表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/86

第13章 逃げ場所

挿絵(By みてみん)


重厚な木の扉を通り抜けた瞬間、足元がふわふわと浮き上がるような感覚に襲われた。


階下から聞こえていたコーヒーマシンの騒音や客たちの話し声が、厚手のカーペットに吸い込まれるように消えていく。


まるで、外界の喧騒を完全に遮断したタイムカプセルの中に足を踏み入れたかのようだった。


ディオさんは前を歩き、その逞しい背中が外の世界から私を守る盾のように見えた。


彼は振り返ることも、何も尋ねることもせず、ただ確かな足取りで階段を上り、私を導いてくれる。


後ろではサスキアが私の腕をぎゅっと掴んでいた。


私が気を抜いた瞬間に倒れて、階段を転げ落ちるのではないかと心配しているみたいだ。


「気をつけてください。少し急ですから」


ディオさんが振り返らずに、静かな声で言った。


二階に上がると、グレーとオーク材を基調としたリビングルームが広がっていた。


昨日と同じ、温かくて落ち着く空間。


けれど、今の私は招待された客ではなく、ただの逃亡者としてここに立っている。


ディオさんは顎でソファをしゃくった。


「座ってください、エラ先生。サスキアさんも。自分の家だと思って」


私は吸い込まれるように柔らかなソファに体を預けた。


限界まで震えていた足が、ようやく、ようやく力が抜けた。


ディオさんは手際よくキッチンへと向かった。


カチャッ


グラスが触れ合う音が静寂を破る。


彼は冷えたミネラルウォーターのボトル二本と、ティッシュの箱を持って戻ってきた。


それを目の前のコーヒーテーブルに置き、一歩下がって距離を取る。


視線を本棚の方へ向けたのは、ボロボロになった私の姿を直視しないよう、彼なりの配慮なのだろう。


「まずは水を飲んで。落ち着くまで」


彼の声は低く、包み込むように優しい。


震える手でボトルを手に取ると、キャップがすでに緩められていることに気づいた。


力を入れなくてもすぐに開くよう、彼がさりげなく準備してくれたのだ。


そんな小さな優しさが、せき止めていた涙をまた熱くさせる。


「ありがとうございます……ディオさん……」


声がかすれて、自分でも驚くほど弱々しく響いた。


隣に座ったサスキアが、ティッシュを数枚引き抜き、私の目元を拭ってくれる。


少し乱暴だけど、そこには彼女らしい愛情が詰まっていた。


「ほら、もう泣かないの。床が水浸しになっちゃうわよ」


私は鼻をすすりながら、力なく笑った。


その時、奥の廊下から扉が開く音が聞こえた。


ギイッ


「パパ? またお客さん?」


聞き慣れた可愛らしい声に、心臓が跳ねる。


雲の模様のパジャマを着たライラが、大きなクマのぬいぐるみ『ボボ』を引きずりながら現れた。


寝起きのぼんやりした顔が、私を見つけた瞬間にぱっと輝く。


「先生!」


彼女は小走りで駆け寄ってきたが、ソファの一メートル手前でピタリと足を止めた。


満面の笑みが消え、その瞳に不安が広がる。


赤く腫れた私の目と、鼻をすする姿を見て、彼女は怯えたように立ち尽くした。


「先生……どうして泣いてるの?」


憧れのヒーローが傷ついているのを見た子供のような、悲痛な声だった。


私は慌てて手の甲で涙を拭ったが、一度溢れた感情は簡単には止まらない。


ディオさんが説明しようと一歩前に出ようとしたが、それより早くサスキアが声を上げた。


「あー、これね!」


サスキアはわざとらしく大きな声を出し、大げさに眉をひそめてライラを見た。


「さっきね、先生がバイク……じゃなくて、車に乗ってた時にね、すっごく大きなトラックが通ったの!」


ライラはぽかんとして聞き入っている。


「トラック……?」


「そう! そのトラックがね、砂埃をブワーッて巻き上げたのよ!」


サスキアは両手を大きく広げて見せた。


「その埃が全部、先生の目に入っちゃったの。だからこんなに赤くなって痛いの。大変だよねぇ」


二秒ほどの沈黙が流れた。


私はチラリとディオさんを見た。


彼は眉間を押さえ、口角が引きつるのを必死に堪えている。


あまりにも突拍子もない嘘だと分かっているはずなのに。


けれど、純粋なライラはその言葉を信じ、顔を歪めて同情の眼差しを向けた。


「先生、かわいそう……」


