幕間 デイビッド・ラングラン(2)
「デイビッド……ほう、"愛される者"か。良い名だ。誇ると良い」
「……貴方は何者だ?」
赤髪の少女はもったいぶった手つきで腕を組んだ。炎を背に背負いながら優雅に会話に耽ける姿は異様だったが、彼女がそうしたいのであればそうすべきだと思わせる何かがあった。
「おっと、名乗らせておいて名乗らぬのは恥よな。……アーデルハイド・ルージュドラグーン。この地に遣わされた"救世主"とでも言っておこう」
ぱっちりとウインクを見せながら、その身を翻した。彼女は後に──"炎の戦乙女"と名を馳せることとなる。
視線が合った瞬間に服従していた。心は完全に彼女を求めていたのに、燃え上がる戦場とあまりのタイミングに上手く言葉にすることは出来なかった。
長らくまともな人付き合いをしなかったことを、こんな瞬間に後悔するなんて。いつの日にかベルモンドが言っていた、「いつか運命の人に出会った時に後悔するぞ」という言葉を思い出す。
その通りだった。
口下手な私は彼女に賛辞ひとつ送ることが出来なかった。この心の形を上手く伝える方法を学んでこなかったのだ。
群がる敵国の大軍を前にして三日三晩寝ずに戦い続けた。唯一背を預けられたアーデルハイドに、恋をしたのだと気がついたのは全てを無に返した焦土の上でアーデルハイドと私だけが生きていた時だ。
アーデルハイドはその見た目の通り特別な少女だった。人間をあまり知らず、発言は常識をゆうに超えていく。当たり前のように語る彼女は徐に「私が神だ」と宣言した。
「……すまない。何を、言っている?」
「お前、信じてないな? 本当だ。私は御使いとしてこの地の制定に来た。お前の元にも啓示が言っただろう? リンガーラッシュでトドメをさせと」
「そこまで直接的ではなかったが、シャンヴァルス侵攻をリンガーラッシュで食い止めろとは言われた」
啓示があったことはベルモンドにしか伝えていない。だからこそベルモンドは惜しみながらも私を送り出したのだ。
「同じことだ。神聖なる境界線を勝手に侵すことこれ即ち死、あるのみ。ルールを破るものには破滅しか与えない。──神とはそういうものだ」
はっきりと言い切ったアーデルハイドはまだ信用していなさそうな私の姿を見たあと、「しょうがないな」と拗ねたように頬を膨らましながら竜になった。周囲の魔力をまきあげて高貴な光に包まれた彼女の形が変わっていく。
──竜だ。……竜がいる。
『これでわかったか? 人間。私こそが御使いに選ばれし今代の炎の神竜なのだ』
吐息ひとつで人を威圧できるような恐ろしさをまといながらも、私の中にあったのはやはり愛しさだけだった。彼女の本当の姿を見たとき、確信したのだ。
私は彼女を愛している。──彼女も私を愛するようになる、と。
運命にしては強引だったのかもしれない。"特別な子"を産むための神の采配だったのかもしれない。
でもそんなことはどうでもよかった。
出会ってしまった。愛してしまった。
竜となった彼女の牙を見た。口を開けて咆哮を上げる。きっと私が怯えるのを待っていたのだろう。楽しそうに彼女は私を弄ぼうとしている。
「……触れても?」
『特別に許可してやろう』
「有難く頂戴する」
初めて触れた好きな女の肌は鋼鉄のように頑丈な滑らかな肌触りをしていた。
好きだ。告げたのはその一言で、驚いたアーデルハイドは変化を解いて呆れたものを見るような目で私を見ていた。
◇ ◇ ◇
「ディーが突然竜に乗って帰って来たと思えば、とんでもない美女を連れてきてるし、更に二人で連合軍を焼き払った上にリンガーラッシュは炎上して二度と使えないとか言うし、果てにはその美女が神様で、神竜と結婚したいから爵位を寄越せと言われても俺にも許容量という物があるんだが?」
