第73話 令嬢様はモフりたい
エレノア先生の研究室でお茶会を楽しんでいる最中。
ふと、窓の外から視線を感じた。
「……ん?」
僕が顔を上げると、チョコを齧っていたイカヅチも鼻をピクリと動かした。
『うぬ。外に何奴かおるな』
イカヅチ(子犬モード)が窓際へトコトコと歩いていく。
僕もつられて窓の下を覗き込んだ。
そこには。
「うぅ……尊い……無理……」
芝生の上で、一人の女子生徒が芋虫のようにゴロゴロと転げ回っていた。
「……え、なにあの人」
僕がドン引きしていると、イカヅチと目が合った彼女は「ヒッ!」と悲鳴を上げて飛び起きた。
髪には芝生がついているし、制服も少し乱れている。
でも、顔立ちは整った美人だし、身につけている小物からは気品――というか、お金持ちのオーラが漂っていた。
「あ、あの! 決して怪しいものではございませんわ!」
彼女は慌てて髪を直し、窓に向かって深々とお辞儀をした。
「わたくし、中等部三年の薬師寺アリサと申します!」
「薬師寺先輩? ……そこで何してるんですか?」
「そ、それは……その……」
彼女はモジモジしながら、意を決したように顔を上げた。
「一之瀬ヒロ様!
先程の贈り物、お口に合いましたでしょうか!?」
「え? 贈り物って……」
僕の手元にある黒い箱を見る。
「ああ、この『ショコラ・ド・ロワイヤル』ですか!?」
「はい!」
「すごく美味しかったです!
あんな高級なもの、ありがとうございます!」
僕がお礼を言うと、彼女はパァァァッと顔を輝かせた。
「よかったですわ!
では……良ければこちらも!」
彼女は背中に隠していた大きな紙袋から、次々と箱を取り出した。
「雷獣様にぜひ!
最高級黒毛和牛のジャーキーに、鹿肉の干し肉、それから厳選素材のビスケットでございます!」
「うわぁ、いっぱい……」
バレンタインらしく、綺麗にラッピングされた「犬用おやつ」の山だ。
さらに、金色のパッケージに包まれた大袋も出てきた。
『最高級プレミアムドッグフード 〜厳選和牛の極み〜』
「…………」
一瞬の沈黙。
そして。
『き、きさ……貴様ァァァァァッ!!』
イカヅチが激昂した。
バチバチと火花を散らしながら、窓枠に前足をかけて吠える。
『我を犬扱いするか!!
誇り高き雷獣であるこの我に対して、ドッグフードだとぉ!?』
「ひぃっ! 申し訳ございません!」
アリサ先輩が縮み上がる。
でも、イカヅチの口の周りはさっき食べたチョコでベトベトだ。威厳も何もない。
『あらあら、あなたばかり目立つからですわ』
フレアがクスクスと笑う。
『それに、チョコまみれの顔で怒っても説得力がありませんわ』
『ぬぐっ……!』
イカヅチは慌てて前足で口を拭った。
僕は苦笑しながら、おやつセットの山を見た。
「まあまあイカヅチ、落ち着いて。
先輩に悪気はないと思うよ? これ、人間が食べても美味しそうなくらい高そうだし」
『むぅ……しかしだなぁヒロよ……』
イカヅチが不満げに唸る。
その様子を見て、アリサ先輩はハッとした顔をした。
「ま、まさか……雷獣様がチョコレートを召し上がるとは思わず……。
とんだ無礼を働いてしまいましたわ! 申し訳ございません!」
彼女は再び地面に額を擦り付ける勢いで謝罪した。
「わたくしのリサーチ不足ですわ……!
雷獣様、差し支えなければ、好物をお教え願えませんでしょうか!?」
『好物? ……うぬ』
イカヅチは少し考え、ボソッと言った。
『……馬刺しだ』
「え?」
『馬刺しが食いたい。
それも、脂の乗った極上のやつをな』
なんという渋いリクエストだ。
しかし、アリサ先輩の目は真剣そのものだった。
「馬刺し……でございますね!
かしこまりました! すぐに手配いたします!」
「え、いや先輩? ここ学校ですし……」
「少々お待ちくださいませ! 失礼しますわ!」
ドドドドドッ!!
