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第30話 火竜フレアリス

 宿を出ると、夜の草原はひどく静かだった。


 風はほとんどなく、

 虫の声だけが、遠く近くで重なっている。


 月明かりが、地面を白く照らしていた。


 足元に伝わる感触は、昼間と変わらない。

 柔らかい草と――

 その下に、ほんのりとした温もり。


 阿蘇は、眠っていても熱を抱えている。


 少し高くなった丘を登ると、

 視界が一気に開けた。


「……」


 イカヅチが、立ち止まる。


 耳を澄まし、

 空気の流れを読むように、しばらく黙ったまま――


「あっちだ」


 低く、短く言った。


 イカヅチの視線の先は、

 さらに奥の草原だった。


「……少し、距離がある」


 そう言ってから、

 背中をこちらに向ける。


「乗れ」


「え? いいの?」


 思わず聞き返してしまった。


 大きいとはいえ、

 生き物の背中だ。


 乗っていいものじゃない、と

 どこかで分かっていた。


「問題ない」


 イカヅチは、あっさり言った。


 少し迷ってから、

 恐る恐る背中に手をかける。


 ……温かい。


 毛並みの奥に、

 雷の塊みたいな力を感じた。


「しっかり掴まれ」


「う、うん!」


 次の瞬間。


 地面が、遠ざかった。


 風が、一気に顔を叩く。


「うわっ……!」


「アハハ!さすがに速ぇな!!」


 ヒューイが、横で楽しそうに笑う。


 草原が、流れるように後ろへ消えていく。

 丘も、谷も、一瞬だ。


 でも、不思議と怖くなかった。


 イカヅチの背中は、揺れない。

 雷なのに、やけに安定している。


 やがて、速度が落ちた。


 イカヅチが、静かに止まる。


「ここまでだ」


 前を見る。


 ……見えた。


「あれが――火竜だ」


 思わず、息をのんだ。


 月明かりの中、

 草原の奥に、巨大な影が横たわっている。


 大きい。


 とにかく、大きい。


 体を丸めているのに、

 それだけで、小さな丘みたいだった。


 全長は、二十メートルはあるだろうか。


 でも、その火竜は、動いていなかった。


 ただ――

 月を、眺めている。


 静かで、

 凛としていて、

 なのに、圧倒的な存在感。


 この距離からでも、

 “格が違う”と分かる。


「……」


 無意識に、喉が鳴った。


「ここから先は、自分の足で行け」


 イカヅチが言う。


「……うん」


 背中から降りる。


 一歩、踏み出す。


 草を踏む音が、

 やけに大きく聞こえた。



 数歩、進んだところで――


「久しいな、火竜」


 イカヅチが、声をかけた。


 その瞬間。


 火竜の尾が、ゆっくりと動いた。


 重たい音を立てて、

 体が、こちらを向く。


 月光に照らされて、

 赤く艶やかな鱗が浮かび上がった。


「……」


 その瞳が、こちらを見る。


 金色だった。


 炎の奥を閉じ込めたような、

 静かな目。


「……あら?」


 低く、よく通る声。


 女の声だった。


「ずいぶん無遠慮ですのね」


 火竜は、ゆっくりと首を上げる。


「“火竜”だなんて」


 小さく、息を吐く。


 それだけで、

 空気が、わずかに熱を帯びた。


「私には、名前がありますわ」


 火竜は、堂々と名乗った。


「フレアリス・ヴォルガ」


 その名に、

 誇りが、はっきりと宿っていた。


「……まだ、その名を名乗っているのだな」


 イカヅチが、静かに言う。


「ええ」


 フレアリスは、少しだけ顎を上げる。


「私はこの名が気に入っていますの」


 そのやり取りを聞きながら、

 僕は頭の中で混乱していた。


(……え)


(女の子?)


 火竜って、

 もっとこう……

 重厚なおじさんみたいなイメージだったのに。


「……まさか、女の子だったんだね」


 ぽろっと、口から出た。


 一瞬、沈黙。


 フレアリスは目を瞬かせてから、

 ふっと、口元を緩めた。


「……まあ」


 どこか楽しそうに、息を吐く。


「何百年ぶりかしら」


 金色の瞳が、月明かりを映して細くなる。


「そんなふうに言われたのは」


 少しだけ、胸を張るようにして。

「ふふ……悪くありませんわね」


 からかうような視線が、僕に向く。


「人間。

 あなた、案外――

 その感性は嫌いではありませんわ」


 イカヅチが、小さく鼻を鳴らした。


「……相変わらずだな」


「褒め言葉として受け取っておきますわ、雷獣」


 そう言ってから、

 フレアリスの表情が、すっと引き締まる。


 笑みは消え、

 代わりに宿ったのは、火竜としての威厳。


「ですが」


 地面に、わずかな熱が走る。


「レディとして扱われるのと、

 対等に向き合うのは別の話」


 翼が、ゆっくりと開かれた。


「私に関わろうというなら――」


 金色の瞳が、真っ直ぐに射抜く。


「力を示しなさい」

 イカヅチが、苦笑する。


「……やはり、そうなるか」


 ヒューイが、肩をすくめた。


「おいおい、初対面でそれかよ」


 フレアリスは、にやりと笑う。


「ええ。

 それが――

 火竜というものですから」


 月明かりの下、

 火竜が、ゆっくりと翼を広げた。


 夜の草原に、

 熱が、満ちていく。


 ――本当の試練は、

 ここからだった。

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