幕間 デイビッド・ラングラン(1)
おやすみなさい、と告げた娘の顔が懐かしく思えた。
思い通りにことが運んで嬉しい時に笑う、得意げな君の顔によく似ていたから。
どこ一つとっても完璧な人だった。美しさ、強さ、誇り高さ。彼女には全てが備わっていた。神に愛されていたのだと思う。
でなければあんな綺麗な人はこの世に生まれない。
そう思っていたのに、彼女は「私こそが神だ」と不敵に笑うのだ。その得意げな笑顔が、本当に好きで、いつまでそうやって笑っていて欲しかった。
私より幾段も強い人が、呆気なく心を病ませて死んだ。
その事実は私を簡単に弱くさせた。愛は人を強くするけれど、時には人を弱くさせる。──私は、強くなどなかった。愛する人がいなくなれば簡単に崩れ落ちるほどの脆弱な体だ。
「……モルヴィアナ、君は美しく、強い女の子だったんだね」
蝶よ花よと可愛がり、屋敷から出さずにこの世界だけを見せてきた。権力を奪い合う政治からも、汚い噂話が蔓延る社交界からも、全ての不穏分子からかけ離して、二度と汚い物が目に入らないように心掛けた。
もう二度と──アーデルハイドの時のようには、ならぬように。
馬鹿じゃないのか、と憤った息子を思い出す。アーデルハイドが息を引き取ってすぐ、地が割れるくらい大きな声で咆哮を上げた息子が次の日には涙ひとつ見せず毅然な態度で言った。
『馬鹿じゃないのか。それじゃあ、母上は何故死んだんだ』
涙のあとすら見せない、誇り高き竜の息子。
『──モルヴィアナは強い子になる。だって母上がそう言ったのだから。……それなのに、父上は目の前の現実から逃げるのか?』
ああ、逃げた。みっともなく駆け足で逃げた。もう二度と大切なものがこぼれ落ちないように。もし万が一、子どもたちが心を病みでもしたら、と不安で仕方がなかったから。
「アデル、随分と遅くなってしまってすまない。君の言う通り……私たちの娘は強く、誇り高い──奇跡の子だ」
あの時できなかった続きをしよう。腕の中で娘を信じた彼女のように、私も彼女に全てを託そう。
そして、出来うる限りの助けになろう。
どう足掻こうが彼女は動き出す。瞳に刻まれた竜紋が強く語り掛けた。
それが、アデルと出会った時に感じた"運命"というものに違いない。あの日、現れた女神に心を奪われた私のように。
◇ ◇ ◇
「これはダメね。黴臭いもの。ラングラン公爵家たるもの、身の回りの調度品も一流のものを使わなくては。ね? そうでしょう」
「そうだったな。レティならこの屋敷を美しくしてくれるだろう」
母が守った屋敷に詰められた、母の選んだ調度品が担ぎ出される。氷の魔力に耐性があるシャンヴァルス地方にのみ群生する木を使ったものだった。
彼らは氷の魔力を使えないから、調度品の質など気にしない。唯一残された私の自室にだけ、母の愛した家具が並んでいた。
義母は貼り付けたような笑みで「貴方はお母様の物を使うといいわ」と言われた。言うなれば「お前は古いものを使っていればいい」という意思表示だったのだが、私にとっては幸いなことだった。力を持たない人間は使うもの一つにしても気を配らなくていいから気楽だと思った。
父も、義母も、義母の連れ子も、氷の魔力を持たない人間だったから私の悩みなどは思いもよらなかっただろう。魔力が強すぎて屋敷を壊してしまう、だなんて言葉に彼らが気がついたのは父が死んでからだった。
父は優しい人だった。
母は父の優しいところを好ましく思っていたが、――その優しさ故に愛を裏切られていた等とは思いもしなかったのだろう。母は強大すぎる力を持っていた。
王妃が産んだ一人娘でもあった私の母、マーガレットは国王夫妻に愛され、王室の宝だと言われていた。珍しい氷の魔力を受け継いだ彼女は賢姫と呼ばれ、王位継承者から退いた後もラングラン公爵家を引き継ぎ、女公爵として国を率いていた。
そんな彼女が選んだのは特に秀でたところのない、優しさだけが取り柄の男だった。
そうして私が生まれたが、幸せは長くは続かなかった。
ある日突然、マーガレットは魔力が暴走して心臓に逆流したまま遺言も残さずに死んでしまったのだ。
残された父は悲しみにくれた。私の目から見てもとてつもない悲しみに包まれていたのに──ひと月後には新しい妻を設けた。
驚いたことに私に何の相談もなく、愛しているからだと一言だけ告げて。それ以来父とまともに会話をしたことがない。
シャングリラ伯爵家の次女だった義母、レティシアは人当たりのいい女性に思えた。前妻の息子である私に対しても、良き母でいたいという素振りはかんぺきだった。
