#3 思想犯、1984
「ある時は、虫だった」
彼が言った。その後に、夢の話と付け加えた。いつも通りの、晴れた昼前だった。私は横目に彼を見上げる。
頬にかかった髪が光に照らされている。その向こうには木漏れ日をたっぷりと含んだ葉が見えた。
「虫?」
私は聞き返す。暫く沈黙が続いた。
「羽が生えた小さな虫」
またあの話だ。私は身体をベンチに預けたまま考える。最近彼が話す、前世の話を私は思い返している。
「森の木々の隙間を散歩しながら、いつも空を見ていた。俺は雲に興味があった。地面から見上げる雲は誰よりも自由に見えた。
ある日、俺の目の前に一匹の鳥が来た。大きく口を開けて。俺は空へ連れて行ってくれるんだと思った。」
彼は顔を上げたまま、視線の先にある雲を見ていた。あるいはその雲の向こうにある太陽を見ていたのかもしれない。
風が吹いて、開いたままの本のページが何枚か捲れた。
「その前は、花だった気がする。花には目がついてないから確かにそうとはわからないけど、
時折蜜を吸いに来た虫が止まる感触や、風に揺れる身体で、何となくそうわかる。」
緑道を歩く女性が、じろじろと私たちを眺めながら通り過ぎる。彼女にはきっと何の話をしているのかわからないだろう。
「朝が来て、夜が来て、また朝が来て、そういうことを延々と続けているうちに、花ではなくなっている自分に気付いた。
季節が変わったんだ。花の残骸を付けた頭は少しずつ重く、垂れて行って、何度目かの日が昇る頃には種を落としていた。
種になった俺は風を受けながらゆっくりと落下して、地面に当たって、踊るように跳ねた。そうして、道を転がっていった。」
私は、想像する。種になった彼は何処へ転がっていくのだろう。何処に辿り着くんだろう。
「丁度そんな感覚で。花が枯れ、いつの間にか種に変わるみたいに、ある時別の何かになっている自分がいる。」
私は彼の頭に、赤色の花弁が付いていることに気付いた。あの通りすがりの女性は、これを見ていたんだろうか。
取ってあげようと手を伸ばすが、その前に彼は本を閉じて立ち上がる。赤い花の房が髪から滑るように落ちた。
「散歩でもしようか」
固まった体をほぐしながら彼が言った。そうして、ベンチに座ったままの私に手招きをする。
「リードはできないけど」
まるで踊りに誘うような言い方をするので、私は少しおかしくなる。上空からあの赤い花がまた一つ落ちて、ゆっくりとダンスをする。
彼は控えめに、それでも気持ちよさそうに伸びをした。木漏れ日が彼の服にゆらゆらと反射して、波の表面を見ているようだった。
彼の前世は猫でもあったのかもしれない。私はこっそりとそう思う。
“貴方が望むなら、この胸を射通して、頼りの無い僕もいつか何者かになれたら”
“訳もなく涙が溢れそうな夜を埋め尽くす輝く夢となる”
「エレン、朝ごはんできたよ」
キッチンから、ミカサの威勢のいい声が聞こえる。エレンは椅子からむっくりと立ち上がると、寝ぼけながら頭を掻いた。
傾いた机が朝日に照らされて、表面の傷や凹凸が浮き彫りになっている。その向こう側に佇む薪ストーブの灯は、絶えることなく轟々と燃えていた。
ミカサがダイニングテーブルの上に、トーストの乗った皿とスープの入ったマグカップ、サラダボールを丁寧に並べると隣にティーカップを添えて、椅子に腰かけた。
「どうかな、、、?」
ミカサが感想を求めてきたので、エレンはナイフとフォークを手に持って、各皿から順番に口に運んでいく。
「おいしい、流石だな」
そう言うと、ミカサは頬を赤らめて露骨に嬉しそうにした。壁の掛け時計が静かに針を進めていき、ほんの少し遅れてから音を刻んだ。