アーデルハイドの背に乗って王都に戻ってきた時には酷い騒ぎだった、とベルモンドが嘆いている。王座に座るベルモンドの隣には王冠が乗せられたサイドテーブルが用意されていた。赤い布地に包まれたそれは完璧な魔法結界により守られている。
王家より伝わる王冠と王笏を滑るベルモンドは私がシャンヴァルスに出向している間に王位を継承したらしい。通常王位というのは王が崩御なされてから受け継がれる物なのだが、此度の"騒動"がかかりつけ医の斡旋をしたロックウッド宰相が関わっていたことがわかり、王宮の歪みを正すために無理矢理交代したようだった。
宰相は建国の八公でもあるロックウッド公爵家の出で、明確な繋がりを証明できなかったため数ヶ月の謹慎で済むようだ。その間に新たな王家で要人を任命する方向なのだと言う。
「神だということを大々的に告げるのは問題がある。然るべき時に神の意思の元でしか身元を明かせないのでな」
「アデルがこう言っているので"救世主"として神に遣わされた乙女とでも記しておくといい」
「話聞いてた? 許容量があるんだよ、俺にも」
王宮のいざこざもある。このタイミングで王城に竜が降り立ったラペンドルドは吉兆の証か災厄の証かを見定めているところだった。
アーデルハイドは無礼な人間共だ、と無辜の民を批判した。神にとっては吉兆か災厄か等はどうでもいい采配のようだ。主神である世界樹が命じたことこそが正しいことだと思っている。
神の機嫌を損ねるわけにはいかないベルモンドは躊躇いなくアーデルハイドに頭を下げた。
「まずはレディ・アーデルハイド。此度の活躍に心よりの感謝を。ディー……この男は大切な国の宝です。そして私の側近でもあります。彼を亡くして我が王国は成り立たない」
実際に私は近衛兵として務める王太子の護衛騎士であったが、王室管理局の名誉騎士でもあった。国境近くの警備に辺り、争いの火種を事前に積むことを五つくらい重ねてしまい、既に公爵と護衛騎士の身分があった私への報奨に迷った末にそう落ち着いた。
国王とはお目通りが叶う程度の親戚付き合いだったが第一王位継承権を持つ王子と仲良くなったばかりに将来的な絆も加味して先に肩書きだけ上げられてしまったのだ。
ベルモンドが国王陛下になられたのであれば、私は間違いなく式部卿としてベルモンドの傍に使えることとなる。
「で、あろうな。デイビッドの体には人の身に入るはずのない魔力が詰め込まれている。文字通り詰め込まれているのだ。此度の戦で発散出来て、むしろ良かったな」
私を幼い頃から悩ませる困った体質を一目で見抜かれて思わず言葉に詰まる。
「だが安心するがいい。私が来たからにはもう身を滅ぼす魔力を恐れることは無い」
「私は……そのような状態だったのか?」
「ああ、時々神の采配により濃い者が産まれてしまうのだ。お前の祖先にも濃い者がいたのではないか?」
アーデルハイドの言葉に素直に頷いた。
母は心臓に濃厚な魔力を逆流させて死んだ。魔力の圧迫で心臓が破裂したのだ。痛みを感じるまでもなく死んだらしい。
いつかそのような日が来るのかもしれないと思っていた。
「私一人では地上の魔力を吸い付くす可能性があったのだ。お前の采配は確かにこの地を救ったのだろうよ。お前の指示の元戦場を駆けるのは心が踊ったぞ。何しろ竜は孤高の生き物。共に狩りをすることなどなかったものでな」
心臓に手を当てられる。「眷属にしてやろう」と楽しそうにアーデルハイドが言う。
痛みなどはなかった。ベルモンドがこちらの様子を伺っている間に心臓に強い魔力が流れ込んで、たたらを踏む。
