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第1章 黄金の檻

はじめまして。インドネシアで執筆活動をしております、ノックスヴェイン(NoxVane)と申します。

この度、新作『珈琲と嘘、そして生徒のパパ』を投稿させていただきました。

本作はインドネシアを舞台に、現地の文化や空気感を取り入れた恋愛物語です。

拙い文章ではございますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。


よろしくお願いいたします。


挿絵(By みてみん)


 壁のデジタル時計が午前六時十五分を示している。


 私は重い足取りで食堂へと向かった。


 朝の光が薄いカーテンを通り抜け、三人で囲むには広すぎるガラステーブルに反射している。


 トーストの香ばしい匂いとジャスミン茶の香りが空気に混じっている。


 本来なら心地よいはずの香りは、この家の冷え切った空気に負けてしまっていた。


 これから始まる不愉快な会話を、この静寂がすでに予感させているかのようだ。


 父はテーブルの端に座っていた。


 新聞を広げているが、その目は文字を追っていない。


 人差し指がリズムを刻むように、テーブルの角を叩いている。


 トン、トン、トン


 その音を聞くだけで、私の食欲は半分以上失せた。


 母は右側に座り、片手でスマホの画面をスクロールしている。


 もう片方の手は、すでに完璧に整えられた夜会巻きを何度も触っていた。


 私は二人の向かい側に座り、仕事鞄を足元に置いた。


 音を立てないよう、パンにジャムを塗り始める。


 気配を消して、透明人間になれることを願いながらパンを口に運ぶ。


 しかし、父が新聞を少しだけ下げた。


 最悪だ。穏やかな朝はここで終わった。


「エララ。教師なんていつまで続けるつもりだ? もう三年だろう」


 パンを噛む動きが止まった。


 飲み込もうとしたパンが喉につかえる。


 まだ七時にもなっていないというのに。


 私はパンを皿に戻した。


 深く息を吸い込み、爆発しそうな感情を無理やり抑え込む。


「お父様、この話はもう何度目ですか? 私の答えは変わりません。私は教師を続けます」


 父は乱暴に新聞を畳み、テーブルに置いた。


 その顔には疲労と、傷ついたプライドが混ざり合っている。


「もう一度考え直せ。給料の額があまりにも違いすぎる。いい加減に――」


「すみません、失礼します。遅刻したくないので」


 私は立ち上がった。


 大理石の床の上で、椅子が鈍い音を立てて軋む。


 これ以上、言葉の続きを聞きたくなかった。


 どうせ最後には、友人たちの優秀な子供と比較されるのが目に見えている。


 手近にあった冷めたお茶を一口で飲み干し、カップを少し強めに置いた。


「エララ! なんて態度なの! お父様がまだ話しているでしょう!」


 母の鋭い声が響く。


 耳を突き刺すような、いつものヒステリックなトーンだ。


 私はドアのところで足を止めたが、振り返りはしなかった。


 肩が強張り、激しく打つ鼓動を鎮めるために短い呼吸を繰り返す。


 背後では母の小言が続いている。


 教育への投資が無駄だったとか、社交界の友人たちに合わせる顔がないとか。


 擦り切れた古いレコードのように、同じ文句の繰り返しだ。


 私は逃げるように庭へ出た。


 外の空気は家の中よりもずっと軽く感じられた。


 あの家の中の酸素は、両親のエゴによってすべて吸い尽くされているのではないかと思うほどに。


 車のドアを開ける手が、わずかに震えていた。


 バタン!