窓から見える景色は辺り一面真っ白に塗り替えられ、風が雪を巻き上げ、地面も空も境を失っていく。
「金柑の木、大丈夫かな」
ミカサが、ふと思い出した様に呟いた。確かに、最近収穫時だった筈なのに、すっかり記憶の隅にすらも入っていなかったな、とエレンは思う。
記憶が正しければ、金柑の木は山小屋の裏側に回り込んで、少し歩けば直ぐに着いた気がする、とも考えた。
「行こうか」
エレンが扉を開けると、そこには大荒れの嵐の中なのかと錯覚するほど、風に飲み込まれて一体化した雪が渦を巻いている。
ミカサは、また今度にした方がいいかな、と扉の前で言葉をいくつか吐いていたが、マフラーを巻きなおして、扉の向こう側に足を踏み入れた。
白い絵の具が大地というキャンバスに大胆にべた塗され、その上をザクザクと音を立てて踏みつければ、靴の隙間から冷気が足に纏わりついた。
後ろをみるとミカサがマフラーを風に攫われない様に、指で抑えつけている。前が見えない不安に駆られながらも、進めば進むほど山小屋が遠ざかっていく事が分かる
瞳が渇いた風を浴び、髪は風と共に揺れて視界を邪魔する。足元の底知れない雪の層に吸い込まれない様に気を付けながら歩いていると、金柑の木がぼんやりと見えた
「エレン、あれだよ」
金柑でいっぱいになる籠を取りに山小屋まで戻ろうか迷ったが、結局、腕に抱えて帰ることにした。――そして、山小屋へ歩き出そうとした、その瞬間だった。
「エレン、、、?」
エレンがいない。吹き荒れる風の中に埋もれるシルエットを探そうと、眉毛にこびり付いた雪を取ろうと目を擦るも、何処にもエレンの姿が見当たらない。
大雪の中、一人で叫びながらも、視界の中を掻き荒らす。頭上から降り続ける雪は、冷たく頬を掠めて身体の体温を奪い、心には焦燥感だけを刻んだ。
気が付けば、背後の足跡は真っ直ぐ一列に連なっていた。金柑も腕から次々と滑り落ちていったらしく、足跡に添えるように幾つか転がっていた。
「エレン、、、?エレン!エレン!エレン、、、?」
ミカサの目線の先、遥か向こうの方に一列に連なる足跡が不自然な程にくっきりと見える。荒い息が喉を支配して、口から出る頃には風に奪われていた。
「エレン、、、!」
視界の中の幻覚と現実の境界線が波の様に不安定に揺れて、ミカサの忙しい喉の隙間に滑り込むと、奇妙な感覚が脳を支配して、切り裂く様な酷い目眩がした。
揺れる視界の向こう側、足跡の先に人型の影が見える。ミカサは空っぽな身体を背景に押し込む様に、その影を追った。
か細い息が糸の様に垂れて、マフラーを掠める。倒れ込みそうな身は、真正面から体当たりしてくる雪に歯向かいながらも、吸い込まれそうな足元さえも警戒する。
「、、、、っ、、⁉」
すると突然、後ろ姿の首元の影がゆっくり、ゆっくりと動き始めて、突如として止まった。その首だけがぎこちなく回り、霧の中に止まった顔面が浮かび上がった。
ミカサの首に掛けてあったマフラーが綺麗な螺旋階段の様な波を描いて、灰色と化した空に吸い込まれていった。
「エレン、、、?」
顔面を支配する仮面は、二つのぎょろりとした瞳を括り付け、背鰭の様な形を描いた鼻と、無表情の口を取り囲む様に貼り付けられた平面的な髭が付いていた。
表情のない真っ白なキャンバスの上に、太い眉毛が角度を付けて描かれていて、その隙間に眉間を浮かび上がらせていた。瞳の奥には奇妙な雰囲気が纏わり付いている
“この愛が例え呪いのように、じんわりとじんわりとこの身体蝕んだとしても”




