きつねの涙
そのきつねのすみかは、森のみずうみのすぐ側にあります。きつねは、ひとりぼっちで暮らしています。
きつねが小さい頃、まだきつねのお母さんが生きていた頃は、仲間がたくさんいました。しかし、森が伐採され、川が汚れていくと、きつねの仲間は一匹、一匹と姿を消していきました。
きつねときつねのお母さんはみずうみが大好きだったので、森の最後まで、ここにいようと決めました。いつのまにかみずうみの周りには、きつねときつねのお母さんの、2匹だけになりました。そして、今は、きつねだけが森で暮らしています。
きつねは、毎日みずうみをのぞき込みました。
きつねはふしぎに思いました。
みずうみにはだれかが映っています。きつねが手をあげると、目の前のだれかも手をあげます。きつねがふわふわとしっぽをふると、目の前のだれかもしっぽをふります。きつねが、「どうして真似をするんだろう?」と首をかしげると、目の前のだれかも同じように首をかしげるのです。
だれかを見ていると、きつねは少しだけ、寂しくなくなりました。
もう一つふしぎなことがありました。
最近、みずうみには小さな女の子がお花を摘みに来ます。
とてもとても、かわいい女の子です。
きつねは、どうもその女の子を見るとそわそわして、居ても立っても居られない気持ちになりました。
けれど、その気持ちがなんなのか、きつねは知りませんでした。
だから、きつねには、その気持ちがなんなのかが不思議でなりませんでした。
それはある晴れた日の午後、おだやかに水面が揺れ、もう一人の自分の顔が少しゆがんで見えた時のことでした。
その日もまた、女の子が来ていました。
いつもどおり、みずうみの周りでお花を摘んでいます。
きつねは、自分が喋れないことを悔やみました。
もっともっときれいなお花が咲いているところを、ボクは知っているのに!
けれど、きつねは女の子に、そのことを伝えることが出来ません。
茂みから、こっそり女の子を覗くことしか出来ませんでした。
きつねがしょんぼりしているあいだ、女の子はひときわきれいなお花を見付けました。お花は、みずうみのふちに咲いています。
「このお花が欲しい!」
そう思った女の子は、しゃがみ込んで、手を伸ばしました。
そして、その瞬間、女の子はバランスを崩して
ボシャン!!
大きな水しぶきがあがりました。
女の子がみずうみに落ちてしまったのです。
その音を聞いたきつねは、あわてて女の子が落ちた場所に駆け寄りました。
みずうみは、小さな女の子にとっては、とても深いものでした。
1人で岸に上がることなど出来るはずがなく、女の子はきつねの目の前で苦しそうに溺れています。
けれどもきつねはしょせんきつねです。
泳ぐこともままならないのに、きつねの小さな体で人間の女の子を助けるなんて、とうてい無理なことでした。
その時、きつねはあることを思い出しました。
死んだきつねのお母さんは、きつねが小さい頃にこう言っていました。
「きつねは、たった一度だけ人間に化けることができるの。」
しかしきつねは、その方法を知りません。お母さんは、方法を教えてはくれなかったのです。
女の子は、ついに力尽きて、沈んでいきます。
どうすることも出来ないきつね。
きつねは「人間になれたら」、と強く思いました。
すると、その瞬間、きつねは男の子に化けていました。
きつねが人間になる方法は、強く願うことだったのです。
きつねはみずうみに飛び込みました。
泳いだこともないのに、泳ぎ方を知っていました。無我夢中で潜りました。
気が付けば、使い慣れない手で女の子をつかんでいます。
きつねは急いで光のさす方へと上がっていきました。
きつねは、女の子をそっと地面に寝かせました。
それからしばらく様子を見ていたけど、女の子が動かないのに気付きます。
きつねは女の子の胸のあたりにゆっくり手を置きました。
「おねがい、目を開けて」
自然と口から言葉が漏れました。
すると女の子はちょっと顔をゆがめて、それから目をあけました。
きつねは驚きました。
女の子は、きょとんとして、それからはっとした表情になって、にっこり笑いました。
「あなたが助けてくれたの?」
きつねは頷きます。
「ありがとう。」
女の子はそう言ったあと、続けて「服がびしょびしょだわ。早く帰って着替えなくちゃ・・。お礼がしたいから、あなたもいっしょにこない?」ときつねに言いました。
きつねは悲しそうな顔で首を横に振ると、一目散に茂みの中に飛び込みました。自分がきつねだとわかったら、女の子は驚いてしまう。そう思ったら、体が勝手に茂みの方へ動いたのです。
しばらく時間が経ってから、みずうみをのぞき込んでみると、そこに映っているのは、いつものきつねの姿でした。
それからも女の子は、みずうみにやってきました。
そわそわするようなふしぎな気持ちは、日に日に強くなっていきました。
むねの辺りがチクチクして、なんだか悲しい気分になります。
きつねは、女の子を見つめていることしか出来ません。
だから、そんな自分とは、さよならしようと思いました。
きつねは、女の子におそるおそる、そっと近寄りました。
女の子は、まるでそうするのが当たり前のように、優しく・・きつねがもう使うことの出来ない「手」で抱き上げてくれました。
そして、きつねがもう使うことの出来ない「声」で、優しくきつねに語りかけてくれました。