 ドアを閉めた瞬間、静寂が私を包み込んだ。


 ハンドルに額を押し当て、そっと目を閉じる。


 いつになったら、彼らは私の幸せを認めてくれるのだろうか。


 答えのない問いが頭の中に浮かぶ。


 私はイグニッションキーを回し、ギアを入れた。


 黄金の檻のようなブラウィジャヤ邸から、逃げ出すように車を走らせた。


 三十分後。


 学校の駐車場に車を滑り込ませると、沈んでいた気分が少しずつ晴れていった。


 胸を締め付けていた圧迫感が、朝の活気によって剥がれ落ちていく。


 校庭では子供たちが走り回り、整えられた制服をすでに乱している。


 自分の体よりも大きなランドセルを背負い、一生懸命に歩く姿。


 校門沿いに立つ親たちが、誇らしげに手を振っている。


 さっきの我が家の食卓とは、あまりにも対照的な光景だった。


「エララ先生、おはようございます!」


 挨拶をしてくれる生徒たちに、私は精一杯の笑顔を返した。


 ここは私の居場所だ。


 銀行の残高ではなく、私という人間が、私の知識が評価される場所。


 職員室のドアを開けると、独特の匂いが鼻をくすぐった。


 紙とインク、そして安っぽいインスタントコーヒーの香り。


 母の高級な香水よりも、ずっと心が落ち着く。


 本棚の影からサスキアが顔を出した。


 プリントの束を抱えた彼女の顔は、悩みなど一つもないかのように明るい。


「おはよ、エララ」


「おはよう、キア」


 私たちはそれぞれのデスクに向かって歩き出す。


 サスキアは一組、私は二組の担任だ。


 同い年の彼女は、職場における私の唯一、本音を吐き出せる相手だった。

「顔、ボロボロじゃん。また朝から苦虫を噛み潰したような顔をしてどうしたの?」


 サスキアが本を整理しながら、小声で聞いてくる。


「いつものルーチンよ。朝のお決まり」


 短く答えて、私は授業の準備を始めた。


 マジックと黒板消しを手に取り、教室へ向かおうとしたその時だ。


 廊下から一人の男子生徒が走ってきた。


 肩で息をして、ネクタイが横に曲がっている。


「先生! エララ先生!」


「どうしたの? 落ち着いて」


 私は膝をつき、彼の目線に合わせた。


「ライラちゃんが、ガファくんを叩いたんだ!」


 私とサスキアは顔を見合わせた。


 眉が大きく跳ね上がる。


 あの大人しくて優しいライラが?


「二人はどこ?」


「教室の前!」


 指示を待たず、私たちは足早に廊下を進んだ。


 普段の笑い声とは違う、ざわざわとした不穏な空気が漂っている。


 泣き声と、子供たちの小さな人だかりが見えた。


 一組の教室の前で、私はその光景を目にした。


 ライラが硬直したまま立っていた。


 小さな体は強張り、顔は真っ赤に染まっている。


 両手は体の横で固く握りしめられていた。


 その目の前で、ガファが腕を押さえながら声を上げて泣いている。


 クラスメイトたちがライラをなだめようとしているが、彼女は石像のように動かない。


 私はすぐにガファの元へ駆け寄り、彼の前にしゃがみ込んだ。


 サスキアは手際よくライラの側へ回り、彼女が再び飛びかからないよう優しく肩を抱いた。


「ライラちゃん……どうしてガファくんを叩いたの?」


 汗で濡れたガファの髪を撫でながら、努めて穏やかに問いかける。


 ライラは黙秘を貫いた。


 唇が激しく震えている。


 珍しい薄灰色の瞳に涙が溜まり始めていたが、彼女はそれを必死に堪えていた。


 その頑なな姿が、余計に痛々しい。


 サスキアがライラの背中をさすった。


「大丈夫だよ。先生は怒ってない。ただ、何があったのか知りたいだけ」


 それでもライラは口を開かない。


 すると、クラスで一番活発なギタが半歩前に出た。


 小さな指をガファに向ける。


「ガファくんがライラちゃんをからかったんです。お母さんがいなくて可哀想だって」


 ドクン!


