105、長い長い一日の終わりは夕焼けと共に
ついに決着。モモの一撃に沈んだエイドリックを縛り上げ、元の世界に帰す準備を整える。しかしエイドリックは大人しくするわけもない。そんな彼の前に現れたのは救いか、それとも。長い長い一日が、ようやく終わる。
「こ、これで、動かないですよね」
「……さすがにこの状態で動くのは無理でしょう」
足元には、サトルの手とライゼの怪力によってこれでもかとぐるぐる巻きにきつく縛り上げられたエイドリックが、白目を剥いた状態で梱包済みの荷物の如く転がっている。サトルは奴がまだ起き上がらないか不安そうだったが、歯は折れているし頭に強い一撃もくらっているしで、復活は難しいだろう。というかちゃんと倒れていてほしい。人として。
いちおう動かないことを確認してから、俺はようやく落ち着いて周囲を見渡す。エイドリックたちのアジトは、散々な有様だった。そこかしこに瓦礫が散乱し、申し訳程度にあった廃材の椅子やらテーブルは見る影もない。その上、飛び散った血や埃でそこらじゅうベトベトだ。とてもじゃないが、居住区として使い続けることは難しいだろう。
「戻ったよ。ったく、あたしをこき使うとは、あんたも偉くなったもんだね」
「どうでしたか?」
「……大方は転移者の嬢ちゃんに聞いた通りさね。っとに、胸糞悪い」
乱暴に扉を開けて部屋に戻ってきたガネットがガシガシと不機嫌そうに髪を掻く。どうやら、思っていたとおりの状況だったらしい。赤い目が嫌悪感たっぷりにエイドリックをギロリと睨む。
「酷いもんさ。牢屋同然の場所に子供らがぎゅうぎゅう詰めだ。最低限、怪我の手入れこそやってるが、それ以外は人らしい生活も送れなかったんだろうよ。本当に、こいつはろくな親じゃなかったらしい」
モモから教えてもらった通り、売られたり攫われたりしてきた子供たちの待遇は劣悪なものだったようだ。正直、聞いた段階である程度予想はしていたが、どうやら予想よりも状況は悪いらしい。
「……子供たちは、どうしてます?」
「まだこいつの暗示が解けてない奴が多くてね。混乱しないよう、一旦へやを移して待たせてる。……馬鹿な子らだよ。あたしの顔を見て、エイドリックの野郎がこないことを不安がってた」
薬を作る道具のように扱われて、それに疑問をもつたびにエイドリックの異能で記憶を弄られて、感情すら摘み取られて、なかったことにされる。繰り返されるそれは、子供たちに見えない深い傷を残したに違いなかった。
女神だというのに、思わず舌打ちが出そうになる。こいつのやってきたことは、人の所業ではない。心の底から反吐が出る。もっとぶん殴っておくべきだったかもしれない。
「ぐ、ぅ……、ぅ、ぁ」
「ママ、ママ……!」
何せ、奴の残した被害はあまりに多すぎる。
俺は傷つき倒れたバルタザールと、目を覚まさないシャムラン、そして彼女に縋るモモに目を向ける。皆、奴の被害者だ。過去を奪われ、守るべき子供たちを虐げられ、大事な相手を危険に晒した。
「おい、あまり近づいては」
「……本当は、意識が戻ってから、謝罪でも土下座でも、百万回やらせてからと思っていたんですけどね。ちょっと、無理みたいです」
ライゼが止めるのも無視して、エイドリックの傍にしゃがみ込む。やはり、こいつは一分一秒も、この世界にいるべきではないのだ。逃げてきた元の世界で、こいつはしかるべき報いを受けなければならない。俺の目が、届かないところで。
「これ以上、こいつにいてほしくない。ここにいるべきじゃない」
「……」
「すみません。ただのわがままなんです。私の」
「……お前が考えて、出した答えなんだろう」
「はい」
「なら、いい」
それ以上、ライゼが俺を止めてくることはなかった。手を伸ばし、エイドリックの額に指先を触れさせる。本当は触りたくなんてないが、俺の帰し方はどこか必ず、対象に触れていなければならない。
その瞬間だった。驚いたことに、奴の目が開く。
「…………ぐ、ぎ……な、に、する、き、だぁ」
もぞもぞと芋虫のように動く奴には、思った通り反省も後悔の色もない。ただ気に食わないものを睨みつける目には、他者を傷つけ踏み台にすることもためらわないような、どす黒い悪意だけがある。