ふらついた私の体を支えたのはアーデルハイドだっだ。気分はどうだと強い瞳で語りかける。
心臓が軽い。いつも体中に張り巡らせていた防御魔法を一つずつゆっくりと解いていく。体中を蝕む身を滅ぼすほどの魔力を感じない。
──いや、魔力による破損を体が受け付けない。
「……アーデルハイド、君は」
「どうだ? 今度こそ私が女神に見えるか?」
悪戯が成功した子どものように、褒めるのを待つ少女のように。
美しい彼女は笑った。
思わず膝をついて──頭を垂れる。
「愛している。残りの人生全てを貴方に捧げたい」
思ったよりもチープな愛の告白に、アーデルハイドは目を丸めた後に豪快に笑い、ベルモンドは王座から転げ落ちた。
結果的に言えばプロポーズは成功した。面白いと笑ったアーデルハイドに、許容量を超えて頭を抱えるベルモンド、それから何が起こったか全く理解の及ばない一部の側近達。
宰相は謹慎中で元帥は竜が降り立ったことにより皇帝直属軍を動かしていた。そこにいるは政治に対する強力な決定権を持たない官僚のみ。
つまるところ王国に反する火種を潰した私達に与えられたのは"炎の戦乙女"への授爵と、式部卿としての確固たる地位だった。ついでに近衛軍を率いることになってしまったので近衛兵から近衛元帥に格上げになってしまった。
肩書きばかりが増える中、私は白い婚約を正式に破棄し、アーデルハイドと婚約した。同じくしてベルモンドも婚約を発表し、そのまま王妃を娶った。 シャンヴァルスの戦いの後戦後支援を申し出たアシュタニア帝国の姫、リリアンナ皇女とは幼い頃から面識があり、元々幼少の頃はよく王城に出向いていた私も面識があった。
一番の友にも春が来て、私にも幸せが訪れた。
そのまま貴族となったアーデルハイドを妻にして、私は人生で一番幸せな蜜月を送ることとなったのだ。
"炎の戦乙女"という肩書きがあれど、アーデルハイドが竜であったことは紛れもない事実であり、一人シャンヴァルスに赴いた私の後を追ってきた軍の少数には竜と化したアーデルハイドを目撃されている。その上浮かれていた私はアーデルハイドに乗って王国に帰還した。
余程の能天気でなければその前後のつながりでアーデルハイドが何者か察されることとなったので手っ取り早くアーデルハイドのことは"奇跡の子"として処理した。民間に広く伝わる信仰でもあるし、ごく稀だが本当に存在する存在だ。
私もアーデルハイドも表立って名を騒がれたくはなかった。故に記録書に残す名は全て小っ恥ずかしい二つ名にしておいたのだ。おかげで日常生活に困ったことは無かった。
その代わり社交界やお茶会で男爵令嬢であることを遠回しに馬鹿にされたアーデルハイドは報復に魔法を連発し、数々の茶会を物理的に炎上させたり、宜しくない貴族に正義の鉄槌を下したり、──まあ結構な騒動を起こしまくり最終的に"紅の竜"という二つ名が囁かれた。当の本人はその名を気に入ったので根付いてしまったらしい。
栄光がなくとも普通の日常がいい。私が望んだのは素晴らしい栄誉でも権力でもなく愛する人との美しい日々だけ。
それに、もし私とアーデルハイドが結ばれれば"奇跡の子"が産まれる可能性はかなり高い。
そうして私達の元に奇跡の子が訪れる。私達の幸せが守られるようにと祈りを込めて守護する者と名付けた。
レイモンドは聡い子だった。産まれて直ぐに自我を持ち。歯が生え揃った頃に母親の名を呼んだ。どうやら腹にいる頃から念話で意思の疎通を図っていたようで、半年も経てば這い蹲るどころか仁王立ちするレベルだった。
