第11章 崩れる均衡
黒板を叩くチョークの音が、1年A組の教室に一定のリズムで響き渡る。
コツ、コツ、コツ
換気口から差し込む朝の光の中で、白い粉塵が静かに舞っている。
古い木造の机と、安っぽい床用洗剤が混ざり合った匂い。
実家の広間に漂う高価な白檀の香水よりも、今の私にはこの場所の方がずっと心が落ち着いた。
私は教壇に立ち、熱を込めて算数の足し算を教える。
ここ、学校は私の砦だ。
ここでは、私は子供たちに慕われるエラ先生。
昨夜、母親の前で自室のドアを叩きつけるように閉めた、反抗的な娘、エララではない。
「さあ、三番の問題を前に出て解いてくれる人は?」
私が声を張ると、何十もの小さな手が勢いよく挙がった。
「はい! 先生!」
「僕がやりたい!」
私は自然と笑みを浮かべた。
父の仕事仲間たちの前で無理やり作らされる仮面ではない、本物の笑顔だ。
視線を教室の隅々まで走らせ、中段の席に座る小さな影で足を止めた。
ライラ。
その子は手を挙げず、ただ一心不乱にノートに向かっていた。
小さな指で鉛筆を握りしめ、眉間にしわを寄せて集中している。
その表情は、コーヒーを淹れる時の父親の横顔に驚くほど似ていた。
昨日の昼間の記憶が、不意に脳裏をよぎる。
焼き魚の香ばしい匂い、ディオの穏やかな笑い声。
そして、スマートフォンの画面越しに三人の頬が触れ合った、あの気まずくて温かな瞬間。
胸の奥に灯った小さな火が、昨夜レイと衝突した時の怒りの残滓を少しずつ溶かしていく。
無意識に、私は深い溜息を吐き出した。
奇妙な郷愁のようなものが、胸の隙間に忍び込んでくる。
「はあ……またあのカフェに逃げ込みたいな」
心の声が漏れそうになり、私は慌てて首を振った。
しっかりして、エララ。
今は授業中であって、恋愛ドラマのヒロインじゃあるまいし。
「よし、ライラちゃん。前に出てやってみてくれるかな?」
ライラが顔を上げると、その薄灰色の瞳が驚きで輝いた。
彼女は力強く頷き、真っ直ぐな足取りで黒板へと歩いてくる。
迷いのない手つきで問題を解き終えたその数字は、とても丁寧で論理的だった。
「正解! ライラちゃん、花丸百点です!」
私は彼女の手の甲に、キラキラ光る星のステッカーを貼ってあげた。
「ありがとうございます、先生!」
時間は残酷なほど速く過ぎていく。
キーン、コーン、カーン、コーン
下校を告げるチャイムの音が、私の束の間の平穏が終わる合図となった。
もうすぐ、私はエララ・ドウィジャヤという役割に戻らなければならない。
生徒たちが一人、また一人と挨拶をして、迎えに来た親たちの腕の中へ飛び込んでいく。
教室は静まり返った。
残っているのは、ウサギの絵がついたピンクのリュックを抱えたライラだけだ。
彼女は椅子に座り、足をぶらぶらさせながら楽しそうに私を待っている。
「さあ、行こうか。お父さんを玄関で待とう」
私は出席簿を片付け、彼女の手を引いた。
ジャカルタの午後の日差しは肌を刺すように熱いが、校門近くの大きなアンサナの木が作る木陰と、そこを吹き抜ける微風が少しだけ救いだった。
「パパだ!」
ライラが駐車場を指差して叫んだ。
その指の先を追うと、一人の男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
今日のディオは、黒のポロシャツにクリーム色のチノパンという至ってシンプルな装いだった。
派手さはないが、彼の持つ静かなオーラは、私の頭の中の混乱を一瞬で解きほぐしてくれるような不思議な力がある。
距離が縮まり、視線が重なった。
ディオは微笑んだ。
控えめで礼儀正しいが、その瞳には友人や同僚に向けるものとは違う、確かな温かみが宿っている。
