第10章 見えない鎖
枕元のデジタル時計が、無機質な数字で15時15分を告げている。
私はベッドの端に腰を下ろしたまま、ライラの穏やかな寝顔をじっと見つめていた。
規則正しい呼吸に合わせて、ウサギ柄の毛布の下で小さな胸がゆっくりと上下している。
腕の中には、お気に入りのクマのぬいぐるみ「ボボ」が大切そうに抱きしめられていた。
静寂に包まれた部屋に、かすかな音が響く。
ギイッ……
顔を上げると、ドアの隙間にディオさんが立っていた。
まだ私がここにいるとは思わなかったのか、彼の表情に一瞬だけ驚きの色がよぎる。
彼は音を立てないよう、細心の注意を払って部屋に入ってきた。
フローリングを踏みしめる足取りは驚くほど軽く、まるで獲物を追う猛獣のような静かさだ。
「……いつから眠っているんだ?」
彼は耳元で囁くような、消え入りそうな声で尋ねた。
「五分ほど前です。ライラちゃん、電池が切れたみたいに眠っちゃいましたよ」
ディオさんは口角をわずかに上げ、優しい笑みを浮かべた。
彼はベッドの反対側に膝をつき、愛娘を誇らしげに、そして慈しむような目で見つめた。
大きな手がライラの肩にかかった毛布を整え、胸元まで丁寧に引き上げる。
その仕草の一つひとつに、彼がどれほどこの子を大切にしているかが滲み出ていた。
「ありがとうございます、エラ先生」
彼が視線を私に移し、静かに言葉を紡ぐ。
「ライラがこんなに早く昼寝をするのは珍しい。いつもなら、ここから大騒ぎが始まるはずなんだが」
「いえ、私も楽しかったですから。ライラちゃん、本当に素直な良い子ですね」
沈黙が訪れる。
部屋を満たしているのは、エアコンの微かな駆動音だけだった。
部屋の隅に置かれたディフューザーから、ラベンダーの香りが微かに漂ってくる。
このプライベートな空間に身を置いていると、まるで自分のものではない「幸せの泡」の中に迷い込んだような錯覚に陥る。
ふと腕時計に目をやり、現実に引き戻された。
「……そろそろ失礼します。もう夕方ですから」
ベッドを揺らさないよう、ゆっくりと立ち上がる。
ディオさんも同時に立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
無理に引き止めるような野暮な真似はしない。彼は常に、常に一線を画している。
「表まで送りましょう」
私たちは足音を殺して部屋を出た。
ディオさんはライラの部屋のドアを、カチリと小さな音がするまで慎重に閉めた。
階段を下り、一階へと向かう。
プライベートエリアとカフェを仕切る重厚な扉を開けた瞬間、喧騒が津波のように押し寄せてきた。
スピーカーから流れるアコースティックギターの音色、エスプレッソマシンの蒸気音。
そして、客たちの談笑が混ざり合い、独特の活気を作り出している。
「おっ! ようやくお出ましだ!」
バーカウンターの奥で、バリスタのディマスがシェイカーを振りながら声を張り上げた。
先ほどまで私たちを冷やかしていた常連客たちが、一斉にこちらを振り返る。
革ジャンを着た男は、わざわざ椅子を回転させてニヤニヤと笑っていた。
「どうなんだ、ディオさん? 記念日はいつにするんだよ?」
口笛が鳴り響き、別の客がそれに続く。
「先生が『司令部』から降りてきたぞ。こりゃあ、いよいよ青信号だな!」
ディオさんの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
彼は眉間を押さえ、諦めたような溜息をついた。
「うるさいぞ、お前ら。解散だ、解散」
彼はぶっきらぼうに吐き捨てたが、その声に怒りの色はなかった。
私の頬も熱くなっていたが、不思議と嫌な気分ではなかった。
この場所には、私の家にある凍り付くような沈黙とは正反対の、温かな空気がある。
私は軽く手を挙げ、彼らに別れの挨拶をした。
「皆さん、お先に失礼しますね」
「気をつけてな、美人先生!」
野太い声が合唱のように響く。
ディオさんは呆れたように首を振ったが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