我が子ながら成長の速さに驚いた。紛うことなき奇跡の子だった。私と同じかそれ以上の氷の魔力を体に秘めた長男は、私のように魔力の高さに身を滅ぼすことなく着実に実力を詰んでいく。並の騎士では相手にならないので私がよく相手を勤めていた。
幸せな風景だった。
愛する人との愛する子に恵まれて、暖かな日光の下で笑い合いながらランチをする。
幼い頃に手に入らなかった全てがここにあった。
冷たい食卓も、味のしない食材も、毒の入った盃も。
ここには何一つない。
恐れるものは何一つないのだと奢った瞬間に──現実が押し寄せてきた。
「兄上の結婚式に出られなかったので、遅くなったけど……謝りたかったんだ」
「ジェイディス……」
いつも通りの午後だった。アーデルハイドが唸りながら作ったちょっと歪なサンドイッチを口に放り込んでレイモンドが庭の木を一本ダメにしたのを「やんちゃだな」と微笑ましそうに眺めるだけの、当たり前の日々。
突然やってきた過去に押しやった弟の言葉に思わず面食らったものだ。
「僕、氷の魔力がなかったじゃないか。それがすごく恥ずかしくて……母様にも顔向けできないと思ってた。だから、兄上のことをあんなに傷つけてしまった。それを謝りたかったんだ。今からでも……弟に戻りたい」
「それは、……私も、だが……」
既に幸せの絶頂にいた私は義母と義弟のことをすっかり忘れていたのだ。まさに頭の中になかった人物が現れて言葉に詰まった。
「なんだ? 客人か?」
帰ってくるのが遅いと迎えに来たアーデルハイドが背後に立っていた。私の腰に手を回しながら客人を見定めるように見つめる。
瞳の内に竜紋が現れる。力を行使する時に現れる魔力の一部だ。瞳に花が咲くようなその様子が好ましかったが、私は何故かジェイディスに彼女を見せたくないと思った。
「えっ……? 貴方は……あの時の、」
「おお、なんだ。花屋の坊主か」
面識があるような二人の様子に嫌な予感がした。喉元に破滅が近づいてきたような宜しくない気配。思わずアーデルハイドを引っ張って私は前に立つ。
「ちなみに、今日はどのような用事で」
「あっ……えっ、えっと……これ。あの、お花を、お祝いの品を何にすればいいかわからなくて。僕、兄上の結婚を嬉しく思うよ。僕達は兄上にとても酷いことをしてきたから……幸せになって、欲しい、と……」
「こら、デイビッド。魔力を流すとビックリされるぞ。ふふ、お前様はいつまでたっても治らないな」
アーデルハイドに急かされて思わず花束をとる。氷の魔力に耐えうる六花──手に入れることの難しい氷の華が咲いていた。指先で氷に触れると溶けるが、氷の魔力を流した状態で触れれば大きな華に変化する。
私の母が愛した、氷の華。
「おめでとう兄上、本当に……」
私は弟を許した。
私は私の判断で弟を許した。弟にのみ屋敷の出入りを許可した。レイモンドと遊び、アーデルハイドのお茶の相手をするジェイディスは実に良い弟だった。氷の魔力は持たずとも炎の魔力は持ち、尚且つ勤勉な弟は魔道具技師となり魔法を使えない者にも平等に魔法が使えるようにと必死に頑張っていた。
だから許した。
今の彼となら良き関係を築けると思ったから。
──なのに。
「不実……だと?」
「アデル、」
「ふざけるなっ! 私がいつ!」
「アデル、落ちついてくれ」
「どれだけ私を愚弄すれば気が済むのだあの男は……っ!」
ある日突然アーデルハイドが攫われた。
攫われたと言うのは語弊があった。アーデルハイドはジェイディスに相談があると持ちかけられ外でお茶をした。それはよくあることで、ジェイディスは試作品の性能を"奇跡の子"と呼ばれるアーデルハイドに頼んでいたのだ。私は王城に勤めていたのでその間の屋敷の維持も頼んでいたので、アーデルハイドはそのお礼によく付き合ってあげていたのだ。
