第15章 安息の境界
南ジャカルタの威圧的な高層ビル群が、バックミラーの中で少しずつ遠ざかっていく。
車の窓を流れる景色は、灰色のコンクリートから、緑豊かな並木道や活気ある商店街へと姿を変えていった。
デポックへと向かうこの道のりは、まるで二つの異なる世界を繋ぐ境界線のようだ。
サスキアは隣で静かにハンドルを握り、カーステレオからは穏やかなポップスが流れている。
私は窓に頭を預け、オレンジ色に染まり始めた夕焼け空を眺めていた。
胸の奥に溜まった澱のような重苦しさが、街の喧騒を離れるにつれて、ほんの少しだけ軽くなっていくのを感じる。
「もうすぐ着くよ」
サスキアが優しく声をかけてくれた。
車は古びているが手入れの行き届いた住宅街へと入っていく。
ブラウィジャヤにあるような、人を拒絶するような高い塀も、威圧的な警備員もここにはいない。
腰ほどの高さしかない生け垣の向こうには、色とりどりの植木鉢が並び、人々の生活の匂いが漂っていた。
サスキアは速度を落とし、白い壁の小さな家の前で車を止めた。
庭にはモンステラやアグラオネマが青々と茂っている。
アルナ姉さんの家だ。
母さんから、あそこには絶対に行くなと固く禁じられていた場所。
車を降りると、打ち水をしたばかりの土の香りと、どこかの家から漂ってくる夕飯の支度の匂いが鼻をくすぐった。
ふう……
ようやく、肺の奥まで深く空気を吸い込めた気がした。
チャイムを鳴らす前に、玄関のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、髪を無造作に束ね、家庭的なバティックの部屋着を纏った女性だった。
私によく似た面差しだが、その瞳には私がずっと求めていた強さと静かな慈しみがある。
「エララ……?」
震える声で私の名前を呼んだ。
その瞬間、私の心の中で張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。
手に持っていた仕事鞄が、テラスの床に滑り落ちる。
「お姉ちゃん……」
私は子供のように、姉の胸に飛び込んだ。
姉さんはしっかりと私の体を受け止め、力強く抱きしめてくれた。
ベビーパウダーと、母親特有の優しい日向のような香りに包まれる。
「お姉ちゃん、私、もう疲れたよ……」
姉の肩に顔を埋め、私は声を殺して泣いた。
「本当に、もう限界なの……」
「よしよし、分かってるわ。大丈夫よ、エララ」
姉さんは私の背中を優しくさすってくれる。
「全部吐き出しなさい。もう我慢しなくていいのよ」
それは、私が小学生の頃、算数のテストが悪くて母さんにひどく叱られた時にしてくれたのと同じ、魔法の手だった。
後ろでサスキアが、私の鞄を拾い上げながら、切なそうに微笑んでいるのが見えた。
• • •
十五分ほど経った頃。
私はリビングの柔らかいソファに座っていた。
目はまだ少し腫れているけれど、涙はもう止まっている。
決して広くはない家だが、隅々にまで温かな血が通っているような空間だった。
床に散らばった子供のおもちゃ、壁に無造作に貼られた家族旅行の写真。
そして、心を落ち着かせるアロマキャンドルの微かな香りが漂っている。
「エララ、お茶を飲みなさい。サスキアさんも、揚げたてのバナナをどうぞ」
キッチンから、眼鏡をかけた男性がトレイを持って現れた。
姉さんの夫、ナサン義兄さんだ。
彼は私の前に丁寧にティーカップを置き、姉さんの足元のカーペットに腰を下ろした。
そして、第二子を妊娠中の姉さんの足を、労わるように優しく揉み始める。
その光景を見て、私は胸が締め付けられるような衝撃を受けた。