母の取り巻きたちが向けてくる、品定めするような冷たい視線とは正反対のものだ。
「こんにちは、エラ先生」
そのバリトンボイスが、私の鼓膜を心地よく震わせる。
「こんにちは、ディオさん」
ライラは私の手を離し、父親の足にしがみついた。
「パパ! 今日も先生からお星様もらったよ!」
ディオは低く笑い、娘の頭を優しく撫でた。
「それはすごいな。じゃあ、今夜はアニメをあと三十分長く見てもいいぞ」
「やったー!」
ディオは再び私に向き直った。
片手をポケットに入れ、リラックスした姿勢で立つ。
「今日もライラを見てくださってありがとうございます。それと……昨日、立ち寄ってくれたことも」
私は慌てて首を振った。
「いえ、そんな。お礼を言うのは私の方です。お昼ご飯、とても美味しかったですし……その、ライラちゃんの部屋を見せてもらえて嬉しかったです」
最後の言葉は、自分でも驚くほど自然に口をついて出た。
ディオが少しだけ決まり悪そうに眉を動かした。
「ああ、あの部屋……ライラは、お客さんが来ると自慢したくなるみたいで」
沈黙が流れた。
それは空虚な沈黙ではなく、互いに言い出せない言葉が詰まったような、濃密な時間だった。
「では、失礼します。エラ先生、気をつけてお帰りください」
「はい、ディオさんも。道中お気をつけて」
「先生、バイバーイ!」
ライラが大きく手を振る。
私はその姿が見えなくなるまで、顔に笑みを張り付かせたまま見送った。
白いコンパクトカーが校門を出て、雑踏の中へ消えていく。
ゆっくりと、振っていた手を下ろす。
唇から笑みが消え、急激な孤独感が私を襲った。
素晴らしい映画を観終えて映画館を出た途端、渋滞と騒音の現実に引き戻されたような、そんな感覚。
バシッ
右肩に、かなり強い衝撃が走った。
「うわっ!」
驚いて振り向くと、そこにはサスキアが立っていた。
口角をニヤリと上げ、不敵な笑みを浮かべている。
その目は、獲物を見つけた猛獣のように爛々と輝いていた。
「なーに、車のタイヤの跡まで見つめちゃって。穴が開くほど見つめてるわよ」
私は溜息をつき、肩をすくめた。
「驚かさないでよ、サスキア。心臓に悪いわ」
サスキアは私の前に回り込み、腕を組んだ。
尋問モード全開だ。
「正直に言いなさい。昨日送ってきたあの幸せ家族写真、相当効いてるわね? 今朝からずっとニヤニヤしちゃって、気味が悪いわよ」
顔が熱くなるのを感じた。
サスキアを欺くのは、世界で一番難しい仕事かもしれない。
「ただの冗談よ。ライラちゃんが撮りたいって言ったから……」
「はいはい、ライラちゃんがね。でも、パパの頬にピタッとくっついてたのは、あなたの意志なんじゃないの?」
彼女は私の腕を肘で小突いた。
「認めなさいよ。あの秘密基地みたいな部屋、居心地良かったんでしょ?」
私は観念して、小さく頷いた。
「……ええ。すごく落ち着く場所だったわ。豪華じゃないけど、温かくて。私の家とは、正反対の場所」
サスキアの目がさらに輝きを増した。
「ほら見なさい! 場所は一等地のセノパティ、顔はイケメン、大人の余裕があるバツイチ、おまけに子供は天使。完璧じゃない、エララ! あなたがその気にならないなら、私が立候補するわよ!」
私は笑い出し、彼女の肩を軽く押し返した。
「勝手なこと言わないでよ」
二人の笑い声が、埃っぽい午後の空気に溶けていく。
しかし、サスキアの笑いが唐突に止まった。
彼女の視線が、私の背後の一点に釘付けになる。
楽しげだった表情は、瞬時に警戒の色へと塗り替えられた。
「エラ……」
彼女の声が、一段低くなる。
「振り向かないで。真正面に、招かれざる客がいるわ」
嫌な予感が、冷たい蛇のように背筋を這い上がった。
サスキアの警告を無視して、私はゆっくりと振り返る。