「ほら見ろ、私の逆鱗を! お前にしか反応しないのだ。竜は孤高の生き物だ、決めた人としか繋がらない! 私が逆鱗に触れさせるのがお前だけなように! 私は潔白だ!」
私の指先が触れた瞬間に額に現れた黒鱗に仄赤い光が宿る。紛うことなき私とアーデルハイドが愛し合った証だった。
ジェイディスはあろうことか茶に毒を仕込みアーデルハイドを一晩ホテルに留め置いたのだ。もちろん竜であるアーデルハイドは毒で死ぬことは無い。精々動きが取れないくらいだった。長い時間をかけてホテルの中で回復し、明け方には屋敷に戻ってきた。
その次の日だ。新聞に堂々とアーデルハイドとジェイディスの不実の噂が乗ったのは。
今までも同じようにお茶を見られていた。実際ジェイディスとアーデルハイドはお茶に出かける中だったのだ。それも良くなかった。私が王城に勤務中にジェイディスと通じていたという心証の悪い噂は流れた。
ベルモンドの采配で噂は王都内に留まったが、当時はベルモンドも王宮内の権力争いに拍車がかかり大変な時期だった。私は表立ってベルモンドの借りることが出来なかったのもあり、噂への対抗が遅れてしまったのだ。
アーデルハイドが咆哮を上げた。防音誇るこの防御魔法が施された屋敷に炎が回る。思わず彼女を抱き竦めた。
「アーデルハイドッ!」
「……お前、様……」
「……………………すまない」
彼女が苦しんでいるのは私のせいだった。
巧妙に隠された悪意を見抜けなかった。
分かっていたのに。裏切られたことがあったのに。
もしかしたら兄弟になれたのかも、と望んでしまった。
「落ち着け、アーデルハイド。噂だ、わかっている。貴方がそのようなことをするはずがない。有り得ない」
必死に弁明するアーデルハイドが愛おしくて、悲しかった。私が不甲斐ないばかりに彼女に縋るような真似をさせてしまった。孤高で美しい私の竜。
「申し訳ない。私の問題に貴方を巻き込んだ」
悔しくて歯ぎしりをした。
「あの男は私の物を何でも欲しがる。……私が、昔そのようにしていたから、正してもらえなかったのだ」
泣くな、とアーデルハイドが言う。泣いてなどいない。私は泣かない。
頬を撫でるアーデルハイドの手は暖かかった。
「なんと、なんと……哀れなことよ……」
その響きはずっと胸の内に溶けていく。
「貴方の無実を証明する。公の場で、確実に。貴方にあの男の汚名ひとつ着せたりしない」
時が経てば状況も整理できる。民間人の証言は喫茶店で仲良く話をしているだけなのだがもう1つの証言が良くなかった。それぞれ全く関わり合いのない五人ほどから出たアーデルハイドがホテルに何度も通っていたというものだ。
確実に嘘であるが、彼らにジェイディスとの繋がりは無いし深く追求することも出来ない。
そんな檻にやってきた好機はジェイディスから送られてきた貴族裁判だった。
彼の主張によると、"自分とアーデルハイドが愛し合っているのに救国の英雄の褒賞としてアーデルハイドを奪われた"というものだった。その上腹の子も自分の子だと言うのだから呆れを通り越して無だった。
人は怒りすぎると感情を失う。
この機に生まれてきたことを後悔させてやろうと決めた。
すぐさまアーデルハイドに段取りを伝えに屋敷に戻った。
既に臨月まであとひと月というところだった。腹が大きくなったアーデルハイドは緩慢な動きで私を迎え入れてくれた。腹が重くて大変だ、と笑った。
だが私の話を聞くや否や、顔を蒼白に変える。
「裁判……だと?」
「ああ、ジェイディスが仕掛けてきた。だがこれで私たちの繋がりを見せれば──」
「……無理だ」
見たことの無い顔をしていたから、思わず私も言葉を止めた。
