85、その男、ドブ川以下
突然エイドリックに襲い掛かられたアオイ。人のいい誘拐グループのリーダー、エイドリックの凶行の理由とは。そして国を蝕む「薬」の詳細な材料がついに明かされる。
※※※
迫る。使い込まれた光沢を放つ刃の切っ先が、俺の手の甲へと吸い込まれるように振り下ろされる。突然のことに手を引っ込めるという選択肢すら考えられず、頭に浮かんだのは「あ、刺さる」なんて他人事のような感想だけ。
驚きも悲鳴も、声にならなかった。そんな暇はあたえられなかった。
エイドリックが俺を殺そうとしている。そんな数分前の俺が聞いたら馬鹿にしそうな現実が、迫ってくる。
「――っとに、世話が焼けるねぇ!」
「ぐぇ!?」
「向いた得物をボケっと眺める奴があるかい、ド間抜け」
横からグッと襟を引っ張られ、喉から潰れた声がもれた。途端、衝撃でスローモーション状態だった目の前が急にスピーディに動きはじめる。ひっくり返った俺の視界に飛び込んできたのは呆れ顔のガネットと、――ソファーに深々と突き刺さった、ナイフの柄。
「さて、本音のとこを教えてもらおうかね。それとも、これがあんたなりの救いってやつかい?」
床に落ちたカップがけたたましい音をあげながら転がり、壁にぶつかって止まる。少し前まで湯気が出ていた飲料は薄汚れた水たまりと化し、エイドリックの靴が水音をたてた。
「…………失礼、後ろに危険な毒虫がいたもので」
「垂直に刃物振っといて後ろたぁ、思い切った言い訳だ。笑いすぎて泣きそうだよ」
「……」
「しかもとんでもないなまくらときた。手をぶッ刺すだけでもそれじゃあ苦労するだろうに、得物の手入れは教わらなかったのかい?」
ガネットの声に答えながら、奴はナイフを引き抜いていく。刃に引っかかったソファーの繊維は力任せに引っ張られ、ブチブチと千切れた箇所から黄色い中身が音もなくこぼれ落ちる。
エイドリックはその間、ずっと笑顔だった。俺と話していたときと同じ表情のまま自由になったナイフをくるりと手の中で回し、言う。変わらない柔らかな声で、
「……わざとですよ」
「あ?」
「だって切れ味が悪い方が――とっても痛いでしょう?」
奴は、隠すことをやめた。
「これだって石で傷をつけたり水にさらしたり、色々準備に手間取ったんですよ。それでもまだ全然、痛くない方ですけど。一応、初心者用ってやつです」
「――なん、で」
「なんでって……深層意識下で痛みに慣れられたら困るからですかね。ほら、大怪我を負った後に指をほんの少し切ってもギャーギャー言わないでしょう?」
「っちがう! なんで……なんで、あんたは――」
当たり前とでも言いたげな口調に悪寒が走り、小刻みに鳴りそうな歯を食いしばる。壁に飾られたほほえましい似顔絵の笑顔が、俺が一瞬でも信じた「子供を助けるエイドリック」の姿が、今はただ薄気味悪くてたまらなかった。
「……助けたいんじゃ、なかったのか? 言ったことは、全部嘘だったのか!?」
「人聞きの悪い。嘘なわけあるもんですか。僕は心の底から、奴隷になった子供たちを助けたいと思ってる。それこそ、心身ともに幸せであってほしいと願ってますよ」
心外とでも言いたげにエイドリックが胸に手を当てる。舞台役者のような、芝居がかった仕草は奴の容姿によく似合って、スポットライトでも浴びせたら悲劇の主役にでも見えたことだろう。
「薬を作るのに都合がいいので」
「――」
「知ってます? 女神の薬を作るには『恐怖に染まった子供の血』が必要なんです。ま、あの馬鹿は限りある資源を使いつぶして作ってるようですが、僕はそんなヘマはしないので」
「……まさか、お前、そのために、そのため、だけに――」
「恐怖が深ければ深いほど、薬の効能は強くなる。……一度幸せに触れればこそ、絶望も恐怖も、より強く刻み込まれるものでしょう?」
それでも、手に握られたナイフの違和感を消すことは叶わない。口角が歪に吊り上がり、不気味な弧を描いたその姿は子供らの似顔絵からは程遠く、しかしそれこそがこいつの本性なのだと理解する。
エイドリックを慕う兄妹の顔が思い浮かぶ。驚かせるのだと、喜ばせたいのだと可愛らしく考えていたふたりの笑顔。けれどこいつはそんなことなどきっとどうでもいいのだ。熟しただとか食べごろになっただとか、その程度にしか思っていない。彼らの信頼を、薬の為に踏みにじって傷つける。
エイドリックという男はどこまでも腐った野郎だった。その非道ぶりに血液が沸騰するほど怒りが湧き、またそんな奴を信じかけた自分の間抜けぶりにも腹が立つ。
「もちろん、あなた方のことが嬉しかったのも本当です。ほら、想定外に仕込みの手間が省けるのって嬉しいですし。奴隷は言うことを聞きやすくていいんですけどね、色々と慣れていていけない」
「……こりゃ、思ったより胸糞わりぃのが出てきたね。ドブ川の汚さの方がマシな性根だ」
ワントーン低くなった声で吐き捨てるガネットに「失礼だなあ」と返すエイドリックはどこまでも平坦で、淡々と変わりなく。バルタザールより幼く華奢で弱々しいにも関わらず、考えのまったくわからないその姿は、筋骨隆々のライオンよりもより不気味に、より恐ろしく映った。
「……でも、参りましたね。本当ならここで血をもらって、あの兄妹の分を収穫して終わりに――」
「ひっ……!?」
ソファーの後ろから聞こえた、小さく息を呑む音。ここ以外であればそよ風にすら紛れたであろうか細いそれは張りつめた空気の中ではやけに大きく響き、そして今一番聞かれたくないであろう人物の耳に届く。
「――――……、本当に今日はついてないなぁ」
一瞬にして、削り取られたようにエイドリックの表情が消える。それは兄妹がふたり、転がるようにソファーの裏から走り出したのと同じタイミングだった。綺麗な小石がふたりの手から落ち、床に叩きつけられて無残にひび割れる。
「……ぁ、は、はしっ、れ、はし……っ」
「ぃ……や、ぃや、ぁ、あ、ぁ……!」
腰が抜けた妹に俺が覆いかぶさり、這うようにして手を伸ばす兄の背をガネットが乱暴に叩いて部屋の出口へと押しやる。せめて、何もできないようにと。が、エイドリックは何もしなかった。ふたりに近づくこともナイフを振り下ろすこともせず。したことと言えばその場に立ち、兄妹に向かって指を向けてひと言、口を動かしただけ。
少なくとも、俺にはそうとしか思えなかったのに。
「――――忘れろ」
ふたりの首がガクンと電池が切れたように項垂れたのは、そのひと言を言い切った瞬間だった。
この男の性根、ドブ川以下にて
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