第29話 火の国
車に乗ってしばらく山道を走ると、
突然、視界いっぱいに大草原が広がった。
阿蘇に着いて、まず思ったのは――
空気が、軽いということだった。
息を吸うと、胸の奥まで冷たくて、
でも、どこか甘い匂いが混じっている。
「草の匂いだな」
お父さんが言った。
確かに。
見渡す限り、緑だった。
なだらかな丘がいくつも重なって、
その間を、風がゆっくり流れている。
足元の地面に手を当てると、
ほんのり、温かい。
「……あれ?」
「地熱だろ」
ヒューイが言う。
「この辺一帯、そういう土地なんだよ」
少し歩くと、放牧されている馬が見えた。
数頭が、のんびりと草を食んでいる。
人の気配を気にする様子もない。
「……平和だなぁ」
思わず、口に出た。
「なぁイカヅチ。
こんなところに、本当にヤバい竜がいるの?」
イカヅチは、すぐには答えなかった。
遠くの丘を見て、
風の流れを感じてから、静かに言う。
「いる」
それだけだった。
否定もしない。
説明もしない。
それが逆に、
少しだけ背中を冷やした。
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そのあと、街に下りて肉屋に寄った。
「たてがみ、赤身、それと……」
お父さんは迷いなく言う。
「大トロもください」
「お、分かってますね!」
店員さんがにっと笑った。
「店で食べるのもいいですけど、
うちの肉を買っていくのは大正解!」
「なにかおすすめのランチは?」と聞くと、
「熊本ラーメンで十分!
マー油のやつ、食べてきなさい!」
言われた通り、
クーラーボックスに肉を大事に詰めて、
ラーメン屋に向かった。
暖簾をくぐった瞬間、
ガツンと鼻を突く、焦がしニンニクの香ばしい匂い。
運ばれてきた丼は、
真っ白な豚骨スープに、
真っ黒なマー油がマーブル模様を描いていた。
一口すすると、
トロリとしたスープが舌に絡みつく。
パツッと歯切れのいい細麺が、
そのまま喉まで連れていく。
「……うま」
思わず、声が漏れた。
「だろ?」
お父さんが、満足そうに笑った。
その後は、熊本城を見て回った。
石垣は、思っていたよりもずっと高い。
下はゆるやかで、
上に行くほど、ほとんど垂直になる。
「武者返し、ってやつだな」
お父さんが言った。
登れないように作られている。
守るための城。
(……守る、か)
なんとなく、
イカヅチの背中が頭に浮かんだ。
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宿は、草原に近い場所だった。
夜、部屋で馬刺しパーティをした。
お父さんは、ちゃんと包丁を持参していた。
真剣な顔で、
繊維を断つように包丁を滑らせる。
一切れごとに、
赤と白の肉がツヤツヤと光る。
「やっぱり、たてがみだな」
甘めの醤油に、
たっぷりのおろし生姜とおろしニンニク。
たてがみの脂身と赤身を一緒に重ねて食べる。
「これが一番の贅沢だ」
お父さんが、得意そうに言った。
大トロは口の中で溶けて、
赤身は噛むたびに旨味が広がる。
「……ねぇ」
ふと、思ったことを口にする。
「イカヅチたちって、こういうの食べるの?」
「食う必要がないだけで、顕現している状態なら食べれるだろうが、
もうしばらく何も食べていないな」
イカヅチの答えは意外なものだった。
「食べてみる?」
「これは……」
「うまいな」
「おい!俺にも食わせろ!」
ヒューイが笑う。
なんとなく一緒に同じ時間を過ごしている気がして、
それが、少し嬉しかった。
今日のごはんは、格別だった。
火竜のことなんて、
誰も口にしなかった。
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夜。
人の少ない時間を選んで、
外に出る準備をする。
「……本当に、大丈夫なの?」
お母さんが、僕の肩に手を置いた。
「うん」
そう答えたけど、
少しだけ、胸がきゅっとした。
「……行ってこい」
お父さんが言った。
「ただし、無茶はするな」
イカヅチが、一歩前に出る。
「我らが付いている」
「悪しき存在ではない。問題はない」
お母さんは、少しだけ黙ってから、うなずいた。
「……じゃあ、気をつけて」
「行ってきます」
夜の草原は、
昼よりも静かで、
星が、近かった。
足元の地面は、
やっぱり、少し温かい。