「む、無理だ。無理……絶対に無理、っ……絶対に嫌! 逆鱗を見せる……? そんな、そんなはしたない、屈辱的なこと、誰が出来るか!」
肌を掻きむしりながら震えている。彼女が何かに怯えるところを初めて見た。私は恐る恐る近づいた。腹を守るようにして自分の体を抱く彼女は既に母のようだった。
「あ、アデル?」
「いや、嫌よ。そんなの、そんなの絶対い……ッヴ、」
口元を抑えて倒れ込む。膨らんだ腹を抱えながらアーデルハイドは地面に蹲った。
「アデル!」
「ご、めんなさい……お前様、私……私は、」
「もういい、話さなくていい。分かった。大丈夫だ。ゆっくり休もう。他の方法を考える」
裁判の話をした日からアデルの容態が変わった。
ベッドの上に横たわったまま、一日寝たきりの生活になってしまった。
腹にいる娘の出産日が近づいていたこともある。産気と吐き気に悩まされながらアーデルハイドは日に日に弱っていた。
とてもじゃないが裁判に立ち会える状況でもない。アーデルハイドは毎日新聞を読んで、その度に癇癪を上げて暴れ、倒れた。
竜の怒りは凄まじく、私以外は部屋に入れないほどに。
次第に癇癪の幅が狭くなる。一日中怒りに身を任せたアーデルハイドが炎を暴走させた後、私はアーデルハイドの部屋で一日を過ごすことが増えていた。
彼女の脈打つ腹を撫でながら、たわいもない話をする毎日だった。新聞を見せるとアーデルハイドは憤怒する。新聞をこの部屋から無くした。
レイモンドも毎日この部屋を訪れているらしい。私よりも余程竜に詳しいレイモンドは「裁判で竜紋を見せるのは不可能だ」と言いきる。
「ああ、さすがに今のアデルを裁判に連れて行くのは難しいな。腹の子が産まれて落ち着いてからで……」
「母上はもう持たない」
無慈悲に言い切る息子の襟首を掴みあげていた。私は心の内にこれ程までに暴力的な感情があったことに驚いた。
「もう一度言ってみろ。息子でも私は許さない」
「悪ふざけではない。事実だ。母上は心を病んだ。噂話を正さない限り母上は回復しない。母上はいつ死んでもおかしくない状況だ。それを腹の子が負の魔力を吸い取ることで均衡を保っている」
「……何を、言って、」
「竜と人間は造りが違う。刺しても焼いてもちぎれても砕けてもある程度形が残っていれば再生する鋼の体を持つ竜は人間のように心を守るすべがない。俺のように人間の体を生まれつき持っているならばまだしも、母上は神竜だ。無理矢理人の器に形を変えているだけのあの人は、世間の噂話に心が耐えられなかった」
つらつらと他人事のように告げるレイモンドの口から語られる言葉は真実なのだろう。この子がくだらない嘘をつく子でないことは私が一番知っていた。震える指先を制御出来ない。
「母上は裁判が決まった時に理解した。逆鱗を見せなければ成立しない潔白ならばこのまま死んだ方がマシだと」
「なぜ、一体。なんで……」
「竜だから」
レイモンドの言葉を最後まで聞かずにアーデルハイドの元に駆け出した。
部屋には横たわったアーデルハイドがデイビッドの再びの来訪を予感していたのか、こちらをじっくりと眺めている。
「父があれだけ私を引き止めた理由が分かった。……ははっ、竜は強いが竜は弱い。プライドでしか生きていけぬ」
「貴方はいつだって強かった。弱い時などない。私は、私は貴方の強さが……いつまでも変わらない強さが、」
初めレイモンドを身篭った時、アーデルハイドはまだ神竜だった。この地に神に遣わされた御使いとしてこの地の平定を見守るのだと。
だが二人目が欲しいと囁いたアーデルハイドは、今度は腹で温めたいと洩らした。