ライラはゆっくりと近づき、抱えていたボボを私の膝の上に差し出した。


「先生、ボボを貸してあげる。私が悲しい時、ボボをギュッてすると治るんだよ。だから先生も大丈夫」


私の心の堤防が、再び決壊した。


けれど今度は悲しみではなく、温かな感情が胸を満たしていく。


私はぬいぐるみを抱きしめ、赤ちゃんの石鹸のような匂いがする柔らかな毛の中に顔を埋めた。


「ありがとう、ライラ……ボボがいてくれたら、すぐに治る気がするわ」


ディオさんはライラの前に膝をつき、誇らしげに娘の頭を撫でた。


「ライラ、しばらく先生のそばにいてあげてくれるかな? 看護師さんになって」


「了解、キャプテン!」


ライラは元気に敬礼すると、ソファに這い上がって私の隣に陣取った。


そして小さな手で、私の腕をトン、トンと優しく叩き始める。


ディオさんは立ち上がり、私に一瞬だけ視線を送った。


その眼差しは「ゆっくりしていけ」と無言で告げているようだった。


「行きましょう、サスキアさん。コーヒーを淹れます。あなたも必要でしょう」


――― サスキア ―――


私はディオさんの広い背中を追いかけて、階段を下りた。


心の中ではガッツポーズを決めている。


ついに来た! 親友の心を盗もうとしている『容疑者』を問い詰める絶好のチャンスだ。


一階に下りると、カフェはまだそれなりに賑わっていた。


私たちはカウンターバーへと向かう。


髪の長いバリスタの青年――確かディマスとかいう名前だったかしら――が、ニヤニヤしながら迎えてくれた。


「おや、ボスが下りてきた。お、先生の綺麗な友達も一緒だ」


ディマスは布巾を置き、私たちの後ろの階段をキョロキョロと覗き込む。


「先生は? 一緒じゃないんですか? もしかして、二人きりで……」


私は彼を鋭く睨みつけた。


授業中に騒ぐ生徒を黙らせる時の、特大の威嚇だ。


「先生は休憩中。静かにしないと、その口を製本用のテープで塞ぐわよ」


ディマスの笑顔が瞬時に凍りついた。


「ひぇっ、怖いお姉さんだ……」


ディオさんは小さく吹き出し、カウンターの中に入ってコーヒーマシンの前に立った。


「ディマス、裏の倉庫のミルクの在庫を確認してこい。今すぐだ」


「了解っす、ボス! 退散!」


ディマスは逃げるようにカーテンの奥へと消えていった。


バーカウンターには、私たち二人だけが残された。


私は高いスツールに座り、両手で顎を支えながら、ディオさんの手慣れた動きを観察した。


コーヒー粉をホルダーに入れ、プレスする。


その腕に浮かび上がる筋肉のラインは、なかなかのものだ。


男嫌いのエラがコロッといくのも、分からなくはない。


「何にしますか、サスキアさん」


ディオさんはこちらを見ずに尋ねた。


「この店で一番強いコーヒーを。エラを見守るために、シャキッとしておきたいから」


ディオさんは短く頷いた。


シューッ


ミルクを泡立てる蒸気の音が響き、濃厚なコーヒーの香りが立ち込める。


私は時間を無駄にするつもりはなかった。


探偵モード、オン。


「ディオさん」


「はい?」


彼はカップにミルクを注ぎながら答えた。


その手元では、見事なハート型のラテアートが描かれている。


「エラにすごく親切なんですね。プライベートな場所に、泣いている女を連れ込むなんて」


ディオさんは私の前にカップを置いた。


「ただの親切心ですよ。彼女は娘の恩師ですから」


そつのない返答。実につまらない。


私はコーヒーを一口啜った。苦味の奥に深いコクがある。


私は目を細めて彼を見つめた。


「本当に先生だから? さっきエラが泣いてるのを見た時、あなた、今にも壁を殴りそうな顔してたわよ」


カウンターを拭いていたディオさんの手が、ピタリと止まった。


彼は顔を上げ、片方の眉を持ち上げて私を見た。


「……そうですか?」


とぼけているが、その瞳の奥には隠しきれない動揺がある。


私は口角を上げた。切り札を出す時だ。


「ところでディオさん、あなたの理想のタイプって?」


彼は怪訝そうに眉をひそめた。


「……なぜ、急にそんなことを?」


「ただの好奇心よ。いい人がいたら紹介しようと思って」


私はカップを指で回しながら続けた。


「例えば……優しくて、母性があって、でも脆くて守ってあげたくなるような……そう、エラみたいなタイプはどうかしら?」


ゴホッ!


