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第12章 商品

挿絵(By みてみん)


アンサナの木の枝が頭上で激しく揺れ、熱を帯びた昼下がりの風が吹き抜ける。


本来なら涼しさを運ぶはずの風が、今の私の肌には火傷しそうなほど熱く感じられた。


校門の影が長く伸び、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。


レイは高級スポーツカーのドアを開けようとした手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。


その動作一つ一つに、獲物を追い詰めた捕食者のような余裕が滲んでいる。


私は震える膝を隠すように一歩前へ踏み出した。


「待って」


私の声は、自分でも驚くほどかすれていた。


心臓が早鐘を打ち、指先にまで不快な拍動が伝わってくる。


レイは腕を組み、まるで見世物でも眺めるような薄笑いを浮かべた。


「どうしたんだい、エララ先生。そんなに怖い顔をして」


「今の言葉、どういう意味? ふざけないで。両親が同意したなんて、ありえないわ」


レイはすぐに答えず、わざとらしく鼻で笑った。


彼は立ち位置を変え、勝利を確信した男の目で私を真っ向から見据える。


その視線は、冷酷な査定そのものだった。


「君のお母様が、なぜあんなに必死に僕との縁談を進めていると思う? エララ」


私は言葉を失った。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえ難しい。


「君が売れ残りになるのを心配しているからだとでも? そんな殊勝な理由じゃない」


レイは大きなため息をついた。


まるで物分かりの悪い生徒に、一から十まで教え込もうとする教師のような態度で。


「ドウィジャヤ・トレーディングは、もう沈没寸前の泥舟なんだよ」


その言葉は、どんな物理的な暴力よりも深く私を打ちのめした。


足元の地面が急にぐにゃりと歪み、平衡感覚が失われていく。


「お父様の会社の財務状況は、もはや『問題がある』なんてレベルじゃない。崖っぷちだ」


「嘘よ……」


「嘘じゃない。至る所に借金がある。来週には、会社を回すための運転資金すら底を突く」


レイは一歩、また一歩と距離を詰めてきた。


彼の高級な香水の香りが鼻をつく。


かつては洗練されていると感じたその香りが、今は首を絞める鎖のように息苦しい。


「そして、君の家族の面目を保てる唯一の存在が、僕の家族なんだ」


彼は私の耳元に顔を寄せ、冷ややかな声で囁いた。


「ダーヴィアン・トレーディングだけが、その『無利子融資』を引き受ける用意がある」


視界がじわりと滲んだ。息が詰まりそうになる。


これまでの出来事が、パズルのピースがはまるように脳裏を駆け巡った。


あの重苦しい晩餐会、母の執拗なまでの催促、そして何も言わずに目を逸らしていた父。


すべてはこのためだったのだ。


私は愛されている娘などではなかった。


ただの、負債を相殺するための交換条件。


「君が本当に両親を想っているなら、こんな我儘は言わないはずだ」


レイの声は、今や諭すような優しさを装っていた。


それが余計に吐き気を催させる。


「これは僕たちの結婚だけの問題じゃない。ドウィジャヤ家の全員の未来がかかっているんだ」


「……そんな」


「お父様が債権者に追い詰められて、心臓発作で倒れる姿を見たいのかい?」


私は立ち尽くした。顔からは血の気が引き、幽霊のように青ざめていたに違いない。


反論しようと唇を動かしたが、声にならない空気が漏れるだけだった。


思考が麻痺し、胸を締め付ける絶望感で肺が潰れそうになる。


「恩知らずとは言われたくないだろう? これは君に与えられた報恩のチャンスなんだ」


レイは私の肩を軽く叩いた。


その感触に鳥肌が立ち、叫び出したい衝動に駆られる。


彼は満足げな笑みを残すと、黒いスポーツカーへと背を向けた。


バタンッ!


