91、オオカミは汚れる覚悟などとうに決まっている
バルタザールと対峙するライゼたち。慌てふためくサトル、何も言わないカミラ。どこか異様な空気感の中、奴隷商とその一行ではないとバレてしまったライゼはアオイへと殺意を向けるバルタザールへ渾身の一撃を放つ。しかし、当たるはずだった攻撃は空を切り、攻撃へと転じられてしまう。一方的に攻め込まれる中、ライゼがとった逆転の行動とは。
「チっ、最初から頭が目的だってことか」
確実に狙った。つま先は目標を捉え、もはや人体の域を超えた凶器とも呼べるほどの重たいライゼの蹴りは、的確にバルタザールの喉元をえぐり取った。そのはずだった。
「どーりで奴隷にしちゃ待遇が良すぎるわけだ。まァ、傷なし教養あり、しかも従順な奴隷が偶然まとめてふたりも、なんてうまい話あるわきゃねェわな」
「っ!」
「は、なんだァ? 俺が無事なのがそんなに意外かよ」
だが、獅子によく似た男は崩れ落ちることなく目の前に立っている。喉に開けたはずの穴はなく、変化と言えば鎖骨を伝って一筋の赤がわずかにこぼれるのみ。完全に死角を突いたはず、と目を見開くライゼにバルタザールはシャツに垂れる寸前の血を拭い、ニィっと口角を吊り上げた。
「殺気が駄々洩れ過ぎンだ。それじゃ見なくてもどこ狙ってっかわかっちまう。魔物どもでも相手にしてんならそれでも十分脅威だろうがな」
「……」
「ったく、ンなことより驚きたいのはこっちだっての。完璧よけきったと思ったんだけどなァ」
確かにライゼは人よりも魔物と多く戦っている。が、それでも対人戦に不得手というわけではない。今だって、不意を突くために殺気は抑えたつもりだった。
シャツに染みができていないかを確認しているバルタザールを静かに睨みつけながら、ライゼは想定よりも警戒度を高める。汚れのないシャツをつまんで安堵している様子の男は一見呑気そうに見えるが、その立ち振る舞いには一切隙がない。
「汚れて……ねェな。はーァ、ひやっとしたぜ。血はなかなか落ちねェからよ。汚したくねェんだ、これ」
「……お前らが追っている子供を探している。情報を吐け」
「こっちの話ガン無視かよ。ま、バレちまったんだもんなァ。下手に隠すのも時間の無駄か」
バルタザールがつまんだ指をパッと離し、肌から浮いていた布地が元に戻る。
「じゃ、潰れっちまえ」
それが落ちきるよりも早く、拳が振り下ろされた。
「────っ!」
「おぉ? 仕留めたと思ったんだけどなァ。こりゃあれか。獣族のハンシャシンケイってやつか」
ドゴォッ、というもはや爆発音にしか聞こえないそれと共に床がひび割れ、陥没する。ライゼが一秒前まで立っていた場所は今やクレーターと化していた。砕けた床の破片がパラパラと舞い散り、周囲からは息を呑む音だけが聞こえてくる。度を越した暴力というのは恐ろしいものだ。それが例え、味方であったとしても。
が、男が恐怖の対象になっていることなど、どうでもいい。ライゼの頭を支配するのはただひとつ。
見えなかった。
「ま、安心しろや。痛めつけるのは趣味じゃねェから、よっ!」
再び、眼前に迫る拳。それをのけ反る形でかわしながら再び、ライゼは思う。
また、見えなかった。
こんなにも巨体だというのに、こんなにも大ぶりな動きをしているのに。──この男がどうやって近づいているのか、わからない。一瞬、完全に気配が消えるのだ。そして「見えなくなった」とライゼが気づくより早く──
「ぐ、ぁっ──!?」
「ははっ、やァっと当たった」
それこそまるで岩石のような拳が襲い来る。
意識外からの強烈な右フック。脇腹をえぐるようにうちこまれたそれは簡単にライゼの内臓と胃をひっくり返し、骨をビリビリと振動させた。一瞬にして熱い液体が喉元までせり上がり、血混じりの胃液がひび割れた床へとばらまかれる。しかしそれでも、結果としてはマシな方であるとライゼは確信していた。
「けど、また避けたか。わかんねェな。俺らと変わらねェのによ。何が違うってんだ? 絶対外れたことねェんだぜ」
