第14章 隠された秒針
サスキアは私の目をまっすぐに見つめ、その指先に力を込めて私の手を握りしめた。
まるで、残されたわずかな勇気を、すべて私に託そうとしているかのようだった。
「デポックね。わかった。これからアルナさんの家に行こう」
彼女の声は低かったが、そこには揺るぎない決意がこもっていた。
フゥーッ
私は長く深い溜息をつき、ずっと強張っていた肩の力をゆっくりと抜いた。
この数時間、私の体はまるで逃げ場のない檻に閉じ込められたかのように、強張っていたのだ。
テーブルのそばに立っていたディオさんは、私たちがこれからの逃亡計画を話し合うためにプライバシーを必要としていることを察したようだった。
「エラ先生、サスキア先生……私は一度下に戻りますね。ディマスの手伝いがありますから」
ディオさんは非常に丁寧な口調でそう言った。
彼は、いつ留まり、いつ身を引くべきか、その引き際を完璧に心得ていた。
その立ち居振る舞いには、押しつけがましさが一切ない。
「必要なだけ、ここを使ってください。遠慮はいりませんよ」
そう言い残すと、彼は静かな足取りで階段の方へと向かっていった。
トッ、トッ、トッ……
私はただ、言葉にならない感謝を込めて小さく頷くことしかできなかった。
今の私にとって、この静寂と安全な場所は何物にも代えがたい贈り物だった。
静まり返ったリビングには、私とサスキア、そして私の膝の上でまだ深く眠り続けているライラだけが残された。
この小さな女の子は、私の太ももを枕代わりにして、ボボのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。
まるで、大切な宝物を誰にも渡さないと誓っているかのように。
私は彼女の柔らかい茶色の髪を、一定のリズムでゆっくりと撫で続けた。
不思議なことに、その単純な動作が私自身の乱れた鼓動をも鎮めてくれるような気がした。
「エラ、今のうちに詳しく話して」
サスキアが声を潜め、膝が触れ合うほど身を乗り出してきた。
「さっき学校の校庭で……レイに何を言われたの? まるで幽霊でも見たような顔をしてたじゃない」
私は唾を飲み込み、窓の外へと視線を逃がした。
ジャカルタの空は、いつの間にか燃えるような茜色に染まり始めていた。
「彼が言ったの……彼と私の両親が、来月の婚約披露の日取りをもう決めたって」
その言葉を口にするだけで、声が惨めに震えた。
サスキアは目を見開いた。
叫び出したい衝動を抑えるように、慌てて自分の口を片手で覆い、眠っているライラをチラリと見た。
「狂ってる! 今が令和の時代だって分かってないの? まるで昭和の政略結婚じゃない!」
彼女は怒りを押し殺したような声で吐き捨てた。
私は力なく首を振った。
込み上げてくる涙を、必死で奥へと押し戻す。
「それだけじゃないの、キア。彼は、ドウィジャヤ・トレーディングが倒産寸前だって言ってた。父さんは、会社を救うためにレイの資金が必要なのよ」
サスキアの表情が、怒りから深い驚愕へと変わった。
彼女はしばらくの間、その情報を受け止めきれずに沈黙した。
「じゃあ……あいつら、本当に借金を返すためにあなたを売ったっていうの?」
蚊の鳴くような、掠れた声。
私はただ、静かに頷いた。
苦虫を噛み潰したような、不快な苦さが口の中に広がった。
サスキアは同情の入り混じった目で私を見ていたが、やがて視線を私の膝の上で眠るライラへと移した。
そして、どこか温かく、それでいて意味深な微笑みを浮かべた。
「ねえ、エラ。今のあなたとライラを見てると……本当の親子みたいに見えるわよ」
ドクッ
心臓が跳ね、頬が急激に熱くなるのを感じた。
私は慌てて視線を落とし、ライラの寝姿勢を整えるふりをして誤魔化した。
「何言ってるのよ、キア。真面目な話をしてるのに」
サスキアは小さく笑うと、今度はこの二階の部屋の細部に視線を走らせ始めた。
まるで、何かの手がかりを探す探偵のような目つきだった。
彼女は、重厚なチーク材で作られたコーヒーテーブルの縁を指先でなぞり、それから私たちが座っている革張りのソファを見つめた。
「エラ、気づいてる?」
サスキアが耳元で囁く。
「ここの家具……どれもこれも、とんでもない値段がしそうなものばかりよ」
私は彼女の視線を追い、昨日から私の心をざわつかせていた矛盾を再確認した。
一階のカフェは確かに居心地が良いが、この二階にあるものはすべて、明らかに「本物」の高級品だった。
サスキアは確信を得たように頷き、さらに顔を近づけてきた。
「車はただの白い軽自動車なのに、このダイニングテーブルだけで車が一台買えるかもしれないわ」
彼女の読みは鋭かった。
「もしかして、ライラのパパって、正体を隠して庶民のふりをしてるCEOなんじゃない? ほら、よくドラマにあるような設定よ!」
私はその言葉に思わず吹き出した。
サスキアの想像力は、ドラマの話になるといつも際限なく膨らんでいく。
「それとも、正体を隠して潜伏してるマフィアだったりして?」
彼女は悪戯っぽくニヤリと笑った。
そんな他愛もない冗談が、私の重く沈んでいた心を少しだけ軽くしてくれたのは事実だった。
ギシッ……ギシッ
階段を上ってくる静かな足音が聞こえ、私たちは同時に顔を上げた。
エプロンを外したディオさんが再び姿を現し、ソファのそばまで歩み寄って娘の寝顔を覗き込んだ。
「ずいぶん深く眠ってしまったようですね」
ディオさんはそう言うと、ソファの横に膝をついた。
「一度、寝室へ運びます。エラ先生、このままでは足が痺れてしまうでしょう」
