幕間 神/エル/エルキドゥナ
真っ白な空間。暑くもなく寒くもない、心地よい居場所。憂いもなく恐れもない、満ち足りた全て。
柔らかい光がすべてを包む。まるで抱きしめられているようだった。
「君なら辿り着いてくれると信じていた」
意識が明瞭になる寸前に聞こえた声は、男とも女とも取れるものだった。導かれるように鮮明になる思考に合わせて、視線を向ける。
長い 萌黄色が揺れる。足先まで伸びるほどの艶やかな髪は、風が吹いてもいないのになびいている。この世のどれにも似ていない、不思議な白い衣装に包まれたその生き物は、人と呼ぶに相応しい形をしている。
けれど、それが人間でないことをモルヴィアナは瞬時に理解した。
【ナビゲート】は機能をとめたらしい。頭の中で命じても、今までのような情報が開示されない。
「ああ、すまない。権限をそのままにしていたね」
その言葉に反応するように【ナビゲート】が起動する。レベル5と記された文字は何だか金色に光っている。
今まで通り動き出した【ナビゲート】が情報を表記し始める。
──エル/エルキドゥナ。この世を統べる、女神。
「女神様……?」
「この世界の人はそう呼ぶ。私に雌雄の違いはないので、好きに呼んでくれていいよ」
この世界の誰もが知っている御伽噺。この世の全てを作った世界樹の主。──エル様。
モルヴィアナがそう認識した途端、背景のない世界に色が着く。果てが見えない地面には草が生え、目の前の生物の後ろには大きな木が生えていた。
今まで目に映らなかったことが、信じられないほどの大木。呼吸と同時に微かに漂うのはこの世に存在するどの魔力とも馴染みのない、複雑な匂い。本能で、それが古代魔法であることを理解する。
母、アーデルハイドが使うとされた 焱の魔力。いやでもわかる。
この存在は、モルヴィアナ等とは次元の違う──神なのだと。
微笑みの感情は読めない。
モルヴィアナはこの世で初めて、未知という恐怖を知る。
「恐れないで。最早何の力も持たないただの神。──君の力を借りねば意思疎通すら出来ない、過去の遺物だ」
「……ずいぶんな言いようですね」
「すまないね。だが全て事実だ」
【ナビゲート】にもそう書いているだろう?──飄々とした神様は、まるでモルヴィアナの画面がわかっているかのような口ぶりだ。
だがそのどれもに敵意が無いことは見てとれる。
そういえば以前同じようなことを思った気がする。国立図書館で出会った召喚獣とかいうふざけたジョブを持つ男の前で。
「ああ、ユリウスのことかな。いつも適齢期になると彼には確認してもらっていてね。言っていたろう、御使いだと。それ以上でも以下でもない」
ユリウス・ビチェ。図書館で見かけた得体の知れない男。あれ以来モルヴィアナの前に一向に姿を出さない、【ナビゲート】の存在を知っているような口ぶりの男。
どうやらそれも、この目の前の神様の思し召しということらしい。
先程まで裁判場にいたと言うのに、ここはこの世界のどこよりも穏やかな時間が流れている。いつの間にか周囲は森に変わっていて、遠くの方で水の音が聞こえた。
小鳥が集まって、エルキドゥナと名付けられている神様の肩に止まる。
モルヴィアナが何よりも驚いたのは、目の前の髪を名乗る人物の姿が、自分が作ったゲームに出てきた神様と姿が瓜二つだったことだ。
「君にとっての神様の形がこのような姿をしているだけだよ」
「……どういうこと?」
「姿は重要では無いということだ。──まずは、初めから説明する必要があるね。だが時間はあまりない。君が一時的に権限を解放できたから、そのボーナスラックというやつさ。君が作ったゲームでもそうだったろう? 初めのご挨拶は生身で……素晴らしい提案だと思う。おかげで、こうして君と話ができる」
──ゲームを知っている。
つまり、この神は。
「私のすべてを知っているのか?」
「もちろん。君が言う、前世というのも含めて、私はすべてを知っているよ。君が心からシェリルを慈しんでくれたことを、嬉しく思う」
「……どういう意味」
モルヴィアナの一番大切な子の名前を呼ぶ。いとも簡単に。シェリルの名を知っている、神と名乗る男。
シェリルを救わない男。
「──かねがね、君の想像通りではある。私はシェリル・ド・ラグランジュを救えなかった無能な神。厳密には、その能力を有する器、と言ったものだ」
「神ではない、と?」
「いや。神ではある。私の固有名はエル。眠りについた女神エルキドゥナが残した女神の概念」
「まぁ、そうであってほしいな。この世界で自分の名をエル、だなどと呼ぶのは余程の気狂いか本人だろうし」
世界樹エル様。誰もが知っている 御伽噺に出てくる創世の神様。エルの名はこの世界で至高のものとされ、建国の八公にだけ"L"の名を名乗る権利が与えられた。
だからエル、だなんて自称するのは正気の沙汰ではない。モルヴィアナですら知らずのうちにその常識に沿った行動をする。
ぞんざいな返答にも憤る様子はない。無能な神への罵倒にも特に堪えた雰囲気もなく、何処か穏やかな笑みを浮かべている。心の底から自分の評定が正しいと理解しているらしい神様は自虐なのか分からない声色で「狂っているのは同じかもしれないね」と嘯いた。
「聞きたいことは多いだろうがすまない。元々私はデータのようなもの。時間があまりない。君が現状を納得できる情報だけを授けにきた」
まず質問だ、と神様は言う。鳥たちの囀りを聞きながら、神様は指先にまた一羽、小鳥を休ませた。
「君は向こうの世界を自分の世界だと思うか?」
「……異世界転生という話、だとは思っている」
そうか、特に感情のない声が響く。どうやらモルヴィアナの答えは間違っていたようだ。ならばここは異世界ではないということ。
ここは、あの世界と地続きにあるのだろうか?