ブラウィジャヤの家では、父さんが自分で飲み物を用意することなど一度もなかった。
父さんは常に仕えられるべき王であり、母さんは完璧な家庭を演じるために周囲を支配する女王だった。
けれど、ここでは違う。
外資系IT企業のマネージャーとして働く義兄さんが、心身ともにボロボロになった義理の妹のために、当たり前のようにお茶を淹れてくれる。
「ありがとうございます、ナサンさん」
「気にするな、エララ。ここは君の家でもあるんだから」
彼は太陽のような笑顔でそう言ってくれた。
私は温かいカップを両手で包み込み、その熱を確かめるように一口飲んだ。
姉さんは私の正面に座り、何も言わずに私の言葉を待っている。
私は重い口を開き、ゆっくりと話し始めた。
学校に現れたレイのこと。
実家の会社が倒産寸前であること。
そして、私を借金の形として差し出そうとしている両親の冷酷な決断。
話が進むにつれ、姉さんの穏やかだった表情が、次第に険しくなっていく。
「狂ってる……」
姉さんは絞り出すような声で呟いた。
「あの人たちは、本当に正気を失ったのね」
「父さんは先週、軽い心臓発作を起こしたらしいわ。でも、私には隠していた。レイから聞いたの」
「それは、あなたを操ろうとしているのよ、エララ!」
姉さんの声が鋭く響いた。
「お母さんの得意な手口。あなたに罪悪感を植え付けて、思い通りに操るための罠よ」
「私がナサンと結婚するって決めた時も、全く同じことをしたわ!」
義兄さんが姉さんの膝をそっと叩いた。
「落ち着いて、アルナ。お腹の赤ちゃんに障るよ」
姉さんは深く息を吐き、昂ぶる感情を抑えようと目を閉じた。
「ごめんなさい。でも、信じられないわ」
「会社は父さんの野心、贅沢な暮らしは母さんの見栄。どうしてその代償を、あなたの未来で払わなきゃいけないの?」
部屋の中に、重苦しい沈黙が流れた。
「お姉ちゃん、私、どうすればいいか分からないの」
「拒絶すれば父さんの体が心配だし、でも、受け入れたら……私は抜け殻のように生きることになる」
その時、沈黙を切り裂くように、乾いた音が響いた。
パンッ!
今まで黙ってバナナを食べていたサスキアが、勢いよく手を叩いたのだ。
「はい、ストップ! 悲劇のヒロインごっこはここまで!」
サスキアは鼻息荒く立ち上がった。
「このままじゃ通夜になっちゃう。ここは一発、景気のいい話をしましょうよ」
私は困惑して彼女を見上げた。
「サスキア、何の話?」
サスキアは姉さんと義兄さんを交互に見つめ、わざとらしいほど真剣な表情を作った。
「アルナさん、ナサンさん。知ってますか?」
「この嵐の真っ只中にいるエララには、実は……最強の守護神がいるんですよ」
私は嫌な予感がして、こめかみを押さえた。
「サスキア、やめてよ」
「黙ってて!」
サスキアは私の唇に指を当てて封じ込めた。
「あのね、エララは今、ある子連れの男性といい感じなんです」
「イケメンで、物腰が柔らかくて、セノパティでカフェを経営してて、娘さんも超可愛い。そして……」
彼女は一拍置いて、もったいぶるように声を低くした。
「ただのカフェオーナーじゃないんです」
義兄さんが興味深そうに眉を上げた。
「ほう? 飲食業の青年実業家か?」
「そんなレベルじゃないですよ、義兄さん!」
サスキアは身を乗り出し、陰謀論でも語るような口調になる。
「今日、彼の私室に入る機会があったんですけど、ベッドサイドの棚に何があったと思います?」
私は溜息をついた。
「サスキア、勝手に見るなんて失礼でしょ」
「何があったんだ?」
義兄さんの男としての本能が刺激されたようだ。
「パテック・フィリップのノーチラス。それも、文字盤がブルーのやつです」
ゲホッ!
