107、黄緑女神が大人を憎むのは2
それは地獄にもたらされた救いの手。新たな主人の手によって、救い出された双子の姉妹を待っていたのはまさに夢のような日々だった。優しい主人に、良くしてくれる使用人仲間たち。主人と双子の姉は両想いで、少女は浮かれる姉に呆れながらも幸せに浸る。そんな中、少女が聞いたのは屋敷で晩餐会が開かれるという話だった。
「見て見て! このネックレス、旦那様からいただいたの!」
「うん、似合ってる」
「ふふ、そう?」
日差しの下、目の前でふわりとほほ笑む姉を見て、少女は明るく弾んだ声を出す。饐えたような臭いも、それをごまかすような重い香水の匂いもない。ただ清潔な石けんと太陽の香りが鼻をくすぐっていく。
ふたりを引き取った地主の男は、少女たちを奴隷ではなく家の使用人として迎え入れ、今までとは比べ物にならない生活をさせてくれた。三食の食事に、ぼろきれではないきれいな服。そして温かな寝床。奴隷として生きてきたふたりにとって、それはまさに夢のような日々だった。
「本当に、なんで旦那様はこんなに良くしてくださるのかしら?」
「それ言うの、もう三回目。聞いたじゃん。街で旦那様がお姉ちゃんを見て、気に入ったって」
「あらあら、そうだったかしら? うふふ」
「まったく……。ほら、早く洗濯終わらせよ。勉強の時間がなくなっちゃう」
なんでも新人の使用人が辞めたばかりらしい。新しい主人は身分も気にせず親切にしてくれて、使用人仲間たちはよく働くふたりを歓迎し、暇な時には文字を教えてくれた。他所では酷い扱いを受ける使用人もいるというのに、ふたりが迎え入れられた屋敷ときたら類まれにみる好待遇ぶりだ。
ただ、少女には心配なことがひとつあった。
少女はちらりと隣を歩く姉を見る。思った通り、洗濯物を抱えているというのに、その足取りは雲の中を歩いているかのようで、顔は夢見る乙女そのものだ。
「それでね、旦那様がね」
「はいはい」
心配とは、この浮かれ切った姉のことである。少女の姉は最初こそ警戒していたものの、新しい主人の優しさに絆されて、あっという間に骨抜き状態になってしまった。あの張りつめた表情はどこへやら、口を開けば主人のことばかりだ。
これが姉の片想いならば注意もできようが、新しい主人も姉を想っているものだから嬉しいながらも困ったものだった。しかも主人は使用人相手だというのに好意を隠そうともしない。ひと目見た時から気に入っていたという姉にせっせと贈り物をし、人目も憚らず甘い言葉を囁く。おかげで姉は主人にすっかり夢中だ。
「そこでね、私の髪を撫でて『君の声はまるで小鳥のさえずりのようだね』って」
「わかった、わかった」
「あ、ちょっと! 真面目に聞いてちょうだいよ、もう」
少女は溜息をつく。こんなに良くしてもらっているのに、恋に熱中するあまり仕事を疎かにしやしないか、心配で仕方がない。しかし姉はそんな心配など気にしてもいられないらしかった。
恋い慕う者の目で晴れ渡った空を眺めながら、少し不貞腐れた表情を浮かべる姉は、長い長い惚気をこう締めくくる。
「もし、もしね。旦那様と一緒になれたら──私、ちゃんとしたお母さんになれるかしら」
「……なれるよ。お姉ちゃんなら」
新たな環境で何度も言うようになったそれを口にする姉の顔は幸せそのもので、少女はまた、注意するための言葉を呑みこんだ。今まで散々だったのだから、少しくらい浮かれたって罰は当たらないだろうと、そう思いながら。
「もう次の晩餐が決まったのかい?」
「ほら新入りのふたりの」
「ああ、ついに。どっち?」
「決まってんだろ、姉の方だよ」
ある日のことだった。再来月、晩餐会が開かれると聞いて、姉に伝えにいく最中のこと。少女は通りかかった使用人の部屋の前で、ヒソヒソと交わされる話を聞いた。その内容が自分たちのことを言っているということは、すぐにわかった。
自分たちのことで何を言っているのだろう、と耳をすませる。その瞬間、聞こえてきた内容に、少女は息を呑み、手で口に蓋をする。そうでもしなければ、叫んでしまいそうだった。
「可哀想に……」
「仕方がない。人食い領主様のご命令だ。あたしたちは従うだけさ」
屋敷は、深い森の中に建っている。いかにも人が寄ってきそうな人柄の主人を訪ねてくる人は誰ひとりおらず、主人が屋敷の外に出ることは滅多になかった。そして、自分たちの前で何も口にしなかった。
理解したくないのに、頭は勝手に理解を進めていく。正解を突きつけるかの如く、感じていた違和感の正体を埋めていく。
「ちょっとあんた、旦那様をそんな言い方。知られたら食われちまうよ」
「なんだい、何も間違ってないだろう。それに、あいつはこんな老人なんて気にもしないよ。この前と同じ、若い生贄に夢中なんだから」
辞めた使用人はちょうど少女たちと同じほどの年齢と聞いていた。彼らが使っていたという部屋には、不自然なほどにものが残っていた。
あんなにも優しくしてくれたのは。あんなにも歓迎してくれたのは。
騙されていた怒りより身がすくむ恐怖が勝って、少女は走り出す。叫び出したい気持ちは無理やり飲み下した。震える足を何度も殴りつけた。何より一刻も早く姉にこのことを伝えなければと思った。伝えて、目を覚まさせて、早くここから逃げなければと。
しかし、そこで思考が止まる。
逃げて、そして、どうすればいいのだろう。
「あらあら、どうしたの? そんなに慌てて戻ってきて」
森は道を知るものでなければ簡単に迷い込むほど深く、子供の足では抜けるのに何日かかるかわからない。その上、夜になれば恐ろしい遠吠えがあちこちから聞こえてくる。ふたりだけでは、とても太刀打ちできないだろう。少女の姉のことだ。もしかしたら自分が囮になっている間に逃げろ、と言いだすかもしれない。
少女は思う。その時、わが身可愛さに逃げ出さずにいられるだろうか。誰よりも守りたい姉にそんなことは言わせないと、本当に言えるのか。
「ねえ、本当にどうしたの? 顔が真っ青よ?」
「……顔」
少女は見てみろと促され、鏡に映った顔を見る。そこには言われた通り、真っ青で顔色の悪い、自身の顔が映っていた。形だけは姉によく似た、少女の顔。
それを見て、少女は思いつく。どうすれば姉は守れるか。
「……ねえ、私が幸せになれば何もいらないって言ったの、覚えてる?」
「え? え、ええ。覚えてる、けど」
「あれ、本当、だよね」
「もちろん! あなたが幸せなら、私は──」
「……ならさ、ちょうだいよ」
この顔を使えばいい。自分が姉になればいい。
「私、お姉ちゃんの幸せがほしいのだわ」
ニコリと笑った少女の顔は、姉に、とてもよく似ていた。
あなただけは守ってみせる。
女神の過去編、次でラストになると思います!ちなみに旦那様は勝ち逃げできません!
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