彼は私の隣を歩き、ガラス扉を開けて駐車場までエスコートしてくれた。
埃っぽいジャカルタの夕方の空気が、肌を撫でる。
自分の車の横で足を止めると、ディオさんはポケットに両手を突っ込み、少しぎこちなく、しかし紳士的に佇んでいた。
「……改めて、今日はありがとうございました。あいつらの失礼な物言いは許してほしい」
私は車のキーを指先で回しながら、小さく笑った。
「ディオさん、気づいていますか? この一時間で四回も『ありがとう』って言いましたよ」
彼は目を丸くした。
少し考え込むような仕草を見せた後、うなじを掻きながら愉快そうに笑った。
「ああ、そうか。無意識だったよ」
私は微笑みを返し、運転席に乗り込んだ。
ディオさんはすぐに立ち去ろうとはしなかった。
私がエンジンをかけ、シートベルトを締めるのを、まるで見守るようにそこに立っていた。
その気遣いは、計算されたものではなく、彼の本質から溢れ出ているように感じられた。
「道中、お気をつけて」
「さようなら、ディオさん」
車をゆっくりと発進させ、カフェの敷地を出る。
バックミラー越しに、彼の姿が遠ざかり、角を曲がるまでそこにあるのを確認した。
セノパティ通りを走る間、私の口元からは笑みが消えなかった。
体が軽い。
肩の荷が下りたような、晴れやかな気分だった。
「今日は……本当に楽しかったな」
ダッシュボードに向かって、独り言が漏れる。
しかし、その幸福感には残酷なほど短い賞味期限が設定されていた。
***
三十分後。
ブラウィジャヤ通りの自宅の門をくぐった瞬間。
私の表情は、瞬時に凍りついた。
ガレージの前に横付けされた、黒光りするスポーツセダン。
その傲慢な輝きを放つナンバープレートを、私は嫌というほど知っている。
レイの車だ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
周囲の空気が薄くなったかのように、呼吸が苦しくなった。
カフェで感じていた多幸感は霧散し、代わりに吐き気が込み上げてくる。
「……また来たの」
ハンドルを握る手に力がこもる。
大きく息を吸い込み、覚悟を決めて車を下りた。
バタンッ!
必要以上の力でドアを閉め、玄関へと向かう。
扉を開けると、キンキンに冷えたセントラル空調の冷気が肌を刺した。
高級なサンダルウッドの芳香剤が漂っているが、私にはそれが監獄の臭いにしか思えない。
リビングに足を踏み入れた瞬間、私はその場に釘付けになった。
レイが輸入物の革ソファに深く腰掛け、傲慢な態度で足を組んでいる。
目の前のテーブルでは、まだ湯気の立つ紅茶が置かれていた。
その向かいには、母が座っていた。
顔を強張らせ、唇を真一文字に結んでいる。
私に気づくと、母は弾かれたように立ち上がった。
その視線は鋭いナイフのように、私の頭の先からつま先までを冷酷に値踏みする。
「どこへ行っていたの」
低く、威圧的な声だった。
「友達のところよ。お母さん」
私は平然を装って答え、衝突を避けるように階段へ向かおうとした。
「友達って、誰のこと?」
足が止まる。
母が素早い動きで私の行く手を阻み、上腕を強く掴んだ。
爪が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走る。
「私の友達を全員把握してるわけじゃないでしょ? いちいち報告する必要があるの?」
「セノパティよ。カフェ・アークス。あなたの車、午後一時からずっとあそこに停まっていたわね」
ドクンッ
心臓が跳ねた。
あまりにも具体的すぎる情報だ。
私は視線をレイに向けた。
彼は平然とした顔で紅茶を啜り、何事もなかったかのようにカップをソーサーに戻した。
「たまたま通りかかったんだよ、エラ」
レイが余裕たっぷりに微笑む。その笑みが、私の背筋を凍らせた。
「君の車を見つけたから、挨拶でもしようと思って寄ったんだ。でも、一階には君の姿がなかった。どこに隠れていたのかな?」
奥歯を噛み締める。
あいつ、店の中に入ったのか?