道路を挟んだ向かい側。
ペンキの剥げかけた校門のすぐ脇に、不釣り合いなほど光り輝く黒のスポーツカーが横付けされていた。
その傍らに、仕立ての良いシャツを完璧に着こなし、サングラスを襟元にかけた男が寄りかかっている。
レイ・ダルヴィアン。
カッと頭に血が上った。
拳が自然と握りしめられる。
「何しに来たの……」
サスキアが私の背中をそっと叩き、小声で囁いた。
「私は職員室に戻るわね。何かあったら叫びなさいよ。守衛さんを呼ぶか、私のハイヒールをあいつの顔面に投げつけてあげるから」
「ありがとう、サスキア」
彼女が去り、私は一人、嵐のような男と対峙することになった。
レイは私に気づくと、わざとらしいほど優雅な仕草で体を起こし、こちらへ歩いてきた。
その唇には、この土地を丸ごと買い取ったかのような傲慢な笑みが浮かんでいる。
高級な革靴がアスファルトを叩く音が、この静かな学校にはあまりにも異質だった。
「レイ。昨夜の私のメッセージ、読んでなかったの?」
レイは私の二歩手前で足を止めた。
鼻を突くような強い香水の匂いが、ディオが残していった穏やかな余韻を暴力的にかき消していく。
彼はサングラスを外し、嫌悪感を隠そうともせずに校舎を見渡した。
ひび割れた植木鉢や、色あせた壁が汚物であるかのような目つきだ。
「少し気になってね」
彼は事も無げに言った。
「僕の婚約者がどんな場所で働いているのか見に来たんだが……想像以上に薄汚い場所だ」
奥歯を噛み締める。
「言葉に気をつけなさい。ここは私の職場よ」
「時間を無駄にしている場所、の間違いだろう?」
レイは私の言葉を鼻で笑い、頭のてっぺんから爪先までを値踏みするように眺めた。
「エララ。君は宝石だ。こんな埃っぽい場所に収まる器じゃない」
「帰りなさい、レイ。私は忙しいの」
背を向けて、その場を離れようとした。
しかし、次に彼が放った言葉が、その場に釘付けにした。
「君の母親が、結納の日取りに同意したよ」
世界が止まった。
通りを走る車の喧騒が消え、耳の奥で長い耳鳴りだけが響く。
私はゆっくりと、絶望に満ちた様子で彼を振り返った。
「……なんですって?」
レイは勝利を確信した笑みを深くした。
彼は一歩踏み出し、私のパーソナルスペースを容赦なく侵食してくる。
「昨夜、君が喚き散らして逃げ出した後、ご両親とじっくり話し合ったんだ。結果は円満。来月、正式に婚約式を行う」
「嘘よ……」
声が震える。
「私は断ったはずよ! 絶対に嫌だって!」
レイはくすくすと笑った。
そして私の耳元に顔を寄せ、血の凍るような事実を囁いた。
「君に選択権があると思っているのかい? ドウィジャヤ・トレーディングには、今週中に多額の資金注入が必要なんだ。さもなければ、君の父親は破産し、すべてを失うことになる」
目を見開いた。
破産? あの父が?
レイは一歩下がり、私の顔に浮かんだ絶望を愉悦に満ちた目で見つめた。
「だから、もう教師の真似事はやめろ。あの貧乏くさいカフェの店主とつるむのも終わりだ。今日から、君は僕のものだ」
彼は片目を細めてウィンクすると、悠然とした足取りで愛車へと戻っていった。
私はアンサナの木の下で、ただ立ち尽くしていた。
膝の力が抜け、呼吸の仕方を忘れたかのように胸が苦しい。
ディオとの出会いで得た、あの小さな幸福感。
それは今、熱いアスファルトの上で無残に砕け散った。
嵐はこれから来るのではない。
私はすでに、その中心に引きずり込まれていたのだ。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.
Your feedback is a great encouragement for my writing.




