#5 いさな
丘をまた、登っていくとぽつんと小さく、見覚えのある山小屋が佇んでいた。そのころにはもう、日は沈みかかっていて、斜陽が淡く光っていた。
雪の溶けた草原は、草露を辺り一面につけ、水平線と重なる夕日に、ほんの少し淡く照らされていた。二人は、山小屋に着くと、扉を開けた。
光が、暗い部屋の中に差し込み、その中に二人の影があった。部屋は、いつも通り変わらず、だだっ広く、床が一面と見渡せた。
疲れていながらも、二人は、思い思いに、淡々と作業をする。エレンは、天井のランプのボタンをつけ、
ミカサは、買いたてのティーカップを木箱から出すと、丁寧に洗い、ティーカップの中に紅茶の茶葉を慣れない手つきで入れていく。
部屋も、ほんの少し明るくなり、沸騰させた湯を注ぐ音も聞こえ、紅茶の芳醇な香りが一気に部屋の中を包み込んだ。
ミカサは、紅茶を持っていく前に、午前中に零してしまった紅茶を雑巾で拭き取る。それに気づいたエレンも、雑巾を取ってきて、一緒に拭いてくれた。
「エレン、そろそろ外にある机、こっちに持って来てもいいんじゃない?」
そう、ここに来て、直ぐに机を作っていた。何週もかけて、淡々と作っていたが、随分前に出来上がっていた。
椅子も、セットで作っており、窓の外を覗けば、すぐそばに闇夜の中に浮かぶ、ダイニングセットがあった。
「持ってくるか?」
ミカサは、コクリと頷くと、エレンを手招きして、外に出た。二人で作った思い出のダイニングセット。
時間が過ぎるのは早すぎるらしく、ほんの少し前の事でも、思い出と片付けられてしまうのが、少し寂しかった。
二人は、息を合わせて、二人暮らしにしては大きすぎるテーブルを、力一杯、持ち上げた。
砂埃が、一気に舞い上がり、二人の足元をあっと言う間に占領した。同じ様に、椅子もダイニングと呼ばれるところに運んだ。
空は深く澄んでて、息は白くて。二人で、これから共有する時間を考えると、嬉しさの反面、恐怖が心を蝕んだ。
だだっ広かった、床にまた一つ家具が置かれる。机は、少し、どころか随分傾いてはいたが、それも味として、受け入れることにした。
「エレン、紅茶入れたよ」
エレンは、気づけば置いたばかりの椅子に座り、机に顔を埋めて、伏せていた。今日は、色んなことをしたから疲れたのだろう。
ミカサは、その姿を見て思わず微笑んでしまう。月光が、光の束を作って、ぼんやりと窓から地面に落ちていた。
ミカサは、そっとエレンと自分の前にティーカップを置くと、エレンの月光の中にぼんやりと浮かび上がる短髪を、そっと撫でた。
エレンらしいくせ毛が、ミカサの手に纏わりつく。瞼を落として、蓋して、すぐは覚めないほど眠って。
深く泳いで、泳いで、眠りの浅いその波間を、白く微睡みながら。カーテンが花瓶の白い花にそっとふれる。
月光を吞み込んだ、コップがルビーみたいだ。おしゃれな家具が、何もない空間に次々と浮かび上がっていく。
エレンが、薪ストーブの薪を慣れた手つきで入れていくと、ミカサを見て微笑んだ。ミカサは、エレンの柔らかな横顔を眺める。
春の陽気が、少し開いた窓から爛れ込み、何本か線を描いて、朝日が二人を暖かく包み込んだ。
「、、、ミカサ」
エレンの声が頭上から聞こえると、ミカサは寝ぼけ眼でエレンを見上げる。くっきりとした鼻先に、きりっと伸びた大きな瞳がこちらを捉えている。
さっきのは、夢なのか、、、とミカサは気づく。紅茶は、か細い湯気を根強く、発し続けている。
夜の静けさが、二人を包む。随分、中途半端に寝てしまったのか、頭からジンジンと奥にかけて、痛みが伝わって、頭蓋に共鳴した。
エレンは、虚ろな目でこちらを見据えている。何かあったのだろうか、と思うほど分かりやすく表情に出ていた。
「エレン、どうかしたの」
エレンは、その問いに一向に答えようとせず、ただ、落ち着きのない様子で、テーブルにコンコンと不規則にリズムを刻んでいた。
窓から、溢れ出る月光が、少しずつ面積を減らし、とうとう消えてしまった。頭上では、不安定に取り付けられたランプが、音を立てて揺れている。
エレンの呼吸が、荒い。その呼吸は、ミカサに伝わり、喉から、胸、腹の底までも突き刺し、ミカサは共鳴するように、胸を強く押さえつけた。
「エレン、、、?」
エレンは、震える手で、そっとティーカップを掬い上げる様に、ゆっくりと持ち上げると、紅茶を口の中に注ぎ込んだ。
もう、二人のティーカップから湯気が立ち上ることはなかったが、それでも、時間は止まることなく、時を刻み続けた。
外で、雪の溶け残りの水が、屋根から滴り落ちる音がする。エレンは、心を落ち着かせるように、短髪を弄繰り回すと、そっと口を開いた。
「夜になると、怖くなる、真っ暗闇が襲ってくる」
ミカサは、突然のことに、瞳孔を酷く見開き、エレンを見据えた。エレンが、こうやって胸の内を話すのは初めてだったからだ。
エレンは、俯いたまま、何か闇の様なものをその身に宿して、小刻みに震えていた。冷え切った床は、足裏に触れる度に、熱を奪っていく。
夜は、深海の様に、どす黒く、深かった。二人は、その深海に溺れない様に、必死に心に蓋をしていた。エレンが、こう続ける。
「もう、空っぽなんだ、あの夜から」
ミカサの腹の底の澄んだ何かに深く傷がついた。あの夜、つまり、マーレから逃げてきたあの夜。
考えた事もなかった。ミカサは、エレンの心の端すらも触れていなかった自分を、この身から引き剝がしたい一心だった。
「皆、きっと失望しただろう、世界中の皆が俺を責める」
エレンの優しすぎるその心の中に、深い傷を負い、誰も言わずに隠してきたのだろう。エレンは、涙を浮かべながら、口元を強く結んだ。
時を刻むにつれ、開いた傷口、心に空いた穴は面積を広げ、心を、身を蝕んでいく。ミカサは、そのことをよく理解していた。
「エレン、話して」
エレンは、今まで犠牲にしてきた、心の声が今更聞こえてくるのを、この身をもって、感じた。
暗闇の中に浮かび上がるミカサの姿は、初めて出会った頃の怯える様な丸い背中とは似ても似つかない程だった。
月光が、二人の背をなぞる。エレンは、ティーカップを両手で包み込みながら、口を滑らせる。
「戻れないよな、昔のようには、、、それでも明日へと歩き続けなきゃいけないんだよな」
その言葉が、ミカサの胸の奥で遮断して、深く深くに住み着いた。明日は、当たり前に来ると思っていた。明日が来ることを億劫に感じたことはなかった。
この山小屋なら、隣にエレンがいれば、第二の人生なら。その、麻酔が一瞬にして、吹き飛び、ミカサの前に現実という大きな壁が隔たった。
「それでも、お前がいるだけで、俺は幸せだ」
その瞬間、ぐちゃぐちゃに重ね塗られた、チャンバスに一気に白い絵の具が塗られていき、元の色も伺えない程に、真っ白になった。
その時、ミカサには伝わらなかった。その言葉は、エレンが本心ではないところから、ミカサを喜ばせるためだけに絞りだした言葉だということを。