彼は細心の注意を払いながら、その逞しい腕でライラの小さな体を抱き上げた。
ライラは少し身じろぎをしたが、目を覚ますことなく父親の胸に顔を埋めた。
「ほら、エラ。部屋を見に行こう」
サスキアが私の腕を強引に引っ張り、ディオさんの後を追うように促した。
私は少し戸惑い、申し訳ない気持ちになったが、好奇心旺盛なサスキアはすでにディオさんの背中に張り付くように歩き出していた。
「構いませんよ」
ディオさんは振り返り、私の困惑した表情を見て小さく笑った。
私たちは二階の短い廊下の突き当たりにある、ライラの部屋へと向かった。
扉が開かれると、そこには以前写真で見かけたあの光景が広がっていた。
だが、小さなベッドの上にはぬいぐるみや絵本、プラスチックのブロックが山積みになっていた。
「おや、散らかっていますね」
ディオさんは困ったように眉を下げた。
「おもちゃを動かそうとすれば、音で彼女が起きてしまうかもしれません」
彼は少し考え込むように沈黙した後、廊下の反対側にある大きな扉へと視線を向けた。
「仕方ありません。私の部屋に寝かせましょう」
まるでそれが何でもないことのように、彼はさらりと言った。
サスキアは私の脇腹を肘で突き、消えてしまいたいほど恥ずかしくなるようなアイコンタクトを送ってきた。
「ディオさん……すみません、サスキアが好奇心旺盛なもので」
主寝室の前に着いたとき、私は早口で言い訳をした。
ディオさんは薄く微笑むだけで、両手が塞がっている代わりに足を使って静かに扉を押し開けた。
「気にしないでください。怪しいものなんて何もありませんから」
サスキアはディオさんの背後で、声を出さずにガッツポーズを作って勝ち誇ったような顔をしていた。
スゥーッ
一歩足を踏み入れた瞬間、私は洗練された男性的な香りに包まれた。
サンダルウッドに爽やかなシトラスが混ざり合った、清潔感のある上品な香り。
部屋はダークグレーとチャコールを基調にした落ち着いた色合いで、温かみのある間接照明が洗練された空間を演出していた。
ディオさんは、ネイビーのシルクのシーツが敷かれたキングサイズのベッドの中央に、ライラをそっと横たえた。
サスキアが息を呑む音が聞こえた。
彼女の鷹のような鋭い視線は、ベッドの脇にあるサイドテーブルの上に釘付けになっていた。
「エラ……見て、あれ」
彼女が震える指先で指し示したのは、ガラス蓋のついた木製の時計ケースだった。
その中には、象徴的で重厚な輝きを放つ、シルバーの腕時計が収められていた。
「パテック・フィリップのノーチラスよ、エラ! 友達が話してたから知ってるわ。あそこの社長が買いたがっても手に入らなかったっていう、伝説の時計よ!」
私は目を見開いた。
時計の知識は乏しい私でも、そのブランド名は父の知人たちの間で何度も耳にしたことがあった。
数千万円、あるいはそれ以上の価値がある、富の象徴。
時計は照明を反射して鈍く光り、ディオさんの着ている質素な黒のポロシャツとはあまりにも対照的な威厳を放っていた。
私たちは言葉を失い、半開きになった口を塞ぐことも忘れて、ただ互いを見つめ合った。
ディオさんがライラの毛布を整え終え、振り返った。
立ち尽くしている私たちを見て、彼は少しおどけたような調子で言った。
「満足しましたか? 隠し事なんてなかったでしょう?」
私の顔は火が出るほど熱くなった。
慌ててその超高級時計から視線を逸らし、適当な返事を探した。
「ええ……あの、すごく綺麗に片付いているお部屋ですね」
私たちは逃げるように主寝室を後にし、静かに扉を閉めた。
「もしよろしければ、もう少しゆっくりしていきませんか? 冷たい飲み物でも用意しましょうか」
リビングに戻ると、ディオさんがそう提案してくれた。
私はサスキアと視線を交わし、それから深い感謝を込めてディオさんを見つめた。
「お気遣いありがとうございます、ディオさん。でも、そろそろ行かなければなりません」
私の勇気が両親の圧力で萎んでしまう前に、一刻も早くアルナ姉さんに会わなければならない。
「失礼します。ライラが起きたら、挨拶もせずに帰ってしまったと謝っておいてください」
ディオさんは静かに頷き、一階のカフェの入り口まで私たちを見送ってくれた。
外に出ると、夕暮れのジャカルタの風が私たちを迎え入れた。
アスファルトの熱気と排気ガスの匂いが、厳しい現実へと私を引き戻す。
「気をつけて、エラ先生。サスキア先生も」
ディオさんはカフェの敷居に立ち、穏やかな声で言った。
私は小さく頷き、サスキアが運転する車の助手席に乗り込んだ。
ブォン!
車がセノパティの通りを走り出した瞬間、サスキアは我慢していたものを爆発させるようにハンドルを叩いた。
「確定よ、エラ! あの人は絶対にただ者じゃないわ!」
彼女は興奮を隠しきれない様子で叫んだ。
「あの時計一本で、デポックに庭付きの一軒家がキャッシュで買えるのよ! 分かってる!?」
私は何も答えられず、窓に頭をもたせかけて流れる景色を見つめていた。
レイのこと、父さんの会社のこと。
そして、穏やかな微笑みの裏に数え切れないほどの謎を隠し持っている、ライラのパパのこと。
デポックへの道のりが始まった。
それは、私に残された唯一の希望へと続く道だった。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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