義兄さんが飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。
彼は顔を真っ赤にして激しくむせ込み、姉さんが慌てて背中を叩く。
「ノーチラスだって?!」
咳き込みながらも、義兄さんの目は見開かれていた。
「サスキアさん、それは本当か? あの時計は、この住宅街の家が二軒、キャッシュで買えるくらいの値段だぞ!」
姉さんがポカンとした顔で聞き返した。
「え? そんなに高いの?」
「あれは時計愛好家の『終着点』だよ、アルナ。それを無造作に棚に置いているなんて……」
義兄さんは畏怖の入り混じった視線を私に向けた。
「エララ、君は一体、どこでそんな人物と知り合ったんだ?」
顔が火照るのが分かった。どうしてここでディオさんの話になるのか。
「……ただの保護者の方ですよ。それに、本物かどうかも分からないし」
「本物よ、エララ!」
サスキアが確信に満ちた声で遮った。
「あのケースの重厚感、ガラスの透明度、仕上げの美しさ。私の目は節穴じゃないわよ!」
彼女は姉さんに向き直った。
「だからね、アルナさん。私は、ディオさんは正体を隠した超大物だと睨んでるんです。しかも、エララに対してめちゃくちゃ過保護なんですよ」
姉さんはじっと私の顔を覗き込んだ。
先ほどまでの怒りは消え、悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。
「あら……うちの妹も、隅に置けないわね」
「お姉ちゃん! そんなんじゃないってば!」
私はソファのクッションに顔を埋めた。
「ただの友達。私が娘さんの先生だから、親切にしてくれてるだけ」
「友達にしては、顔が真っ赤だけどな」
義兄さんがクスクスと笑う。
「でも、いいじゃないか。あのレイとかいう男より、よっぽど希望がある」
姉さんは私の顔からクッションを取り上げ、その手を強く握りしめた。
その瞳は再び真剣なものへと戻っていた。
「いい、エララ。その彼のことは、あなたが幸せになれるなら応援するわ」
「でも、両親のことだけど……」
姉さんは私の指をぎゅっと握り、自らの決意を伝えるように言葉を紡いだ。
「親孝行も大事だけど。でも、見栄のために娘を売るような親の過ちに付き合うのは、孝行じゃないわ」
「それは、ただの共倒れよ」
目の奥がまた熱くなった。
「あなたは、自分の幸せのためにわがままになってもいいの」
「もう二度と、あの人たちにあなたの人生を奪わせちゃダメ。私が家を飛び出した時のように、あなたも強くならなきゃ」
その言葉が、私の心の奥底に染み渡り、新しい糧となっていく。
私は親不孝者じゃない。ただ、一人の人間として生きたいだけだ。
「ありがとう、お姉ちゃん……」
義兄さんが咳払いをした。
「さて、具体的な作戦を立てようか。エララ、ここに住むか? ゲストルームは空いてるぞ」
私は首を横に振った。
「ここは学校から遠すぎるわ。毎日デポックから通うのは、体力的にも厳しいと思う」
「しばらくは私のボロアパートに泊まることになってます」
サスキアが機敏に答えた。
「あそこなら職場に近いし、レイにも住所はバレてませんから」
姉さんは納得したように頷いた。
「それがいいわね。でも、荷物はどうするの? 今持ってるのは仕事鞄だけじゃない」
私は黙り込んだ。
脳裏に、ブラウィジャヤの部屋にあるクローゼットが浮かぶ。
大学の学位記、資格の証明書、着替え、そして僅かな貯金。
これからの人生を歩むために、置いていけないものがいくつかある。
「一度、帰らなきゃ」
私の口から、静かだが決然とした言葉が出た。
サスキアが目を見開く。
「はあ? またあの魔窟に突っ込むつもり?」
「準備が必要なの。今夜、両親が寝静まった後に」
「書類や最低限の荷物をまとめたい。手ぶらで逃げ出して、路頭に迷うわけにはいかないもの」
「危険よ、エララ」
姉さんが心配そうに顔を曇らせる。
「大丈夫よ。今夜、両親はチャリティ・ガラディナーに出席するはず。帰りは遅くなるわ」
「家にはお手伝いさんしかいない。そこがチャンスなの」
私はサスキアを見つめた。
「サスキア、手伝ってくれる?」
サスキアの口角が吊り上がり、その瞳に冒険心が宿った。
「真夜中の極秘撤退作戦? 望むところよ!」
「午前二時に迎えに行くわ。トランクを用意して、絶対に見つからないようにね」
私は深く頷いた。
心臓が早鐘を打っている。けれど、もう迷いはない。
今夜が、あの冷え切ったブラウィジャヤの家で過ごす最後の夜になる。
明日からは、私の人生は私だけのものだ。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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