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第17章 硝子の檻

挿絵(By みてみん)


ブレーキを踏む足が、わずかに震えていた。


ジャカルタの夜を彩る街灯が、フロントガラスを流れるように通り過ぎては、車内に奇妙な影を落としていく。


サスキアを学校の正門で降ろした後、私は一人、ブラウィジャヤにある「監獄」へと車を走らせていた。


まるで、束の間の休息を終えて独房へと戻る囚人のような気分だ。


時計の針は、すでに午後八時を回っている。


重いハンドルを切り、邸宅の敷地内へと滑り込んだ。


庭園の灯りは消え、玄関先の薄暗い照明だけが、不気味に私を待ち構えている。


今夜は慈善晩餐会があるはずだった。


両親の帰宅は深夜になると踏んでいたのだが、その期待は無残に打ち砕かれた。


ガレージには、見慣れた黒のアルファードが鎮座している。


エンジンが切られたばかりなのだろう。


ボンネットの奥から、金属が冷えていくカン、カンという微かな音が聞こえていた。


帰っていたのか。


私はエンジンを切り、ハンドルを握りしめたまま、深く息を吐き出した。


ムバ・アルナの家で蓄えたはずの勇気が、指先から逃げていくような感覚に襲われた。


「落ち着いて、エララ。演じるのよ」


自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。


「感情に流されないで。爆発しちゃダメ」


車を降りると、夜の湿り気を帯びた空気が肺にまとわりつく。


重い足取りで正面玄関へと向かった。


ガチャッ……


扉を開けた瞬間、冷たい空気が肌を刺した。


それはエアコンの冷気ではない。


家全体を支配する、逃げ場のない緊張感が作り出す氷のような静寂だ。


この家は、いつだって豪華な墓標のように冷え切っている。


消灯されたシャンデリアの下、リビングの中央に母が立っていた。


エンジ色のサテンのドレスを纏い、首元には傲慢な輝きを放つダイヤモンド。


母は腕を組み、鋭い眼差しを私に向けた。


まるで、磨き上げられた大理石の床に落ちた、拭い去れない汚れを見るような目で。


「いい度胸ね。娘がこんな時間まで遊び歩いて」


母の声が、氷の礫となって飛んでくる。


「満足したのかしら?」


私は答えない。


無言のまま、母の傍らにあるコンソールテーブルへと歩み寄った。


ポケットから、大学の卒業祝いに父から与えられた車の鍵を取り出す。


カランッ……


ガラスの天板に放られた鍵が、乾いた音を立てた。


その響きが、静まり返った家の中に鋭く波及していく。


母は眉をひそめ、鍵と私の顔を交互に見つめた。


「……何の真似?」


「疲れました、お母様」


私は淡々と、感情を削ぎ落とした声で答えた。


「車はお返しします。これで、私が一族の資産を持ち逃げする心配もなくなりますよね」


母の顎が、怒りで硬直するのが分かった。


恩知らずな娘への罵倒を浴びせようと、その薄い唇が開かれる。


「エララ! あなた、そんな態度で——」


「話は明日にしましょう。頭が痛いんです」


母の言葉を遮り、私は冷ややかな礼儀正しさを装ってその横を通り過ぎた。


叫びもせず、反論もせず、ただ無視をする。


いつもなら泣いて縋るか、激昂するはずの私が沈黙を守ったことで、母の計算は狂ったようだった。


ふと、部屋の隅に目を向ける。


窓際のシングルソファに、父が座っていた。


ジャケットは羽織ったままだが、ネクタイは緩み、手にしたウィスキーグラスは半分ほど空いている。


父は私を見ようとしなかった。


視線は絨毯の模様に固定され、その肩は力なく落ちている。


ドウィジャヤ・トレーディングを率いる威厳ある男の姿は、そこにはなかった。


憐れみが一瞬よぎるが、それ以上に嫌悪感が勝った。


彼は、自分の娘が「売られた」ことを知っている。


それを知りながら、高級な酒を煽り、沈黙という共犯を選んでいるのだ。


私は顔を背けた。


もう、この光景を視界に入れることさえ耐えられなかった。


一段ずつ、階段を上っていく。


背後で母が忌々しげに舌打ちする音が聞こえたが、追ってくる気配はなかった。


おそらく、私が折れたのだと勘違いしているのだろう。


……大きな間違いよ。


ガチャ……


自室に入り、鍵を二重にかけた。


ドアに背中を預けたまま、目を閉じる。


必死に抑えていた呼吸が、熱い塊となって喉まで込み上げてきた。


廊下からは、母が苛立たしげに歩き回る音が聞こえてくる。


その足音は、まるで巡回する看守のようだ。