 廊下の喧騒が、一瞬で消えた。


 数人の生徒たちが肯定するように頷く。


 怒られるのを恐れて、自分の鞄をぎゅっと抱きしめる子もいた。


 私は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐き出した。


 子供という生き物は、時に世界で最も残酷なほど正直だ。


 私はガファを見つめた。


「ガファくん。どうしてそんなことを言ったの?」


 ガファは鼻をすすりながら答えた。


「うう……ただの冗談だったんだもん……」


 私とサスキアは視線を交わした。


 私たちの目は同じことを語っていた。


 これは単なる悪ふざけではない。心の傷だ。


「わかったわ」


 私は静かに、しかし毅然とした声で言った。


「ガファくん、ライラちゃんに謝りなさい。冗談っていうのは、二人とも笑える時に言うものよ。誰かが悲しんでいたら、それは冗談じゃないわ」


 それからライラに向き直った。


「ライラちゃんも、叩いたことは謝ろうね。お友達を傷つけるのはいけないことだから。いい?」


 二人の子供は、小さく頷いた。


 ガファが震える手を差し出した。


「ごめんね、ライラちゃん……」


 ライラは自分の黒い靴を見つめていたが、やがてガファの手を握り返した。


「……私もごめんね、ガファくん」


 サスキアが立ち上がり、私の肩を軽く叩いた。


「私は自分の檻に戻るわ」


 彼女は囁くようにそう言い残し、自分の教室へと戻っていった。


 私は苦笑いしつつ、ライラとガファの肩に手を添え、教室へと導いた。


 午後十二時三十分。


 教室はすでに静まり返っている。


 給食の匂いとチョークの粉が空中に漂っていた。


 椅子はすべて整頓し終えている。


 教室の前方には、ライラとガファだけが座り、それぞれの鞄を抱えていた。


 五分後、ガファの母親が駆け込んできた。


 心配そうな顔をし、汗でファンデーションが少し浮いている。


 私は慎重に経緯を説明した。


 どちらかを責めるのではなく、事実を丁寧に伝えた。


「本当に申し訳ありません、先生。まさかこの子がそんなことを言うなんて」


 その母親は心底申し訳なさそうに、何度も頭を下げた。


「いえ、大丈夫ですよ。本人も何がいけなかったのか、ちゃんと理解してくれましたから」


 母親はガファに向き直り、もう一度謝るように促した。


 小さな親子が帰っていくと、教室には本当の静寂が訪れた。


 残ったのはライラだけだ。


 少女は自分の席に座り、床に届かない小さな足をぶらぶらさせていた。


 私は教師用のデスクから彼女を観察した。


 透き通るような白い肌、珍しい薄灰色の瞳、そして柔らかそうな焦げ茶色の髪。


 吸い込まれるほど綺麗な子だ。


 明らかに外国の血が混ざっている。


 父親が外国人なのだろうか。それとも母親か。


 私はまだ、彼女の父親に会ったことがない。


 いつもはお抱えの運転手やベビーシッターが送り迎えをしていたからだ。


 暴力沙汰があった今日、初めて父親に直接来るよう連絡を入れた。


 ギイッ


 教室のドアが開いた。


 サスキアが教材を抱えて入ってくる。


 顔には疲れの色が見えるが、その目は好奇心で輝いていた。


 彼女は真っ直ぐライラの元へ行き、頭を優しく撫でた。


 ライラはパッと明るい笑顔を見せる。


 今朝の事件など、まるでなかったかのような無邪気さだ。


 サスキアが私のデスクに本を置いた。


「お父さん、まだ来ないの?」


「今向かってるって。もうすぐ着くはず」


 私は出席簿を片付けながら答えた。


「失礼します。ライラの父です」


 その声は低く、重厚だった。


 それでいて、驚くほど丁寧な響きを持っていた。


 私とサスキアは同時にドアの方を振り返った。


 ドクン。


 そこに立っていたのは、一人の男だった。


 背が高く、腕まくりをしたスリムフィットの長袖シャツ。


 仕立ての良いスラックスを履きこなし、その顔立ちは――。


 待って。アジア人だ。


 勝手に想像していた外国人ではなかった。


 しかし、彫りの深い端正な顔立ち、真っ直ぐな鼻筋、そして温かみのある眼差し。


 私の脳は、三秒ほどフリーズした。胸がどきどきして、言葉も出なかった。


「パパ!」


 ライラが椅子から飛び降り、全速力で駆け寄る。


 男は慣れた手つきで膝をつき、娘の小さな体をしっかりと受け止めた。


 その動きはしなやかで、慈しみに満ちている。


 これまで何度も繰り返してきたであろう、深い愛情の証だった。


 私とサスキアは顔を見合わせた。


 私たちは驚いて目を見開いた。


 サスキアが私の肩を小突き、耳元で囁いた。


「あれが父親?」


 信じられないといった様子で、彼女の声が震える。


「嘘でしょ。かっこよすぎじゃない?」



第 1 章をお読みいただき、本当にありがとうございます。

息苦しい日常と、運命の出会い。エララの物語の始まりを、皆さんと共有できて嬉しいです。

もし「この先が気になる」と思っていただけたなら、ブックマークをいただけると大変励みになります。次の更新を見逃さず、一緒に物語を追いかけましょう。

皆さんからの感想が、執筆の何よりの光になります。

それでは、また次の章でお会いしましょう。

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