ちている証拠だからだ。


私は歩みを再開し、速度を上げながらも静寂を保つ。


こめかみから冷たい汗が流れ落ちた。


リビングに辿り着くと、最大の難所が待ち構えていた。


重厚なチーク材で作られた玄関の扉だ。


このドアの鍵は建付けが悪く、慎重に扱わなければ金属のボルトが床に当たって、鋭い音を立ててしまう。


私はゆっくりと膝をつき、スーツケースをそっと床に置いた。


鍵を握る手が汗で滑る。


「お願い……今だけは機嫌を損ねないで……」


心の中で祈りながら、ミリ単位でボルトを引き上げる。


きり……


金属が擦れる乾いた音がした。


静まり返った住宅街に響き渡る拡声器のように、その音はあまりにも大きく感じられた。


動きを止め、階段の方を振り返る。


静まり返っている。


父のいびきだけが、遠くで小さく聞こえ続けていた。


大きく深呼吸をし、一気に、かつ正確にボルトを引き抜く。


カチリ。


成功だ。


立ち上がり、ドアノブを回す。


扉を開けた瞬間、湿り気を帯びたジャカルタの夜風が顔を撫でた。


冷たく、そしてどこか自由の香りがする。


一刻の猶予もない。


再び荷物を抱え上げ、外へ踏み出す。


オートロックが閉まる音を最小限に抑えながら、背後の扉を閉じた。


暗闇の中に広がる庭を見渡す。


風に揺れるヤシの木の影が、巨大な怪物の手のようにも見えた。


スニーカーの足音が舗装路に響かないよう、芝生の上を半分駆け足で進む。


あらかじめ合鍵を作っておいた勝手口の門へと急いだ。


歩道の外に出た瞬間、肺の中に溜まっていた空気をすべて吐き出した。


「嘘……本当に逃げ出せたんだ……」


信じられない思いで呟く。


静まり返ったブラウィジャヤの通りを見渡した。


親友のサスキアが運転してくるはずの、赤いブリオを探す。


しかし、そこにあるはずの赤い影は見当たらない。


代わりに、大きなマホガニーの木の影に、一台の白いハッチバックが停まっていた。


エンジンは静かにかかっているが、ヘッドライトは消されている。


眉間に皺が寄った。


サスキアの車ではない。


誰の車だ?


配車アプリのタクシーか?


それとも、まさかレイが放った追手……?


パニックが脳裏をかすめる。


門の裏に隠れようとしたその時、運転席のドアが開いた。


背の高い男が降りてくる。


黒いフーディーのフードを深く被り、スウェットパンツを履いている。


顔は影になっていて見えない。


彼は迷いのない足取りで、こちらに向かって歩いてきた。


心臓が止まりそうになる。


強盗か、それとも変質者か。


私は後ずさりし、叫び声を上げるか、それともスーツケースを投げつけるか、私は身構えた。


「しーっ!」


男は片手を上げ、静かにするように促した。


街灯の光が彼の顔を照らした瞬間、男がフードを脱ぐ。


少し乱れた黒髪、鋭い顎のライン、そしてどこか気まずそうな眼差し。


私は大きく口を開けたまま固まってしまった。


「ディオ……さん?」


喉の奥で声が震えた。


目の前に立っているのは、間違いなくディオ・アトマンタだった。


彼は両手をポケットに突っ込み、寝起きのような無防備な姿で立っている。


それなのに、どうしてこの男は、こんな滑稽な状況でも見惚れるほど整っているのだろうか。


「こんばんは、エララ先生」


極限まで抑えられた、低いバリトンボイスが夜の空気に溶け込む。


「どうして……どうしてここに? それにその格好……」


私はパニックのあまり、スーツケースと彼の顔を交互に見つめた。


まさか、ストーカーをされていたのだろうか。


顔が焼けるように熱くなる。


家出の真っ最中で、だぼだぼの服を着て、汗だくで、化粧もしていない。


そんな最悪な姿を、よりによって受け持っている生徒の父親に見られるなんて。


教師としてのプライドが音を立てて崩れていく。


ディオは気まずそうにうなじを掻いた。


「いや、ストーカーじゃありません。私はただ……」


バン!