「…………っごふ」
「まァ、いいか。当たったことには変わりねェ」
直撃していたら、間違いなく内臓が破裂していただろう。それこそ胃液を吐く程度では済まないことになっていたはずだ。
バルタザールが再び、拳を握る。首元の血はもう止まっていた。
「悪ィな、痛めつけねェって言ったのによ。けど、こっちも引けねェんだ。身内守るためにはよ、誰かがやりたくないことをやんなきゃならねェ」
今度は本当に申し訳なさそうな声だった。ライゼの手の中から、吐いた血がぼたぼたと落ちていく。
「だから──まァ、いいか。潔く諦めてくれや」
また、バルタザールの姿が見えなくなる。どうしてわからないのか、どんなからくりで見えなくなるのか、結局わからない。もしかしたらわからないだけで、バルタザールも転移者なのかもしれないと、ライゼはぼんやりと考える。
が、もうそんなことを考える必要はなかった。
そもそも今のライゼに余裕はない。慌てふためく転移者の青年を気遣うことも、アオイのことに反応せず黙ったまま項垂れたカミラに不信感を抱くこともできない。することは、できることは、もう決まっている。
ライゼはだらりと手を下げ、その場に棒立ちになった。その姿は無防備で、傍から見れば敗北を受け入れ、最期の、束の間の生を味わっているようにしか思えない。当然荒くれ集団はその様子に疑問も持たず、喧嘩見物の野次馬の如く、この殴り込みをかけてきた獣族か人間かあやふやでいけ好かない男が身内の手によってぼろ雑巾のようにズタボロにされる瞬間を今か今かと待ち構えていた。拍手の手すら構えていた。サトルは名画のように両頬を押さえ、カミラは床を見ていた。
誰もが諦めていると信じて疑わなかった。
そう、誰も気づかなかったのだ。
ライゼがただ──耳と鼻を研ぎ澄ませることに全神経を集中させていることに。
「────……っ!?」
「……やっと、隙を見せたな」
二撃食らう間に、わかったことがふたつあった。
ひとつは、風圧。どうやらバルタザールは気配は消せても、拳を振ることによって出る風圧は隠すことが出来なかったらしい。だからライゼは持ち前の反射神経で拳が迫る風圧をいち早く察し、見えない拳を寸前で避けることができた。が、これだけではどうにもならないことをライゼは身をもって理解している。拳の速度が想定を上回った瞬間、次こそ間違いなく致命傷を負うだろう。
重要なのは、もうひとつ。二撃目、拳を食らうほどに近づいたから気づけたこと。
それは決して衛生的とは言えない湿ってこもり、混ざり合った悪臭の中を漂うほんの僅かな、しかし獣族が気づけるほどの違和感。
──清潔な洗剤の匂い。
「──がぶっ……ぐ、が……っ!」
理由はわからないが、一筋の血も許せないバルタザールは何度もシャツを洗ったのだろう。それこそ、洗い残した洗剤の匂いがこびりついてしまうほどに。
だから、それを辿った。見えずとも匂いのする方向へ、手を振った。ライゼの吐いた血が、たっぷりと溜まった手を。殺気などあろうはずもない。ライゼはただ、手を振っただけなのだから。
どす黒く変色した赤い汚れをバルタザールが受け入れるわけもなく、進行方向にあった汚れを回避しようと身体を捩じる。結果、それが致命的な隙となった。
「……この程度、お前ほどの男なら避けられたろうにな」
血など気にしないライゼの鋭く重い拳が、避けたバルタザールの脇腹へ追撃する形でめり込んでいく。内臓をかき回し胃をひっくり返し、肉を伝って骨へと到達する。ただでさえ足場が不安定な状態でそれをまともに受け止められるわけもなく、バルタザールの巨体は部下たちを撒きこみ、壁へと吹っ飛んでいく。
「ああ、悪い。汚したくないんだったか」
もはや血程度を気にしていられないほどの埃と汚れに塗れたバルタザールを見下ろしながら、ライゼは赤く濡れた己の手を雑に宙で振った。
誰かを守るために汚れる覚悟
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