タッ、タッ、タッ……


足音は私の部屋の前で数秒間止まり、やがて遠ざかっていった。


私は目を開けた。


カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、暗い部屋を頼りなく照らしている。


「時間がないわ」


クローゼットの奥から、機内持ち込みサイズのスーツケースを引き出した。


音を立てないよう、慎重に床に下ろす。


スルスル……


ジッパーを開ける音が、静寂の中で妙に大きく響いた。


私は迅速に、かつ正確に荷物を選別し始めた。


手に取ったのは、華やかなドレスでも、高価な靴でもない。


ジーンズ、数枚のTシャツ、仕事用のブラウス、そして下着。


それから、命の次に大切な書類。


学位記、出生証明書、パスポート、通帳。


それらを防水のプラスチックケースに詰め込む。


これさえあれば、もし学校の職を奪われても、どこかでやり直せるはずだ。


ドレッサーの宝石箱を開けた。


二十五歳の誕生日に母から贈られたダイヤのネックレスには目もくれない。


そんなものは、私を縛り付けるための鎖でしかない。


代わりに、祖母から受け継いだシンプルな金のロケットを手に取った。


見栄でも体裁でもなく、純粋な愛とともに贈られた唯一の宝物。


それをバッグの奥深くに滑り込ませる。


引き出しを閉めようとした時、指先に硬い感触が触れた。


伏せられたままの、木製のフォトフレーム。


それをそっと裏返した。


色は少し褪せているが、そこには五歳の私と、十代のアルナ姉さんが写っていた。


古い家の庭で、チョコレートのアイスクリームを顔中に塗りたくって笑い合っている。


ドウィジャヤ・トレーディングがこれほど巨大になる前。


私たちが「資産」ではなく、「人間」として生きていた頃の記憶。


視界が熱く潤んでいく。


「すぐに行くからね、姉さん」


写真の中の笑顔に、誓うように囁いた。


「もう少しだけ、待ってて」


衣類の間に写真を隠し、スーツケースを閉じる。


ピコン!


ベッドの上に放り出したスマホの画面が、暗闇を切り裂くように光った。


音が漏れないよう、慌ててそれを掴み取る。


【サスキア・プトゥリ】


午前二時決行。遅れないで。隣の家の死角にあるCCTVの影で待ってる。


追伸:荷物運び用に「馬力」を用意したから。


私は眉をひそめた。


馬力?


人力車でも呼ぶつもりなのだろうか。それとも、市場の運び屋?


問い返そうと指を動かした瞬間、ドアノブが静かに回った。


ガチャッ、ガチャッ……


心臓が跳ね上がった。


スマホを枕の下に放り込み、一瞬でベッドに潜り込む。


毛布を首まで引き上げ、死んだように目を閉じた。


「エララ? 起きているの?」


母の声だ。


苛立ちと猜疑心が混じった、冷ややかな響き。


私は息を殺し、反応を絶った。


瞼の裏側で、激しい鼓動だけが暴れている。


コン、コン。


「寝たふりをしても無駄よ。明日の朝、じっくり話し合いましょう。逃げられると思わないことね」


沈黙。


扉の向こうで不満げな呟きが聞こえ、やがて足音が遠ざかっていった。


夫婦の寝室のドアが閉まる重い音が響く。


バタンッ……


肺に溜まっていた空気を、一気に吐き出した。


教員採用試験の時よりも、よっぽど心臓に悪い。


• • •


壁の時計が刻む音が、私の焦りを嘲笑うようにゆっくりと響く。


午前一時三十分。


家は完全に静まり返っていた。


庭から聞こえる虫の声さえ、鼓膜に突き刺さるほどに。


私は音もなく起き上がった。


シルクのパジャマを脱ぎ捨て、黒のカーゴパンツとグレーのオーバーサイズフーディーに着替える。


足音を消すためのゴム底のスニーカーを履き、髪を高く結い上げた。


二十六年という歳月を過ごしたこの部屋を見渡す。


棚に並んだぬいぐるみ、豪華なドレッサー、柔らかすぎるベッド。


すべてが最高級の、しかし逃げ出すことのできない「黄金の檻」だった。


「さよなら」


未練を断ち切るように呟き、スーツケースを持ち上げた。


車輪の音を立てないよう、腕の力だけで支える。


外科医が爆弾を解体するような慎重さで、ドアの鍵を回した。


カチッ……


開いた。


暗闇に沈む廊下を覗き込む。


一筋の光もない、虚無の世界。


脱出作戦が、今、始まった。

Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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