助手席のドアが勢いよく開いた。


「じゃじゃーん! 私が呼んだのよ!」


サスキアが、悪びれもしない満面の笑みで飛び出してきた。


デニムジャケットを羽織り、ベースボールキャップを後ろ前に被っている。


彼女は小走りで私たちの元へ駆け寄ってきた。


私はサスキアを、殺意の籠もった目で見つめた。


「サスキア・プトゥリ! あなた、正気なの?」


腕を思い切りつねりながら、小声で問い詰める。


「痛いってば、ララ! 笑ってよ!」


サスキアは腕をさすりながら、クスクスと笑った。


「私の車、夕方に故障しちゃったのよ! バッテリーが上がっちゃって。それで考えたの。あなた、重い荷物持ってるでしょ? 絶対に馬力が必要だって!」


彼女は親指でディオを指した。


「午前二時に信頼できて、性格も良くて、車を持ってて、ジュリエットをさらうロミオのスペックを持ってて、さらに荷物運びの苦役もこなせる男なんて、この人しかいないでしょ?」


私はディオの方を向き直した。


彼は「馬力」や「ロミオ」や「荷物運び」と呼ばれたことに、困ったような、それでいて諦めたような苦笑いを浮かべていた。


「……サスキアさんから電話があった時、ちょうど起きていたんです」


ディオが静かに説明した。


「それに、女性二人だけで夜中に出歩くのは危ないと思いましたから」


彼は私のスーツケースに手を伸ばした。


「持ちますよ。重そうです」


拒否する間もなく、ディオは私のスーツケースを片手で軽々と持ち上げた。


私が肩をいからせて運んでいた荷物が、彼の手にかかるとまるで羽毛のように軽く見える。


彼は効率的な動きで車のトランクへ向かい、荷物を積み込んだ。


私はまだ歩道に立ち尽くし、サスキアを睨みつけていた。


「たっぷり説明してもらうからね、キア」


「支払いは後で分割でいいわよ。さあ、警備員の巡回が来る前に車に乗って!」


サスキアに背中を押され、車へと向かう。


彼女は素早く後部座席に乗り込み、ドアを閉めた。


バタンッ。


彼女はそのまま、スマートフォンをいじるふりをして自分の世界に閉じこもった。


私は助手席の横で立ち往生する。


後部座席はサスキアと何やら得体の知れない荷物で占領されていた。


残っているのは、運転席の隣。


ディオはすでにハンドルを握っていた。


窓越しに私を見上げ、少しだけ眉を上げる。


「乗ってください、エララ先生。風邪をひきますよ」


ロボットのようなぎこちない動きで、私は助手席のドアを開けた。


バタンッ。


座席に深く腰を下ろす。


車内には爽やかなペパーミントの香りが漂っていた。


それに混じって、ディオの体から微かに漂う、サンダルウッドのような清潔感のある石鹸の香りが鼻をくすぐる。


距離が近すぎる。


左肩にはエアコンの風が当たり、右側は隣に座る男の存在感に、肌が粟立つような心地だった。


「全員乗ったかな?」


ディオがバックミラー越しに後ろを確認し、それから私に視線を向けた。


「準備完了よ、運転手さん!」


後ろからサスキアの能天気な声が響く。


「……お願いします」


私はダッシュボードを食い入るように見つめながら、消え入りそうな声で答えた。


ディオがギアを入れる。


彼の左手が滑らかに動き、インストルメントパネルの光に照らされた手の甲に血管が浮き上がった。


車はゆっくりと走り出し、暗闇の中に傲然と佇むブラウィジャヤの屋敷を後にした。


サイドミラーを覗き込む。


実家の門が遠ざかり、小さくなり、やがて角を曲がって視界から消えた。


不思議な感覚だった。


自由になった。逃げ切ったのだ。


それなのに、午前二時に生徒の父親である独身貴族の車に乗り、親友と一緒に夜逃げをしているという現実があまりにも滑稽で、実感が湧かない。


「静かすぎるのもあれだし、音楽でもかけようか?」


ディオが気まずい沈黙を破るように提案した。


「あ……はい、お願いします」


自分の呼吸音さえうるさく感じるこの状況なら、何でもよかった。


ディオがプレイボタンを押す。


静かにイントロが流れ始めた。


どこか懐かしく、少しだけ皮肉めいたメロディ。


レモン・ツリー。


この馬鹿げた状況には、驚くほど似合わないようで、それでいて妙にしっくりくる選曲だった。


私はヘッドレストに頭を預け、そっと目を閉じた。


口角が、ほんの少しだけ上がる。


私の人生は、いつの間にか三流のコメディドラマに成り下がってしまったらしい。

Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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