レイモンドは卵生だ。竜の姿で卵を産み落とし。10月10日温めた。竜というものはそうらしい。
生まれたばかりのレイモンドは竜の姿をしていた。初めて使った魔法が人にもどる魔法だったようだ。
その姿を見た瞬間に、アーデルハイドが「この子は人として生きたいようだ」と楽しそうに呟いた。
そんな彼女が腹で温めて子どもを産みたいと言った。彼女は神界に戻り神と取引をし、家族と別れを告げ、私と生きることを選んだ。二週間ほど姿を消した後に「寿命を削ってお前様と死ねるようにしてきた」と告白された時の私の気持ちがわかるだろうか。
そう、アーデルハイドは私と生きて死ぬために人間になって腹に子どもをこさえた。
「デイビッド、泣くな。竜はプライドが高く傲慢で、ダメなものはダメなのだ。私は忌々しいことに……あの男に嵌められ、そのせいで命を落とすことになるだろう」
「嫌だ! 何故だ、何故そのようなことを!」
彼女は私と死ぬために寿命を削ってこの地に足を下ろした。それなのに、私より先に死ぬというのか。これは涙なのだろうか。言葉が詰まって、何も出てこない。
信じられなくて浮かんだのはこの騒動を起こした張本人だ。
「今から殺す。今すぐにあいつを殺してやる」
「ふふ、さすがの私でも学んだぞ。人間というのは面倒で、噂話は強力だ。あの男を殺しても噂はなくならない。私は噂話で死ぬのだ」
「嫌だ。絶対に嫌だ。殺す。私が全て殺す。そのような話を持ち出した人間を全て殺してやる。だから、だからっ……」
義母も義弟も殺せる。誰だって殺せる。国だって滅ぼしていい。貴方さえ生きているのなら。貴方と息子と、新しい家族が、そこにいるのならばこの世の全ては必要が無い。
「お前様、落ち着くことだ。私の好きなお前様はそのような姿ではない」
ベッド脇にすがりついて彼女のそばで泣きじゃくる。みっともなく泣いていた。初めての事だった。頭を撫でられる。欲しいのは永遠の安寧だ。
「お前様は強い男だ。私はお前様のそういう所が好きなんだ」
毛先を弄びながら顔を上げるように顎をすくいとられる。無理矢理視線を合わされた後「お前様は可愛いな」と嬉しくない事を言われる。
いつだって格好よくいたかった。初めて会った時からずっと、あなたのすべてに恋していたから。
指先が優しい。永遠にこの瞬間が続けばいいのに。
「実は──これは言うのは初めてだが。ふふ、お前様を見た瞬間に愛しいと思ったんだ。人間はこれを一目惚れというのだろう? 竜にとっては運命の番と言う。……お前様はいつも気まぐれな私に感謝するなどと言ったが、気まぐれではないぞ。一世一代の恋だ。私はあの瞬間お前様が好きになったのだ」
「どうしてそのようなことを、今。今……言わないでくれ、嫌だ。そんな、別れのような……」
「お前様は存外泣き虫だから心配だ。冷静沈着な氷の公爵などという巷の女共が信じられんな」
「私には貴方しかいない。貴方がいなくなったら、私は……私は!」
生きていけないんだ。
続きは言わせて貰えなかった。唇で塞がれる。温かな感触は愛した女の体温そのものだ。
「お前には宝物が残る。約束しよう。お前様は私の言葉は違えないのだから。……生きて、この子達を立派に育てるのだ。寿命が来たら向こうで待っていよう。きっとその時にはお前様はもっと素敵な男になっているのだろうな……」
「アーデルハイド、ああ、嫌だ。アデル、アデル。行かないで、……行かないでくれ!」
「この子が生まれて、自我を持った時に聞いて欲しい。母の汚名を晴らす気はあるか、と。私は無理だ、私は弱いから……でもこの子なら出来るかもしれない」
最後の言葉が近づいている気がした。もう喋らないで欲しかった。
