86、白羊の言葉は何よりも重く
エイドリックの本性を前に逃げ出そうとする兄妹。しかし逃走するよりも早くエイドリックに見つかってしまい、彼の言葉を聞いた瞬間に意識を失ってしまう。エイドリックが何かしたのではないかと警戒を強めるアオイとガネット。しかしエイドリックは「命に別状はない」と言ってのける。彼の狙いとは。
何かされたと考えると同時に腕を突き出し、項垂れたままバランスを崩したマネキンのように倒れこんでくる子を受け止める。脱力しきった身体は小さくもズシリと重く、思考を横切った嫌な考えに額が濡れる。
「っ、大丈夫ですか!?」
「おいこら、シャキッとしな! ここでひっくり返ってどうすんだい」
慌てて手を口元へと当てれば感じる微かな呼吸音。どうやら意識がないだけのようでひとまず息をつく。が、問題は依然として続いている。兄の方をガネットが揺さぶっているが頭が乱暴に振り回されるばかりで返答はなく、俺の方も同じ状況だ。
「あまり乱暴にしないでくれる?」
エイドリックが割り込んでくる。そうすることが当然だ常識がないのかと声色に滲み出ている奴の顔には、さもそちら側が被害者かのようなうんざりとした表情が浮かんでいた。
「……何をしたんです?」
「収穫できるまでのところには来てるし、変な不具合でも残ったら困るし――」
「質問に答えなさい」
巨大な銃弾が破裂したかのような派手な音をあげてテーブルがひっくり返る。へし折れた木片と化した元テーブルの脚はしばらく不満げに床を跳ねまわっていたが、壁にぶつかりすぐに沈黙した。
腹立たしい。質問に答えないことにも彼らを収穫物のように扱ったことにも、そして行動の結果をどうとも思っていなさそうなところにも。同じ質問を繰り返しながら俺は手の中に再び水の塊を作りだす。
「彼らに何を? 命の危険はないのですか?」
「……し、収穫間際の果物を駄目にする馬鹿がどこにいるのさ。今は少し寝てもらってるだけ。何をしたかは、言う必要ある? 聞けばわかるじゃん」
どういう意味だ、と聞こうとするより奴の動きは早かった。エイドリックはこちら問いかけを待つこともなく握ったままのナイフを持ち直して刃を自身の腕の上へと置き、そして思い切り引き抜いた。
「なっ――」
傷は浅く、しかし裂かれた面積は大きく。鉄臭い液体が奴の腕から大げさに床へとばらまかれる。何のつもりなのかと俺はエイドリックの顔を伺う。が、目に入るのは気だるげに顰められた表情だけで、何の情報も得られない。
雑に放り棄てられたナイフがカランカランと床を滑り、俺の足元で止まる。切れ味の悪そうなでこぼこの刃が赤くべっとりと汚れていた。
「あーあ、やっぱり痛い。自分に使うもんじゃないな、これは」
「あんたが言ったことだろうに、頭がおかしくなったのかい?」
「……何のつもりです」
エイドリックは答えない。血に汚れた腕をぶらぶらと振りながら、薄ら笑いを浮かべるばかり。その不気味さに、身構えた時だった。
「……ぅ」
「! だ、大丈夫ですか?」
腕の中の子が身じろぐのを感じ、急いで視線を落とす。その瞬間、俺に抱えられている女の子が眩しそうに目を開いた。
「ぁ……ぇ、あ……?」
「あの、どこか痛いとことか、具合とかはありますか? 気分が悪いとか」
「……ぁ、ええと、」
女の子は二、三度目を瞬かせた後、キョロキョロとあたりを見渡す。そして驚きと怯えの入り混じった表情で俺を見上げ、おずおずと声をあげる。
「おねえちゃん、あの、だぁれ……?」
「え?」
「あたらしい、子?」
それはまるで、こちらを初めてみたかのような反応。本当に戸惑っているのだとわかるその声に嘘偽りは感じられず、思いがけない反応に俺は目を見開く。
「っ逃げなさい!」
一瞬、エイドリックの言っている意味がわからなかった。が、女の子は理解したらしい。流れている血から、いかにも痛そうにぶらりと垂れた腕から、そして俺の足元に転がった血濡れのナイフから。この場で誰が、誰を、傷つけたのか。
「ぁ、あ、あぁぁぁあああ!」
女の子の手ががむしゃらに動き、足元のナイフを拾い上げる。そして彼女はまるで当然のように、憎悪のこもった眼差しでそれを迷いなく俺に振りかぶった。
「っ、待って! 落ち着いて!」
「よく、も、よくも、エイドリック、さんを!」
「まっ……、はな、話を」
「なにが、はなし、よ! エイドリックさん、をきずつけ、て……なんで、ほうって、おいてくれ、ないの! わたしたち、が、なにを、したの!」
躱したナイフの刃先が勢いよく床にぶつかり、ガチンと刃こぼれする音がした。けれど今はその刃の恐ろしさより、彼女の発する悲痛な叫びが、声が、胸に痛い。
「どうして、どうしてどうしてどうしてどうして――!」
「――っ忘れたのか、あいつは、君たちの血を利用してたんだ! 聞いただろ!」
錯乱しているのだと思った。意識を失った影響で一時的に記憶が混濁していて、起こったことがうまく思い出せないのだろうと。だから多少荒療治だとは考えたが、率直に言葉にすることを選んだ。それが相手の、女の子のためになると思って。
「きい、た? なにを?」
彼女は本当に「何を言っているかわからない」という表情をしていた。俺が言っている意味を理解しかねるという顔。まるでさっきまで聞いていたことなど、全て忘れてしまったかのような。
その時、ふっと脳裏にエイドリックの放った言葉が浮かび上がる。確か、あいつはこう言っていた。
忘れろ、と。
「うそ、つき。そうやって、きいてもいないことをいって、わたしたちをだまそうと、して!」
「ああ、駄目だ! 逃げなさい! 今なら逃げられる!」
必死な叫びとは反対に、女の子の背後で歪んだ笑みを浮かべるエイドリックの姿を見て、理解する。羊の皮を被ったあの男が、幼い彼らに何をしたのか。こんな非道なことをしているのに何故似顔絵が送られるのか。
「まもる、の。わたし、わたしが、わたしがエイドリックさん、を、みんなを――!」
さっき起こったことなど、俺を見下ろす彼女の頭からはきれいさっぱりなくなっているに違いなかった。
命を助けられたのだから慕いましょう。守りましょう。忘れろと言われたのなら忘れましょう。
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