彼女はスカートを翻し、砂煙を上げて校舎の向こうへと走り去っていった。
え、速っ。
◇◇◇
それから一時間後。
まだお茶会が続いていた研究室に、荒い息をしたアリサ先輩が戻ってきた。
「はぁ、はぁ……! お、お待たせいたしましたわ……!」
全身汗だくだ。髪も乱れている。
その手には、ドライアイスの冷気が漂う発泡スチロールの箱が抱えられていた。
「く、熊本から……直送の……最高級馬刺しでございます……!」
「ええっ!?」
僕たちは驚愕した。
一時間で? 熊本から? どうやって?
詳細は不明だが、箱の中には確かに、サシの入った美しい馬肉が鎮座していた。
『ほ、ほう……』
これにはイカヅチも毒気を抜かれたようだ。
『でかした。
……ヒロ、食ってもいいか?』
「うん、まあ……せっかくだし」
イカヅチは馬刺しにかぶりついた。
『うむ! うまい!
口の中でとろけるようではないか!』
満足げに舌鼓を打つイカヅチ。
それを見て、アリサ先輩はへたり込みながらも、恍惚とした表情を浮かべている。
『……ふぅ、食った食った』
完食したイカヅチは、気まずそうに、しかしどこか認めるように先輩を見た。
『いや、なんだ。
犬扱いの件は水に流そう。貴様の誠意、確かに受け取った』
「あ、ありがとうございます……!」
『して、人間よ。
貴様の望みはなんだ?
これほどの供物を持ってきたのだ、金か? それとも力か?』
イカヅチの問いに、先輩はフルフルと首を振った。
そして、熱っぽい視線をイカヅチ(子犬)に向けて、震える声で言った。
「モフらせて……いただけますでしょうか……」
『……は?』
「あの日、グラウンドで一目見た時から、その高貴で愛らしいお姿に心を奪われておりました……!
どうか、どうか一撫でだけでも……!」
『…………』
イカヅチが僕の方を振り返る。
その顔には「モフ?」という疑問符が浮かんでいた。
どうやら彼女は、僕ではなく、この「モフモフ」のパトロンだったらしい。
「イカヅチ……諦めてモフらせてあげなよ。
馬刺しの対価だと思ってさ」
『ぬ、ぬぐぅ……』
イカヅチは覚悟を決めたように、目を閉じてフンと鼻を鳴らした。
『……よかろう。
特別に許可する。存分に撫でるがいい!』
「きゃあああああああ!!!」
その後、研究室には「ああっ! 柔らかい! 神々しい! 幸せですわぁぁぁ!」という令嬢の叫び声と、
虚無の表情で撫で回される雷獣の姿があった。
◇◇◇
ひとしきりモフり倒し、満足した様子のアリサ先輩。
彼女は乱れた髪と服を素早く整えると、コホンと咳払いをした。
その瞳には、先程までの狂気じみた熱はなく、どこか理知的な光が宿っていた。
「一之瀬ヒロ様」
「は、はい」
急に真面目な顔になった先輩に、僕は背筋を伸ばした。
「本日、雷獣様との触れ合いをお許しいただき、感謝いたします」
彼女は優雅に一礼すると、僕を真っ直ぐに見据えて言った。
「我が薬師寺家は、貴方のその『力』に敬意を表します。
つきましては……今後、ヒロ様がイカヅチ様との契約を維持される限り、我々薬師寺家は貴方を全面的に支援することを約束いたします」
「えっ……」
「研究資金、資材の調達、あるいは情報の提供……。
何かお困りの際は、ご遠慮なくお申し付けくださいませ」
先輩はニッコリと微笑んだ。
「もちろん、その対価として……時折、こうして雷獣様との謁見をお許しいただければ幸いですわ」
なるほど。
つまり、「イカヅチをモフりたければ、その『飼い主』である僕を支援するのが一番確実だ」と判断したわけだ。
ただのファンじゃない。ちゃんと計算ができる人だ。
「……世界は広いわね」
エレノア先生が、冷めた紅茶を啜りながら呟いた。
「よかったじゃない一之瀬君。
これ以上ないくらい強力で、頼もしいパトロンができたわよ」
「はは……そうですね」
僕は苦笑した。
でもまあ、悪い気はしない。
こうして僕には、ちょっと変わった、でも頼れる先輩とのコネクションができたのだった。