「そもそもの発想が逆なのさ。君は、元々モルヴィアナ・ラングランなんだよ」
「……? それは、どういう?」
何を馬鹿なことを、と続ける前に次の質問を向けられる。
「君は、向こうでの名を思い出せるかい?」
「そんなの、普通に……」
名前を思い浮かべようとして、動きを止めた。開いた口のまま、何と述べるべきかが分からない。
言われてみれば、モルヴィアナは自分の名を思い出したことがなかった。この世界に馴染んでから、モルヴィアナという名がしっくりくるからだと思っていた。でも良く考えれば、初めから何も思い浮かばなかった。
──私は向こうで、何と呼ばれていた?
その疑問にも、即座に答えは見つからない。
モルヴィアナの様子を伺いながら、神様は勝手に頷いて続きを話す。
「君が見た夢はこの世界が辿る未来だ。君はシェリルが死ぬところまでの夢しか知らないね。それは、この世界の仮定された未来をそこで留めているから」
「私が見た夢が、本物だと?」
「君が夢に見た全てはこの世界で起こるだろうと仮定されている事実。現時点では、と付けて欲しいところだが」
モルヴィアナは初めて、思考が追いつかないという状態を知った。【ナビゲート】には目で追えないほどの情報が記されて、でもそれを解読するほどの余裕が無い。頭の中に流れるのは、長い間見続けた愛しい夢だった。
エルキドゥナの手がモルヴィアナに伸ばされる。モルヴィアナと視線を合わせるように、彼または彼女はしゃがみ込んだ。
「君の役割は本来、愛し子を守るための私の代行者だった。アーデルハイドは天啓を受けて君を産むために地上におりた。もちろん、本人はそんなことを知らない。そのつもりがなくてもそのように収束する。それこそが運命と言われるものなのだ」
母の話をする父を思い浮かべる。
「君は生まれ、育ち、シェリルと順調に出会い、シェリルは救世主としてこの世界の淀みを浄化するはずだった」
一人ぼっちで会場に来た、シェリルの背中を思い出す。
「だがシェリルはラグランジュの因習により闇の魔力しか使えなくなり、お前は五歳に満たぬうちに死んだ。シェリルは絶望し、闇魔法で世を破壊しようとさえした」
あの日、母親にぶたれても気丈に振舞った彼女の顔を、思い出す。
「愛し子が、愛し子を打ち倒すなどと言う、恐ろしい結末だけは避けねばならなかった。このままでは愛し子達の魂さえが影に取り込まれてしまう」
「影って何」
「君たちは魔王や邪神と呼んだりするね」
「止められないの?」
「既に時計の針は進められていて、どう足掻いても君は死に、愛し子は影に取り込まれる運命だった。私が出来たことは、終わりを始まりと繋ぎ、破滅をできるだけ遠ざけることだけ」
これらの現象を、ループと言うらしい。
モルヴィアナが今まで前世だと思っていた世界こそが異世界だったと言うわけだ。
「つまり……この世界でシェリルは何度も死んだということか」
小鳥たちに口付けを落とすと、エルキドゥナの内側に解けていく。ここにあるものは全て世界樹エルの一部だ。森も、川も、鳥も、モルヴィアナの思考を読み取り、古代の魔法を展開させているだけ。
「アーデルハイドの中にいる頃の君は、神であり人間であり、神でもなく人間でもなかった。何者でもない君の形は、影の呪いに抵抗することが出来た」
「影の呪い?」
「この世のすべての人達が等しく影響を受けるもの。未来をねじ曲げ、運命を変えられてしまう恐ろしい呪い。君もいずれ感じることになるだろう、シナリオを変えられないという呪い」
長いやり直しを経て、ようやくエルキドゥナはモルヴィアナの魂に触れることが出来た。そうして送ったのが、あちらの世界というわけだ。
そう、送った。神様がシェリルを助けるために呼び出した仮初の異世界。それが地球と呼ばれるあの星だった。
「まさかそんな奇跡が起こるとは思わなかった。なんでも良かったんだ。既に可能性は決められていて、私たちは決まった道筋しか歩めない。幾度のループの中で魂は消耗していく。そんな時君は人間となった。だから、君の想像力にかけた。君に、違うシナリオを描いてもらいたかった」
そうして現状打破のきっかけを見つけた世界樹エルは最後のチャンスとばかりにモルヴィアナにストーリーを作らせた。大事なのは可能性を作ることだと言う。今この世界にはシェリルが幸せになる可能性がないのだと。
思い返せば、無茶振りしてきた上司の顔を思い出そうとしても、波打って上手くいかない。モルヴィアナの作品を台無しにした女や、作画担当の作家の顔は思い出せるのに。
