第81話 十七歳の朝
優雅なクラシックのレコードが流れている。
香り高いコーヒーの湯気。ふかふかの最高級レザーソファ。
ここは高級ホテルのラウンジではない。
――僕の精神世界、『召喚空間』だ。
『おはようございます、王よ』
和装から一転、今はモダンなルームウェアを纏ったシラユキが、とびきりの笑顔でカップを置いてくれた。
中身は最高級のモカ・マタリ(のイメージ)。
「おはよう、シラユキ」
僕はカップを手に取り、口をつける。
温かさと苦味が広がる……ような気がする。
実際には、今の僕は精神体だけをこの空間に「自己召喚」している状態だ。だから物理的にコーヒーを飲むことはできない。
あくまで、脳が記憶している味と香りを再現して「飲んでいる雰囲気」を楽しんでいるに過ぎない。
『あらヒロ、もう起きる時間じゃなくて?』
向かいのソファでは、真紅のドレス姿のフレアが、ファッション誌を読みながら足を組んでいる。
その足元では、イカヅチが高級クッションの上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「うん。そろそろ行かないと」
僕はカップを置き、意識を集中させた。
この数年で、僕は空間魔法の制御を完全にマスターしていた。
自分自身を対象にした召喚と逆召喚(帰還)。
かつて七歳の頃、無意識に神域へ侵入したあの感覚を、理論的に再現したものだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
僕は指をパチンと鳴らし、精神世界からログアウトした。
◇◇◇
カッ!
目を開けると、そこは男子寮の自室だった。
時計を見る。午前八時二十分。
「……あ、やば。HR始まる」
僕は飛び起きて制服に着替えた。
身長はこの数年で随分と伸び、百七十五センチを超えている。
かつてブカブカだった制服も、今はジャストサイズだ。
鞄を手に取り、部屋を出る。
廊下を歩いて階段を降り、校舎まで移動して……というのは、正直面倒くさい。
「繋がれ」
僕は空間の座標をイメージし、目の前の空間を『折り畳んだ』。
一歩踏み出す。
景色が歪み、次の瞬間――僕は高等部の教室のドアの前に立っていた。
「うわっ!? い、一之瀬先輩!?」
近くにいた一年生が腰を抜かしそうになっている。
「あ、ごめん驚かせて。おはよう」
「お、おはようございます! ……相変わらずデタラメだなぁ、あの人」
後輩たちのヒソヒソ声を背に、僕は教室へと入った。
「ようヒロ。お前また廊下で『ショートワープ』したろ?」
席に着くなり、呆れた声が飛んできた。
親友のユウスケだ。
彼はその優秀さを買われ、今は生徒会役員として多忙な日々を送っている。
「風紀委員から苦情が来てるんだよ。『一之瀬ヒロが空間転移で廊下をショートカットしている』って」
「えー、便利なのに。誰にも迷惑かけてないよ?」
「心臓に悪いんだよ! 全く……」
ユウスケは溜息をつきながらも、どこか諦めたような顔をしている。
この数年、僕の「規格外」ぶりは学校中に知れ渡り、もはや「アンタッチャブルな有名人」扱いになっていた。
先生たちも「一之瀬なら仕方ない」で済ませる始末だ。
◇◇◇
昼休み。
購買でパンを買おうとしていると、華やかなオーラを纏った女子大生が校舎に入ってきた。
「ごきげんよう、ヒロ様!」
「あ、アリサ先輩」
薬師寺アリサ先輩だ。
彼女は内部進学で魔法大学の一年生になり、キャンパスは違うものの、こうして頻繁に高等部へ顔を出してくる。
相変わらず美人で目立つ人だ。
「見てくださいまし! 出来ましたのよ!」
先輩が興奮気味に見せてきたのは、スマホの動画だった。
『――炎のような情熱を、貴女の肌に』
画面の中で、真紅のドレスを着た美女が、艶然と微笑んでいる。
フレアだ。
圧倒的な美貌とカリスマ性。背景にはCGではなく本物の炎が舞っている。
最後には『薬師寺製薬・新美容液』のロゴ。
「フレアお姉様のCM、ついに完成しましたの!」
「……うわぁ」
本当にCMに出てる。
先輩はすっかりフレアを「お姉様」と崇拝し、莫大なギャラ(主に高級家具や宝石)と引き換えに、自社の広告塔として起用していたのだ。
「評判も上々ですわ!
これでお姉様の美しさが世界に知れ渡ります!」
「ほどほどにしてくださいね……。精霊だってバレたら面倒ですし」
「あら、『CG技術の極致』と発表していますから大丈夫ですわ」
ちゃっかりしている。
ちなみに、お兄ちゃんも大学院の研究員として残っていて、たまに先輩とキャンパスですれ違うらしい。
お兄ちゃんは「魔法理論の革命児」として学会で注目され始めていて、忙しそうだ。
平和だ。
最高の仲間と、愉快な精霊たち。
こんな日常が、ずっと続くと思っていた。
◇◇◇
放課後。
僕はふと、屋上から空を見上げた。
「……ん?」
微精霊が少しだけ騒がしいような気がする。
ほんの少しだけ。
僕にしか分からない、世界の変化。
「……気のせいかな」
いや、違う。
ここ数年、鳴りを潜めていた「何か」が、水面下で蠢いている。
そんな嫌な予感が、背筋を撫でた。
◇◇◇
――同時刻。西方、とある宗教国家の地下深部。
薄暗い大聖堂で、数人の枢機卿たちが円卓を囲んでいた。
彼らの視線の先には、映像で映し出された一人の少年の姿がある。
一之瀬ヒロ。
「……忌々しい『悪魔』め」
一人が憎々しげに呟いた。
「奴の存在が、我らが神の威光を陰らせている」
「数年前のヴァイスラントでの屈辱、忘れてはならん」
「時は満ちた。奴を、そして奴が使役する偽りの精霊たちを……狩る時が来たのだ」
暗闇の中で、無数の目が怪しく光った。
静寂を破り、世界は再び動き出そうとしていた。