ディオさんは変なところに入ってむせた。


冷静沈着だった彼の顔が、耳の先まで一気に真っ赤に染まる。


動揺のあまり、カウンターに置いてあった小さなスプーンを落としてしまった。


カラン


「サスキアさん、質問が具体的すぎます」


彼は咳き込みながら、必死にクールを装おうとしているが、完全に失敗している。


落としたスプーンをぎこちない動きで拾い上げ、私の目を見ようともしない。


「私は……今は理想のタイプなんて考えていません。ライラと、この店のことで精一杯ですから」


私は心の中で勝利の雄叫びを上げた。


ビンゴ。言葉よりも体が正直に反応している。


「あら、そうなの? 残念だわ。エラはフリーだし、今は『頼れる背中』を必要としてるみたいだけど」


私はわざと「頼れる背中」という言葉を強調し、彼の広い肩をチラリと見た。


ディオさんは大きな咳払いをし、すでに綺麗なグラスを磨き直すフリをして背を向けた。


「……エラさんにホットチョコレートを作ってきます。甘いものが必要でしょうから」


逃げた。面白いほど分かりやすい。


私は満足げに微笑み、再びコーヒーを口にした。


大丈夫よ、エラ。


あんたの新しい『港』は、なかなか有望みたい。


• • •


【POV:エラ】


ゲスト用のバスルームの鏡に映る自分の顔を見て、絶句した。


ひどい。


マスカラが滲んで目の下にクマを作り、まるでパンダみたいに目が真っ黒だわ。


鼻は赤く、頬は腫れぼったい。


これではライラが怯えるのも無理はない。


私は冷たい水で何度も顔を洗った。


悲しみの記憶と、肌にこびりついた恥辱を洗い流すように。


冷たさが心地よいけれど、レイや母から投げつけられた言葉による胸の痛みまでは凍らせてくれない。


「しっかりして、エラ。あなたは商品じゃないわ」


鏡の中の自分に言い聞かせる。


備え付けのタオルで顔を拭うと、ラベンダーの香りが鼻をくすぐった。


深呼吸をして、バスルームを出る。


ソファでは、ライラが忠実に自分の『持ち場』を守っていた。


足をぶらぶらさせながらタブレットを見ていた彼女は、私に気づくとすぐに顔を上げた。


「先生、おめめ、もう痛くない?」


私は彼女の隣に座り、再びボボを抱きしめた。


「ええ、もう大丈夫よ。ボボを貸してくれてありがとう」


ライラは乳歯を見せて、にっこりと笑った。


「どういたしまして!」


階段を上ってくる足音が聞こえた。


ディオさんが木製のトレイを持って現れた。甘いチョコレートの香りが漂う。


その後ろから、サスキアが何やら意味深な笑みを浮かべてついてきた。


ディオさんはトレイをテーブルに置いた。


私には、小さなマシュマロが浮いたホットチョコレート。


ライラには、パックのミルク。


「飲んでください、エラ先生。ホットチョコレートは気分を落ち着かせてくれます」


彼は座らず、テーブルの傍らに立ったまま、私をじっと見つめた。


その瞳にあるのは同情ではなく、もっと強い……守護者のような光。


「ありがとうございます、ディオさん。昨日から、ご迷惑ばかりおかけして」


「謝るのはやめて、エラ」


隣に座ったサスキアが私の言葉を遮った。


「あんたは何も悪くないんだから」


ディオさんも同意するように頷いた。


「サスキアさんの言う通りです。ここは安全です。何も心配することはありません」


その言葉はシンプルだったけれど、驚くほど深く私に浸透した。


『ここは安全』。


私はホットチョコレートのカップを手に取った。


温もりが手のひらから全身へと伝わっていく。


一口啜ると、濃厚で甘い液体が喉を通った。


内側から抱きしめられているような感覚。


私はカップを置き、サスキアを真っ直ぐに見つめた。


決心は固まっていた。


あの家には戻れない。今夜も、明日も。


「キア……」


声はまだ少し震えていたけれど、意志ははっきりしていた。


「なあに、ラ?」


「私、ブラウィジャヤの家には戻りたくない」


一瞬、沈黙が流れた。


ディオさんがおもちゃを片付けるフリをしながら、耳を澄ませているのが分かった。


「今は、あの人たちと顔を合わせられない。別の場所が必要なの」


サスキアは力強く頷いた。


「分かった。じゃあ、どこに行きたい? 私の家?」


私は首を横に振った。


「お母様は、真っ先にあなたの家を探すわ。彼らが予想もしなくて、でも私が安心できる場所がいい」


頭に浮かんだのは、ある一人の名前だった。


ドゥウィジャヤ家の中で唯一、運命に抗い、生き延びた女性。


「デポックへ連れて行って、キア。アルナ姉さんの家へ」



Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