#1 理想の自分になれる薬
「エレン、起きて」
目を覚ますと、そこにはミカサがいた。ダイニングテーブル、掛けられた毛布。ここで、寝落ちしてしまったらしい。
ミカサは、エレンが起きたことを確認すると、にこりと笑い、キッチンに戻っていった。
春風が、カーテンの隙間から吹き抜けて、ミカサの髪を僅かに揺らした。少しすると、パンを二つに切り分ける音がして、
コーヒーの芳醇な香りが部屋中を駆け巡った。のっそりと立ち上がり、部屋中を眺める。
薪ストーブの使い方が最近分かってきたので、火を焚きたいところだったが、流石に春先には必要ないらしい。
「エレン、朝ごはんできたよ、最近痩せてるから、食べて」
テーブルにトーストを置き、その横にティーカップを添えられた。エレンは、椅子に座り直すと、フォークとナイフを手に持った。
まず、トーストを丁寧に切り分けて、口の中に放り込む。バターがいい具合に溶け込み、喉へ滑り込んだ。
バターのコクが残っている間に、コーヒーを流し込み、もう一回トーストを齧り、バターの甘味とコーヒーの苦みでトーストを味わった。
「どう、、、?」
ミカサが、恐る恐る聞いてくる。エレンは、コクリと頷いて、おいしい、とジェスチャーした。なんだか、懐かしい味がした。
外で、洗濯物が波を描き、服と服が重なり合う。カーテンの向こう側に広がる、青空の中に平面的な春雲が描かれた。
丘のてっぺんから見える木々が、風に合わせて、疎らに揺れた。それが重なり合い、景色を成立させた。
「エレン、今日は外にでも行く?」
顔を洗ってきたのだろうか、ターバンをくるみ、ミカサが洗面所から出てきた。化粧水で表面がてかっている。
無意識に頷くと、ミカサはマフラーを首に巻きなおし、淡いピンク色のカーディガンを羽織って、扉をいきなり開けた。
「今から、行ける?」
風が吹き抜け、ミカサの髪やマフラー、エレンの短髪を靡かせた。眩しすぎて、目も開けないような煌めきがそこにはあった。
扉から先は、変わり果て、未知、という言葉が合う程だった。紅葉が咲き荒れ、草原の端っこに、狂い咲きの桜がか細く立っていた。
エレンはこの時初めて、自分が見ていた世界と現実に大きな違い、隔たりがあることに気付いた。
「最近外出てなかったでしょ、季節の移り変わりも分からなかったんじゃない?」
地面が揺れる。空っぽな自分は、世界にすら置いて行かれたと思うと、恐怖が止まらなくなった。
落ちていく過去、へばり付いて離れない現在、あるかどうかも分からない未来、そのすべてが襲ってくる。
何だろうか、特に理由もないのに。何も、おかしなことはないのに。おかしいのは、自分だったのに。
現実という地に、今も立っていると考えると、居ても立っても居られなくて、逃げ出したくなるほどだった。
「エレン、そんなに帽子深く被ってたら、顔が見えない」
真っ暗な世界が一変し、エレンの瞳に朝日が突き抜けた。ミカサが帽子の淵を持って、顔を覗き込んでくる。
目が合った瞬間、歯がゆい何かが胸を突き刺した。理由もないのに、どこかが痛い。見下されているかのような、そんな気分になった。
『気のせいだろうか。山小屋から、街まで、直ぐに着いた。異常だ。街が向かいに来るような感覚だ。』
エレンは、何も言えず歩き出した。背後から、伺うような視線を感じる。帽子越しに見る世界は、ありえない程に狭かった。
ずらりと並ぶ街頭、薄暮の先の曲がり角。一人足音のパレード、夏を待つ雲の霞青。二人の間隔は、変わらず開いていた。
視界の中に、通り過ぎていく人の靴が映し出されて、またどこかへ消えていく。真横から聞こえてくる、女同士の高笑い。
何処からか、感じる無数の視線。子供たちが走り出す音が、反響して伝わってくる。人、人、人。
街外れに、一つのベンチがある。誰も座っていない。ベンチに嘗てあった、温盛や活気が徐々に風に攫われていく。
二人の前を、男女が通り過ぎていく。楽しそうに笑う姿を、周りに見せびらかすように、堂々と道の真ん中を歩いて行った。
どこまで歩いても、街中を溢れかえる人々は、魚の様に大きな渦を巻いて集まり、時には形を変えて波を乗り越えていった。
街に一つ出店を開く老人が、稀に来る客のために、日中問わず働き続ける。その姿が、少し寂しげに見えたのは、きっと主観的に見てしまったからだろう。
沈黙。ミカサを置いて、歩く。沈黙。歩く。沈黙。沈黙。歩く。
「エレン、、、」
二人の間に秋風が通り抜けていく。風が、全てをかっさらっていく。
『、、、つまらない』
ミカサは、俯きながら呟いた。
人。声。光。その全てが、邪魔をしてくる。嫌悪感だけを示して、またどこかに消えていく。背後で誰かが何かを発した。
つまらない、誰が誰に向かっていったのだろうか?こんなに、天気がいい日に、つまらない、なんて言うのだろうか?
エレンは、わかりやすく首を傾けた。体当たりしてくる不自然な風が、体を突き抜け、帽子までも吹き飛ばした。
エレンは、思わず立ち止まる。背後から、ずっと聞こえてきた足音が今になって、遠ざかっていく。
後ろを振り向かないように、帽子を拾おうとする。しかし、帽子はエレンの指と指の間をすり抜けるばかりで、一向に拾えない。
こんなことが、あるのだろうか?本当に、あるだろうか?今日は、ついていない。
周りの人が、不思議そうに見てくる。仲のよさそうな男女が、口元に手を当てて、耳元で何かを囁いた。
その瞬間、エレンの目線に一つの店が入った。ひどく動揺して、思わず膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
“理想の自分になれる薬”
ミカサが、遠ざかっていく音だけが聞こえる。エレンは、物凄い勢いで、縋りつくような想いで、その薬に見入った。
思わず、ミカサの方を見る。手に持ったマフラーが今にも爛れ落ちそうな勢いだった。ミカサの後ろ姿が小さくなっていく。
今なら、誰も止める者はいない。エレンの目が、魚の様に奇妙に泳ぐ。通り過ぎていく人々が、エレンを眺める。
『そこから、先は覚えていない。この薬を、買ったのかさえ、わからない』