私を探し回って、居場所を確認したというのか。
「レイ。いつからあなたは私の私設警備員になったの?」
レイは肩をすくめ、わざとらしいほど無実そうな顔をした。
「心配しただけだよ。車が故障したのか、それとも君の身に何かあったのかと思ってね。親切心だよ」
「それを世間では『ストーカー』って呼ぶのよ」
「口を慎みなさい、エララ!」
母が私の腕を激しく揺さぶり、無理やり自分の方を向かせた。
怒りで目を見開いている。
「レイさんはあなたを気遣ってくれているのよ! 連絡がつかないからって、わざわざ私に報告までしてくれたの! それなのに、あなたはふらふらと遊び歩いて!」
「遊び歩いてなんていないわ! ランチを食べていただけよ!」
「誰と!? 男とでしょう!?」
母の目を見つめ返す。
その瞳の中に、娘を思う光はない。
あるのは、価値が暴落しかけている「不良資産」を叱責する、冷徹な投資家の視線だけだ。
一日中抑え込んでいた嫌悪感が、ついに限界を超えた。
私は母の手を、力任せに振り払った。
パシッ!
乾いた音が、静まり返ったリビングに響き渡る。
母は驚愕に目を見開き、言葉を失った。
ソファのレイも、わずかに身を乗り出してこちらを凝視している。
「……もうやめて、お母さん」
掠れた声で、激しい呼吸を整えながら告げる。
「私は五歳の子供じゃない。一分一秒監視される必要なんてないし、囚人みたいに扱われる筋合いもないわ」
私は震える指先で、レイを指差した。
「そして、あなた。私の人生に口を出す権利があるなんて思わないで。私たち、何の関係もないんだから!」
「エララ! なんて無礼なことを!」
母が逆上し、私を平手打ちしようと手を振り上げた。
「お義母さん、そこまでにしましょう」
レイが素早く立ち上がり、母の腕を制した。
いかにも正義の味方といった風な、鼻につく演技だ。
「エラは疲れているんですよ。少し休ませてあげましょう」
その慈悲深いような言い方が、さらに私を吐き気に誘う。
私は二人を交互に睨みつけた。
見栄に狂った母親と、支配欲の塊である男。地獄のような組み合わせだ。
何も言わず、私は背を向けた。
階段を駆け上がる背後で、母が私の名前を叫ぶ声が聞こえたが、一度も振り返らなかった。
バタンッ!
カチッ
部屋のドアを思い切り閉め、即座に鍵をかけた。
そのままドアにもたれかかり、ずるずると床に座り込む。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響いている。
目頭が熱くなったが、決して涙は流さないと決めていた。
あんな奴らのために流す涙など、一滴も持ち合わせていない。
隣に放り出した仕事用のバッグを漁り、乱暴にスマートフォンを取り出す。
画面が点灯する。
待ち受け画面は味気ない初期設定のままだが、私の脳裏には先ほどカフェで見た光景が焼き付いていた。
ディオさんとライラと笑い合っていた、あの瞬間の空気が。
現実とのコントラストが、あまりにも痛々しい。
私はメッセージアプリを開き、「レイ・ダルヴィアン」の名前を探し出した。
指先が怒りに任せてキーボードを叩く。
胸の中に淀んでいる残滓を、すべて吐き出すように。
【宛先:レイ・ダルヴィアン】
昨夜のたわ言はすべて忘れて。二度と私を付け回さないで。
あなたと付き合う気なんて微塵もないし、妻になるなんて死んでも御免よ。
二度と連絡してこないで。
【送信】
スマートフォンをベッドの真ん中に放り投げた。
全身から力が抜け、膝を抱えて窓の外を見つめる。
夕闇が迫る街の中で、私はまた、どうしようもない孤独に飲み込まれていった。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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