ドアが閉まる鈍い音が響く。


荒々しいエンジン音が静寂を切り裂き、車は埃を舞い上げながら去っていった。


私はただ、遠ざかるテールランプを木陰で見送ることしかできなかった。


握りしめていた拳の力が、ゆっくりと抜けていく。


ついさっきまで思い出していたライラの笑い声や、ディオの穏やかな微笑み。


それらが突然、別の世界の出来事のように遠く、現実味を失っていく。


コツ、コツ、コツ


校門の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。


サスキアが肩で息をしながら姿を現し、私の硬直した顔を見て目を見開く。


「エララ! 大丈夫? あのクズ、あんたに何をしたの!」


答えられなかった。唇が激しく震え、言葉にならない。


親友の顔を見た瞬間、張り詰めていた糸が音を立てて切れた。


私は崩れ落ちるようにサスキアの胸に飛び込み、その体に縋りついた。


「サスキア……」


喉の奥で押し殺していた嗚咽が、漏れ出す。


「家族が、怖い……みんな、私を……」


サスキアは何も聞かず、ただ私の背中を強く、一定のリズムでさすり続けた。


彼女の体が怒りで強張っているのが、肌を通して伝わってくる。


「彼らに売られたの……お金のために、私をレイに……」


「……落ち着いて。まずは息を吸って」


サスキアの声は低く、それでいて揺るぎない強さを持っていた。


彼女は周囲を警戒するように視線を走らせる。


まだ迎えを待っている生徒たちが、こちらを不思議そうに眺めていた。


「ここではダメ。変な噂になる。場所を変えよう」


私は彼女の肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。


サスキアは私の肩を抱き寄せ、支えるようにして教職員駐車場へと促す。


足取りは重く、まるで数トンの重りを引きずっているかのようだった。


照りつける西日は容赦なく体力を奪っていく。


自分の車の前に着いたとき、バッグから鍵を取り出そうとしたが、指先が冷や汗で滑った。


チャリンッ


鍵がアスファルトの上に虚しく落ちる。


サスキアが素早くそれを拾い上げ、私の目を見つめた。


「私が運転する。今のあんたにハンドルは握らせられない」


反論する気力もなかった。


助手席に座り込み、背もたれに深く体を預ける。


冷房が最大風量で吹き出し、車内の熱気を追い出していく。


サスキアは車を走らせ、学校の門を後にした。


車内には重苦しい沈黙が流れる。


私はダッシュボードをぼんやりと見つめ、溢れそうになる涙を必死に堪えていた。


怒り、悲しみ、失望、そして恐怖。


それらがドロドロに溶け合い、胸の奥で渦巻いている。


父の健康を盾に取られて、どうやって拒絶すればいいのか。


車はジャカルタ南部の渋滞を縫うように進んでいく。


どこへ向かっているのかも分からず、私はただ窓の外を流れる景色を眺めていた。


しばらくして、サスキアが沈黙を破った。


「エララ」


返事はできなかった。


「セノパティ通りに入ったわよ」


その地名を聞いて、私の意識がようやく現実に戻ってきた。


セノパティ?


サスキアは前方を見据えたまま、ハンドルの握りを強くする。


「ねえ……ディオさんのカフェ、どこにあるんだっけ?」


その名前が出た瞬間、心臓が跳ね上がった。


悲しみで麻痺していた感覚が、一気にパニックへと塗り替えられる。


慌てて窓の外を確認すると、見覚えのある街並みが広がっていた。


「ディオさんのところ? サスキア、何を考えてるの!」


「あんたには、安全な場所が必要なのよ」


サスキアはウィンカーを出し、カフェの看板を探し始めた。


私の動揺を無視して、彼女は迷いなくハンドルを切る。


「サスキア、待って! やめて!」


「今のあんたの家が、安全な場所だとは到底思えない」


タイヤが砂利を踏む音が聞こえ、車は温かみのある木造の建物の前に停まった。


カフェ・アークス。


「ここね。降りるわよ」


「無理よ! こんな顔で彼に会えるわけないじゃない!」


私はミラーに映る自分の顔を指差した。


マスカラは滲み、目は腫れ上がり、鼻の頭は赤くなっている。


あまりにも惨めで、見るに堪えない姿。


サスキアはエンジンを切り、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「そんな顔だからこそ、美味しいコーヒーを飲んで、心安らげる場所で、息をつかなきゃいけないの」


「でも……」


「降りなさい、エララ。じゃないと引きずり出すわよ」


彼女が本気であることを悟り、私は渋々ドアを開けた。


セノパティの空気が肌を撫でる。


昨日、あんなに晴れやかな気持ちで後にしたこの場所に、今は魂が抜けたような姿で戻ってきてしまった。


サスキアは私の手を引き、ガラスの扉へと向かう。


カランカラン!


あの心地よい鈴の音が店内に響く。


私は俯き、髪で顔を隠すようにして歩いた。


どうか、誰にも気づかれませんように。


「いらっしゃいませ! ご注文を……」


カウンターからの明るい挨拶が、不自然に途切れた。


店内の空気が一瞬で凍りつく。


周囲の視線が突き刺さるのを感じ、私はさらに身を縮めた。


「エララ先生?」


階段の方から、聞き慣れたバリトンボイスが届いた。


全身の血が逆流するような感覚。


ゆっくりと顔を上げると、そこには空のトレイを持ったディオが立っていた。


彼は階段の途中で足を止め、私を見つめ、それから隣にいるサスキアに視線を移した。


そして再び私の、涙でボロボロになった顔に目を戻す。


彼の顔から穏やかさが消え、鋭い懸念の色が走った。


ディオはトレイを近くのテーブルに置くと、大股でこちらへ歩み寄ってきた。


「どうしたんだ」


その声は低く、地響きのように私の胸に届く。


サスキアが一歩前に出て、盾になるように答えた。


「ディオさん、突然すみません。彼女を少し休ませてあげたいんです。プライベートな場所を貸していただけませんか?」


ディオはそれ以上何も聞かなかった。


私の赤くなった目、震える指先、そして崩れ落ちそうな肩を見て、すべてを察したようだった。


「上へ。あのドアから入れ」


彼は短く告げると、カウンターにいるディマスに目配せをして店を任せた。


そして、昨日私が笑いながら通り抜けたあの扉へと導いていく。


私は羞恥心と安堵、そして得体の知れない不安を抱えながら、彼の背中を追った。


扉の前で、ディオが足を止めて私を振り返る。


彼の手がドアノブにかかり、扉が開かれた。


通り過ぎる際、彼の唇がかすかに動くのが見えた。


「……ここでは、君を誰も傷つけない」


その一言が、堰を切ったように、涙が溢れ出した。


堪えていた涙が、一滴、また一滴と、彼のカフェの木の床にこぼれ落ちた。

Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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