「わたしね、わたしを助けてくれた男の子を探しているの。」
すぐに、女の子が探しているのは、自分のことだと分かりました。
「お礼をちゃんとしたかったの。」
女の子は悲しそうにそういいました。きつねも悲しくなりました。みずうみに映った1人と1匹は、同じくらい悲しそうな顔をしていました。
きつねはその日から、女の子が来ると、そばに駆け寄るようになりました。
もうみずうみに映る自分には興味がなくなりました。とにかく一分一秒でも多く女の子に抱かれていたいと思いました。そわそわして、どきどきする気持ちは、いつのまにかあたたかな気持ちに変わっていました。
ある日、女の子は、いつものように花を摘むことをせずに、きつねに一枚の紙を渡しました。
「助けてくれてありがとう」と書いてありました。
きつねはその紙をくわえて、"もしかしたら、自分があの時の男の子だと分かってくれたのかな?"と思いました。むねの辺りがどきどきしました。
だけど、すぐに、"そんなわけないじゃないか"と思い直しました。
女の子は言いました。
「あのね、私はお母さんのお見舞いのために、花をつみにきてたの。お母さんがこのみずうみの近くの病院に入院してて、私も病院の近くのにせもののおうちにすんでいたの。ほんもののおうちはもっと遠いところにあるの。」
女の子は泣き出しました。
きつねには、女の子を抱きしめてあげるための、腕がありません。
いつも女の子が、きつねにしてくれたように、頭を撫でることもできません。
きつねは、ただ見ているだけでした。
「でね、今日、ほんもののおうちにかえらなくちゃいけないの。お母さんは、遠いところにいっちゃったの。私はほんもののおうちでくらさなくちゃいけなくて、もう花をつまなくてもいいんだって。」
女の子の目からは、大粒の涙がこぼれ落ちています。
きつねは、やっぱり見ているだけです。
「だからね、きつねさんともお別れなの。本当はきつねさんにはこういうことわからないんだよね?でも、なんだかきつねさんには話して起きたかったんだ。ふしぎだね」
きつねは女の子をみて、こくりと頷きました。きつねは、女の子の気持ちが、よく分かりました。大切な人がいなくなる気持ちを、きつねはよく知っていました。
「ボクもだよ。ボクがいるよ」
言葉が声になることはありません。
「あのね。きつねさんはなんかあのとき助けてくれた男の子と似てるの。
水の中で、男の子は優しくわたしの手を握って、助けてくれたの。ずっと、ゆめに見てるの。あの時の、男の子のこと。男の子の手は、水の中でも、あたたかかったの。その手の感じと、きつねさんを抱いているときの感じがね、すごく似てるの。」
そういうと女の子はきつねの頭をゆっくりなでました。
「もしも男の子に会ったら、この紙を渡してね。」
女の子は最後にもう一度だけきつねをなでました。
これが、ほんとうにほんとうの最後でした。
きつねは心の中で「ちゃんと、男の子に、ボクに届いたんだよ。女の子の"ありがとう"の気持ちも、伝わってるんだよ。」と叫びました。だけど、声にはなりません。
女の子はきつねを腕の中から解放し、「ばいばい」といいました。
仲間がいなくなった時も、お母さんがいなくなった時も、きつねは悲しい気持ちになりました。
だけど、今は、それよりずっとずっと悲しい気持ちでいっぱいです。
もう会えない女の子を思って、きつねは泣きました。
きつねの涙は、みずうみにぽつん、と落ちました。
だけどみずうみはきつねの心のように揺れていたので、きつねの涙はその波に飲み込まれてしまいました。
揺れた水面は、きつねのほおをつたう涙を映しませんでした。
きつねはひとりぼっちでした。お母さんも、仲間も、女の子もいないみずうみにひとりぼっちでした。
だけど、きつねは、ずっとみずうみで暮らしていました。
今日もきつねは、みずうみをのぞき込んでいます。
いつものように、だれかがきつねをのぞき込んでいます。
風が吹いて、水面が揺れました。
だれかの顔がくしゃくしゃになります。
きつねは、眠気に誘われるように、みずうみのふちで横たわりました。
そのまま、ゆっくりと眠りにつきました。
きつねは、男の子の姿で、野原を駆けまわっています。
女の子が、男の子をおいかけます。
きつねは、そんな夢を、見ていました。
だからもう、寂しくはないのです。
安らかな、眠りでした。
きつねを、あたたかな風が包み込み、連れ去っていきました。
そのきつねのすみかは、森のみずうみのすぐ側にありました。きつねは、ひとりぼっちで暮らしていました。
森の伐採が中止になりました。川の水をきれいにするための運動が始まりました。自然は大切に守られるようになりました。
きつねの仲間たちが、1匹1匹と、森に戻ってきました。
みずうみのそばには、小さなお墓がありました。
きつねの仲間たちは、そのお墓が誰のものかを知っていました。
今日も、女の人が、みずうみに花を摘みに来ます。
小さなお墓は、仲間たちが拾ってきたきのみや、小さなお花で溢れています。
みずうみに、女の人の声が響き、仲間たちは周りをはね回ります。
そこには、優しい時間が流れていました。
あたたかな風が、そっと、水面を揺らしていきました。
初稿:2003/
改稿:2005/10,2008/2/27