だけど彼女は私と二つしか変わらない息子を連れていた。──それも、父との子だ。既に私は五つを超えていた。であれば、それは。
私は生まれてこの方絶望したり、悲しみにくれたことは無かった。
母が死んだ時も悲しいとは思ったがそれも数日の事だった。幼い頃から公爵になるための教育を施されていた私には母との穏やかな思い出はなく、残ったのは母の意志を継いで精進するべきだという強迫観念だけ。
結局父の不実に対しても衝撃を受けたがそれまでだった。「不貞を働いたのですか」という私の言葉に顔を真っ青にして弁解した後に大声を上げた父の姿を見て、その件に感じて触れるのは面倒だと思ったので放置した。それを不気味がったのか、父も私と距離を置いた。
義母が連れてきた息子は銀髪の弱い火の魔力を持つ男だった。その色が元からなのか、儀式で変化したのかは分からないが……二歳年下の彼のことを、私はそれなりに好んでいたのだと思う。
母のことは尊敬していたが、母らしいことをしてもらった記憶はない。彼女は素晴らしい手腕を持った女公爵だった。領民には素晴らしいが、息子にとって素晴らしいかはまた別だ。
そんな私に現れた守らなければいけない弟という存在は、とても……とても大切に思えた。
「僕も大きくなったらお兄様みたいな魔法が使えるようになりたいです」
「その時が私も楽しみだ」
弟も私を好いていてくれた。──ジェイディスは、いつも私の氷の魔法が見たいとせがむものだから、よく自室に呼んではこっそり見せてやっていたのだ。
父も母も氷の魔力を持っていない。母の力を受け継いでいるのは私だけ。特に義母は私が大人になれば公爵を奪われるのかもしれないと思っていたのだろう。
我が身を傷つけるほど強大な魔力を持っていると知ってから、義母は私を目の敵にするようになった。優しい母のフリは直ぐに終わった。父が流行病を拗らせて呆気なく死んだからだ。
父は世間が言ういい父親ではなかった。でも私にとっては唯一の父で、愛してもいた。
裏切られたと思ったが、それでも父に変わりはなかった。それは父も同じで、……死ぬ間際に教えてくれた"愛している"に全てを許すことにした。
義母は次の日から如何にして私を殺すかを考えた。馬鹿なあの人は私の魔力を恐れているくせに、私の魔力を何よりも欲していた。父に氷の魔力がなかったことを死んでから知ったようだ。彼女の視線は母ではなく女のそれに変わった。
十を迎えると王国の貴族は魔法学院に通う義務が生じる。その頃には体付きも大人に変わっていくからだ。学院に通いながら屋敷の中で母の裏の顔を想像しながら、防御魔法の上達に迫られた。
幸い私には強大な魔力が存在した。自分を傷つけるくらいの大きな力は、持つだけで牽制になる。義母は直接私に危害を加えることは無かった。
毎日見知らぬ顔の男が部屋に侵入しては咄嗟の反撃で命を奪う。正当防衛だ。そのうち寝ている間に勝手に体が反応するようになって、どんなに熟睡しても朝起きたら周囲に死体が転がっている。
いつの間にか人を殺すことに躊躇いが無くなっていた。自分の身を守るために必要なことだったから。
「ディー、また毒入ってんじゃん」
「別に体内で分解できるからいい」
「ごめん、何言ってんの? 分解してる間に死ぬよ? これ血液の中に浸透して魔力を破壊するやつじゃん。心臓に一滴でも届いたら死ぬよ」
「全ての部位に防御魔法を施しているし何より心臓は一度止まったぐらいで死なない」
「ごめん、何言ってんの?」
高等部に上がる頃には魔力の質も大分上がっていた。既に王国内の騎士で私の隣に並ぶものはいない。剣術も、魔法も、知識も、授業は常にトップを取り続けた。それは努力をしてというわけではなく、ただ毎日生きていたら次第に手に入れていただけの力だ。
どうやら自分は特別強いらしいということに気がついたのもこの頃だ。
同じく王太子も剣術と、魔法と、知識に優れており、いつも私のひとつ後を取り続けた。元より幼い頃から顔を合わせていた仲だ。
よく考えて、お家騒動で騒がしい自分の人生に、気さくに話せる人間はほとんどいなかったことを思い出して、気づけば王子とばかり話していた。
王子──ベルモンドとは幼い頃から顔を合わせてはいた。母の兄の息子、つまり従兄弟だった。
「お前くらいなら入手経路辿って依頼元に辿り着けるだろ?」
「面倒だ」
「生き死にの問題、面倒で片付けていいわけ?」
ベルモンドは呆れたように紅茶を掻き回している。既にラングラン公爵家の内情を知っている王子様は私が手を下さないことを咎めているようで。