「歯も、おりぇた、いて、ぇ、こりぇ以上、にゃにも、できね、ひでぇ、ひでぇ、よ」
「……これ以上、痛いことは何も。ただ、帰ってもらうだけなので」
「……かぇ、ぅ?」
「ええ。あなたがいた、元の世界に」
「───え?」
エイドリックが目を見開く。が、もう気に掛ける必要もない。陸に上げられた魚のように跳ねまわり始めた奴に、俺は意識を集中させる。
「ふじゃっ、ふじゃけっ、ふじゃけんなっ! あんな、あんな、場所っ、帰れぅ、かっ! 帰って、たまぅかっ!」
「……」
「いやだっ! やぇ、やぇてく、ぇ! つめ、てぇ、つめてぇ、よ、いやだ……!」
小柄な身体でガタガタと歯を鳴らし、涙を流す姿は実に哀れっぽく同情を誘う。けれど、ここにいる誰も「可哀想に」なんて思わないだろう。だってこいつはその手を叩き落とし、踏みにじったのだから。
エイドリックの目が助けを求めて辺りをさまよう。奴にとって最も恐ろしい結末から逃れるべく研ぎ澄まされたそれは、扉付近で動く、小さな影を捉えた。
「あっ、あっ、たひゅ、たひゅけ、たひゅけて……!」
「……!」
ひとりの子供が、扉の陰からこちらを覗きこんでいた。短い髪に、大人用のシャツをワンピースのように着た姿。その顔には、確かに見覚えがある。そうだ、あの子は、俺とガネットがエイドリックに襲われた際、部屋に来ていた兄妹の。
「な、ぁっ! きこぇ、てんだろ! たひゅけ、て、くれぇっ! なんれも、ひてやるっ! あたらひ、ふくもっ、食いもん、も、やる! これ以上ない、待遇っ、だぞ! なあ!」
「……っ」
「てめぇら、がぁっ、いきてぇ、いくのにぃっ、充分な金も、やるっ! なあ、おい! きいへ、んのか!」
子供は震えながらじっとエイドリックを見るだけで、何もしない。今まで下に見ていて、利用していた相手に、へりくだる。しかもそれを無視されるのは、エイドリックにとって耐えがたい屈辱だったのだろう。俺やライゼが止めるより早く、化けの皮は剥がれた。
「っ、この、恩、しらずっ、がぁっ! てめぇら、兄妹を、ひろった、のはぁっ、誰だと、思ってん、だっ!」
「……」
「ゆる、さね、ぇ。後悔、するぞ。おまえも、おまえの妹、も、めちゃくちゃの、ぐちゃぐちゃに、して」
「…………やっぱり」
やっぱり猿轡でも布でも噛ませて口を塞いでおくべきだった。そう思った矢先、聞こえてきた声に、俺は驚きを隠せなかった。
聞こえてきたのはか細く、高く、たどたどしい、女の子の声だったから。
「わたしたちの、みわけ、なんて。ついてなかったん、だね」
「───は」
「かみ、似合うからのばせって言ったのも、うそ。ぜんぶ、うそ。おおうそつきだ」
よく見れば、子供の髪は切れ味の悪いハサミかナイフで無理やり切ったかのようにガタガタだ。
兄とよく似た顔の妹は、エイドリックを見下ろしたまま、言う。
「バイバイ、うそつきのエイドリックさん」
まるで、奴の命綱からするりと手を離すように。
瞬時に、怒りからかエイドリックの顔が赤黒く染まる。が、罵声は響かなかった。開いた口は凍り付き、俺の声だけがよく響く。
「『女神アオイの名の元に、汝を元居た場所へと帰そう』」
「───! や、だ……、たす、け、フレイラ、さ──」
切れ切れの悲鳴が、エイドリックが発した最後の言葉だった。奴は言葉が終わった瞬間、眩い光に包まれ──消える。役目を終えたロープだけが、抜け殻のようにその場に落ちた。
静まり返った部屋の中、ライゼがポツリと呟く。
「終わった、か」
「はい。終わりました」
振り返り、頷く。そう、終わったのだ。長い長い一日が。
アジトの薄汚れた窓から見える、眩しい光に目を細める。来たときは真夜中だったはずの空は、今やすっかり暮れる寸前の茜色。
「やることは山積みですが……とりあえずみんな一旦、休みましょうか」
「……そうだな。それがいい」
全員ヘロヘロだ。俺は力の抜けた笑みを向け、ライゼと小さく拳を合わせる。
ひとりの転移者が原因で生まれた大騒動は、夕焼けと共にようやく幕を閉じたのだった。
やりたい放題の終焉は、夕焼けと共に。
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