それが世界樹エルの差し金と言うのだから笑ってしまう。なんでも知っていると思っていたのに、モルヴィアナは世界のなにもかもを知らないらしい。
むしろ前世こそが異世界転生というやつなのだ。
「それも、影に見付かって最後は台無しになったけれど──でも、君は生き延びた。キミが向こうで手に入れた新しい価値観は、君を守った。こうして、ようやく出会うことが出来た」
立ち上がった神様は、モルヴィアナの視点からはとんでもなく大きく見えた。美しく、穢れのない、皆が信仰する神様。
でもその表情には、深い悲しみが刻まれていた。絶望を背負った神はなおも続ける。
「最早私のことなど憎むに値するだろう。勝手に夢を見せて、勝手に愛し子のための人生を歩ませた。だが私はそれしかない。──モルヴィアナ・ラングラン。公爵家の名誉を取り戻した君になら、きっとやり遂げられるだろう」
残りの鳥たちは消え、穏やかだった世界には冷気が吹き込んだ。命豊かな森はいつの間にか雪原のようなものに変わる。
柔らかな日差しの午後だった世界は、吹雪の夜に変わっていく。
エルキドゥナの体にはいつの間にか無数の茨が巻きついていた。皮膚に食い込むように深く、黄金の血が流れてるのを呆然と見る。
「お前、ッ……それ!」
「ああ、もう見つかってしまったか。久しぶりに人の子と顔を合わせて話せたものだから、少し興が乗ってしまった」
まるで驚くべきことではない、と言いたげな表情のまま、黒い茨の中に引きずり込まれていく神様を、ただ見ることしか出来ない。慌てて駆け出して茨を切り倒しても、次から次へと生えてきて、次第にはモルヴィアナの方まで巻きついてくる。
「お前の欲しいものは私だろう。 誓約を破るつもりか?」
モルヴィアナを見つめていた神と同じ人物とは思えない声色で、エルキドゥナは茨に問いかける。瞬間、モルヴィアナを取り巻いていた茨は勢いをなくし、そのまま枯れ果て地面に帰っていった。
──どうして。
ここは神様の心の中。誰も入ることの出来ない、完璧な牢屋。
モルヴィアナは尚も懺悔を繰り返す神をみた。視線は合わない。神様は、合わせる顔がないと思っていたから。
「影は元々私が切り離した一つだった。自分の力を軽視した結果、私であって私で無いものになってしまった」
全て自分のせいだと言わんばかりに。
罰を受けてなお、神様は穏やかに笑う。
「影はこの世界に根を下ろしすぎた。最早エルキドゥナは彼に対抗する力もない。私たち神にできるのは、君の行先に祝福を送ることだけ」
やけに自虐の多い神様だな、と思った。【ナビゲート】の通知には様々な【クエスト】が現れて、モルヴィアナにシェリルを救わせようとしてくる。
「さぁ、ここも時期に影の領域になるだろう。必要なものは渡した。その瞳は、君なら使いこなせるだろう」
そんな、今更。
「さっきから【ナビゲート】が煩い」
──私を何も分かっていない愚鈍な神様。
「勘違いしているようだから教えてやる。私は私の気持ちでシェリルを愛した。家族を愛した。今まで生きた。別にお前のせいなんかじゃない。自惚れるな。私は、私が見た夢の中で、シェリルだから好きになった。私がシェリルを愛するように、お前が仕向けたんじゃない。私が、自分の意思で、この結末を変えようとしたんだ」
力強く言いきられた言葉に、エルの顔が歪む。泣きそうな顔なのだというのを理解する頃には神様の表情は取り繕ったものに戻っていた。
「道行く君よ。我が代行者よ。最後に、いいことを教えてあげる。君が死ぬ気で覚えたD言語は列記とした 竜 言語なんだ。コードさえ覚えていれば普通に使えると思う」
──ああ、あの。私が上司を何度も殴り飛ばしてやろうと思った、例の数式。
見たことも聞いたこともない文字列を並べられて、本当に意味が分からなかったけれど。
「今まで絶望だかなんだかしてたみたいだけど、観念することだ」
それがシェリルの幸せに繋がるのであれば、あの苦しみも救われるというものだ。
「私はきっとやり遂げる。この世界で私が一番の悪女に正しく 簒立 ってやる。指くわえて一等席で、見ていなさい」
モルヴィアナの宣言に、エルキドゥナはようやく、ホッとしたように笑った。
そうして、深緑に包まれた世界が一転する。スローモーションで朧気になっていく。混ざりあった世界の魔力が霧散し、また収束する。
楽園は閉じられた。指先から先は別の世界となった。
──君に頼んで、本当に良かった。
情けない神様は、そう言った。
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