扉の向こうで息子の気配がする。優しい父ならば最後の挨拶を、と声をかけられるはずなのに。私はこれが最後ならば独り占めしたいとわがままにもそう思ってしまった。
「大丈夫、お前様と私の子は強い。私よりもずっと、ずぅっと。だって、誇り高き"奇跡の子"」
唇をなぞられる。もう一度キスをせがまれて、覆い被さるように唇を合わせた。
長く柔らかな口付けが終わったあとに、涙を一筋流しながらアーデルハイドが「愛している」と零す。
それが彼女の最後だった。
彼女が息を引き取ると同時に子どもは産まれた。レイモンドは臨月を迎え雇った助産師を連れて部屋に押し入って直ぐに子どもをとりだしたのだ。
その様子を呆然と見ながら、生まれたばかりの子どもに有り得ないほどの魔力が備わっていることを認識して、レイモンドの言葉を思い出していた。
本当にこの子は母を守り続けていたのだろう。レイモンドが生まれたばかりの妹を見ながら、「よくやった」と褒めていた。先程の凛とした表情は何処へやら、くしゃくしゃの泣き顔で妹を取りだした。助産師の隣で同じようにテキパキと処理を施す。
たった五歳の息子が助産師のようなことをやってのけたことに対する驚きはもうなかった。
私たちの子どもは特別だから。
でも体は動かない。
それからは想像通りだ。私は無様にも放心し、ジェイディスの望むがまま、公爵家を明け渡してしまった。
◇ ◇ ◇
モルヴィアナが後にした自室に一人で篭もる。宛もなく昔のことを思い出しながら、そういえば私とレイモンドは泣き顔が一緒だとアーデルハイドが言っていたことを思い出した。
あの日アーデルハイドを目の前にして私達は悲しみにくれた。咆哮をあげ、いつまでも泣いて泣いて、別れを認められなかった。
だからこんなに遅くなってしまった。
貴方の汚名を晴らすと言ったのは私だったのに。
扉が三度鳴る。二個目に込められた氷の魔力に微笑みながら、既に開けていると声に出す。
「だから言っただろ。モルヴィアナは聡い子だと」
「本当だな。……お前には、本当に、驚かされる」
この何もかもを見抜くようなレイモンドの視線が懐かしい。アーデルハイドもそうして私を見つめていた。いつも私の返事を待って挑戦的に笑っていた。
「レイ、お前に謝りたかった。ずっと」
「父上には堂々としてもらわなきゃ困る。絶対謝んな」
不貞腐れたように頬を膨らめる。
レイモンドはずっと待っていた。私の決意が固まるのを。私がジェイディスを討つ日を。
喧嘩早いレイモンドが黙ってじっと見定めていたことを褒めなくてはならない。私はそのまま言葉にした。
「ラングラン公爵は貴方しか有り得ない。その決断に、敬意を」
かしこまったレイモンドが膝を着く。私はそのままに命令をくだす。
「明日王城に出向く。公爵家引き継ぎの段取りをすることになるから暫くは家を空けることになる。お前達に死角はないが……万一のこともある。騎士たちにはこれから毎日、長めの定期訓練を出して置いてくれ」
「御意」
楽しそうに目を輝かせる。何よりも動きたくて仕方がなかったのはこの五歳の騎士だ。末恐ろしいことに既にC級魔法剣士のジョブを取得しているのだから。
私でもC級に手を出したのは学院に入学する頃合いだった。
モルヴィアナの話はおおよそ聞いていたのか、得意げな顔で腕を組んでいる。
「ヴィアナが公女になりたいってんなら、用意するしかないな。王国一の公女の座を」
「ああ、その通りだ」
久しぶりに見た肖像画のアーデルハイドは穏やかな表情をしていた。きっと、今すぐに、何がなんでも貴方の潔白を証明してみせる。
──幼い竜が、決意を決めたのだから。
閲覧ありがとうございます。
お父様の話は一旦終わりです。