第36話 天才のノートと、凡人の一歩
庭木を一本焦がしてしまった「炎の竜巻事件」から数日。
お母さんの機嫌も直り、僕はまた平穏な日常に戻っていた。
学校から帰って、宿題を済ませる。
小学校のドリルなんて、すぐに終わる。
楽勝だ。
「さて、と」
いつものように庭に出て、
魔法の練習をしようとした、その時だった。
ふと、部屋の隅にあるカレンダーが目に入った。
――来年、魔法学校受験。
「……あ」
固まった。
魔法の練習が楽しすぎて、
すっかり忘れていた。
というか、意識の外に追い出していた。
魔法学校の入試には、「実技」だけじゃなく「筆記試験」があることを。
僕は慌てて、募集要項を確認する。
試験科目は――
『国語・算数・理科・社会・英語』
「……五教科もある」
そう、魔法使いだからといって、呪文の知識だけあればいいわけじゃない。
現代の魔法使いはエリート職だ。
当然、求められる学力は高い。いわゆる「お受験」だ。
「……ま、まぁ算数くらいなら」
僕は過去問を開いた。
『問:A地点からB地点まで、兄は分速80m、弟は分速60mで進む。弟が出発してから15分後に……』
……
「……なにこれ、なんでこんな事するの?」
学校でやってる算数と全然違う。
計算だけじゃない。なんだろう、頭の使い方が違う気がする。
これを、魔法の練習もしながら解けるようにならなきゃいけないの?
血の気が引いた。
魔法なら感覚でドカンとやればなんとかなる。
でも、これは感覚じゃどうにもならない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
どうしよう。
このままじゃ、実技満点でも筆記で落ちる。
「精霊の使い手、算数ができなくて不合格」なんて、特にイカヅチに怒られる未来が見える。
僕は縋るような思いで、本棚の奥を探った。
お兄ちゃんが残していった、古い参考書があるはずだ。
「あった……」
背表紙が日焼けした、分厚い参考書の山。
『ハイクラス算数』
『受験理科のすべて』
……タイトルだけで頭が痛くなる。
開いてみて、僕は息を呑んだ。
――びっしりだった。
図形の補助線。
計算の工夫。
歴史年表の語呂合わせ。
余白という余白に、赤や青のペンでメモが書き込まれている。
重要なページは手垢で汚れ、角は何度も折られ、擦り切れている。
「……お兄ちゃん」
神童。天才。
みんな、お兄ちゃんのことをそう呼ぶ。
魔法の才能だけじゃない、
頭も良くて何でもできる人だと、僕も思っていた。
でも、違ったんだ。
このノートは、泥臭いくらいの努力の塊だった。
天才は、最初から天才だったわけじゃない。
みんなが遊んでいる間に、こうやって積み上げていたんだ。
「……負けてられないな」
僕は気合を入れ直して、机に向かった。
でも――。
「……わからん」
気合で解けるなら苦労はしない。
十分後、僕は机に突っ伏していた。
そうだ。
僕には、心強い味方がいるじゃないか。
何百年も生きてる精霊なら、人間の勉強くらい分かるはずだ!
「ヒューイ! フレア! イカヅチ! ちょっと来て!」
僕は三体を召喚した。
「なんだヒロ、また魔法の実験か?」
ヒューイが欠伸しながら出てくる。
「違うよ。勉強教えて!」
僕は算数のテキストを突きつけた。
「この『ニュートン算』?ってのが分からないんだ」
「あ?」
ヒューイは問題文を覗き込み、一秒で興味を失った。
「知らね。風は計算するもんじゃない。風は感じるもんだ」
「……次!」
僕はフレアに向き直る。
フレアは、お母さんが用意したティーセットで優雅にお茶を飲んでいた。
ふわりと、華やかな香りが漂う。
いつもの麦茶じゃない。
これは……街の百貨店でしか売っていない、高級な紅茶だ。
お母さん、フレアのためにわざわざ買ってきたんだ……。
しかも、お客様用のとっておきのカップで出している。
気合の入れ方が違う。
フレアはそれを、優雅に口に運ぶ。
「……良い香りですわ。人間の文化も、捨てたものではありませんね」
完全にマダムのティータイムだ。
「で、フレア。英語! 英語分かる? 世界中を飛んだりできるでしょ?」
フレアはカップを置き、ふふっと微笑んだ。
「言葉? 必要ありませんわ」
「え?」
「私たちは『想い』で会話をしますの。
そこに言語の壁なんてありませんことよ」
「……つまり?」
「文法なんて知りませんわ」
「……役に立たない!」
最後、イカヅチ。
「イカヅチ! 社会! 昔のこと知ってるでしょ!?」
イカヅチは、丸くなったまま片目を開けた。
「……覚えろ」
「え?」
「過去など、過ぎ去った雷鳴と同じだ。
教科書に書いてあるなら、それを脳に焼き付ければよい」
「……はい、解散!!」
僕は全員の召喚を解除した。
召喚しているだけで魔力と精神力を使うのに、得られたのは徒労感だけだった。
精霊たち、受験勉強には全く役に立たない……!
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一時間後。
僕は庭で、大の字になって空を見上げていた。
頭から煙が出そうだ。
「……やるか」
近くにいたイカヅチが、むくりと起き上がる。
「おう」
僕たちは距離を取って向き合った。
「いくぞ」
イカヅチの身体から、バチッと火花が散る。
――雷撃。
一瞬で迫る白い閃光。
殺意すら感じる速度。
でも、複雑怪奇な文章題に比べれば、こんなに分かりやすいものはない。
「シールド!」
空間を閉じる。
弾ける音。
間髪入れず、僕も撃ち返す。
指先から、小さな雷を。
イカヅチはそれを、前足ではじく。
楽しそうだ。
バチッ! ドォン!
僕にとっては、これが一番の息抜きだった。
何も考えなくていい。
ただ、反応するだけ。
脳みその使っていなかった部分が、喜んでいる気がする。
「ふぅ……すっきりした」
三十分ほど撃ち合って、僕は汗だくで笑った。
イカヅチも、満足そうに尻尾を揺らしている。
「悪くない反応だったぞ。机にかじりついているより、こちらのほうが性に合っているようだな」
「うるさいなぁ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜。
お風呂に入って、さっぱりしてから、もう一度机に向かった。
参考書を開く。
相変わらず、問題は難しい。
でも、さっきよりは、頭に入ってくる気がした。
お兄ちゃんのメモを頼りに、補助線を引いてみる。
「……あ」
一問だけ。
図形の面積を求める問題。
ここに線を引けば、三角形が見える。
ノートに、式を書き込む。
たった一行。
でも、確かな正解。
カイト兄ちゃんみたいに、全部は分からない。
精霊たちみたいに、想いだけで通じ合えるわけでもない。
僕は、人間だ。
だから、地道にやるしかないんだ。
ボロボロの参考書を、そっと閉じる。
「……明日も、やろう」
天才の背中は、まだ遠い。
でも、今日の一歩は、間違いなく前進だった。