体にいいからと義母に渡された紅茶だ。ご丁寧に魔力に害をなす毒を仕込んでいた。家でも毎日飲んでいるから、今更飲んでも飲まなくても変わらない。彼女は氷の魔力が手に入らないのであれば存在ごとなかったことにしたいようだ。
強いて言うならば、毒を飲んでも生きている私を見て恐怖する義母の顔を見るのは心が晴れて好きだった。
「魔力が多いからって油断するなよ。お前、時々自分の力を過信する時がある」
「過信でもしないと生きていけないだろう」
元々力はあったが、初めから完璧ではなかった。初めて毒を飲んだ時は自室でもがき苦しんだが、少しでも苦しめば義母を喜ばせるのだろうと思えば声すら出せなかった。
次第に防御魔法は小分けで使用出来ることに気づいたし、自分の氷の魔力は少しならば浄化作用があると知ったので僥倖だった。
義母のことを憎んだことは無いが、家族だと思ったこともない。いつでも彼女に対してだけ線を引いていた。弟のことはそれなりに可愛がっていたから、余計に彼女の機嫌を損ねたのだろう。
ことある事に問題を作り上げて、不安だから一緒に寝て欲しいと言われる度に冷静に拒否した。
そのうち、可愛かった弟もいつしか私を恨むようになっていた。
氷の魔力が現れなかったからだ。
ジェイディスのプレ・デビュタントは十になった時だった。既に父がいないことで社交界で目立つのを避けたい母が渋っていたから。
もう少し早ければ現実をもっと早くに理解出来たかもしれない。でも、あの子は氷の魔力が……私と同じ力があると思い込んでいたから、その塞ぎ込みようは凄まじかった。
そうしてあてのない苦しみは標的を探して暴れ回る。結局恨まれるのは私の宿命だった。だがそれを悲しむ心がない。
母が死んでも父が死んでも涙は出なかった。
弟に嫌われたくらいで、嘆くことなどありえない。
「そうだ、ディーはどこ目指すんだ?」
「近衛兵」
「えー!!! そんな映えない仕事辞めとけ!? もっと華々しく輝こうぜ!?」
「ベルモンド、……お前、自分の騎士に対する言葉ではないだろう」
「分かってないなぁ、ディー」
第一王子であるベルモンドは王位継承者だ。だがこの飄々とした性格や、貴族階級に関係なく気さくに話しかけるところ等は君主として相応しくないと言い張る者もいる。
「俺の傍なんてお前の嫌いな政治の世界だぜ。俺はお前の剣技を見てるのが好きだってのに……辺境伯にでも任命してやろうか? 最前線で好きな魔法が使い放題だ」
「別に私は魔法も剣も好きなわけじゃない。暇が講じただけだ」
「それであの技術ってなら王国騎士も泣くと思う」
「それはいいな。全員を泣かして回るとしよう」
「想像が出来ちゃうのが嫌だなあ」
──私は、身分に囚われず触れられるお前を好ましく思うが……世間は違うのだろうな。
行く末は平民も学院に、というのがベルモンドの意思だがそんなことを言えば高位貴族の顰蹙を買うことは目に見えている。
「私はお前以外の貴族は信用ならんと思っている。お前の下以外に着く気はない。だから近衛兵で間違いない」
「お前、王城でずっと待機することになるぜ。俺の傍で世間話の傍ら愚痴を聞かされるんだ」
「呑気なこと言うな。お前が王になったら毎日暗殺の山だろうよ」
だから守ろうと思った。
お兄ちゃんになって欲しい、と初めて会った時に告げられた時、忠誠を誓った。傍で言葉を返してくれる誰かなら誰でもよかった。でもちゃんと会話をしてくれたのは二人だけだったから。
母は強大な力を持つ故に、身重になることを良しとせず私以外の兄弟をあえて作らなかったらしい。父は娘が欲しかったようだが、母が手酷く拒否を示した結果、夫婦の営みそのものが破綻した。
後から思えば円満な家庭ではなかった。母が偉大すぎる故に、父は馬鹿だとあちらこちらで言われた。
それに耐えかねて不実を犯したのだろう。許されざることだし許すつもりもないが、哀れだと思った。
母が死んで、父が義母ばかり見つめている時、ベルモンドとジェイディスだけがそばにいてくれた。だから二人を守ろうと思った。
でももうジェイディスは私の元を離れた。
──だから、守るのは一人分だけでいい。
「ここを出たら直ぐに公爵になる。手続きはすんでいるし私が死なない限り次の公爵は必ず私だ」
「すんげぇ自信」
「お前も卒業後直ぐだ。私の人生はお前を王にすることに捧げる」
「すんげぇ重い」
知りたくなかったとばかりに顔をしかめるベルモンドに言ってやる。
「なんだ、知らなかったのか」
私は多分、一生をこの男に捧げるのだろうと決めていた。
遠くから話しかける女生徒の声を聞かなかったことにして、私は席を立った。王子様が私より格段に優しく、私達に近寄るなと説明してくれるはずだから。
卒業後、宣言通りに公爵の任に着いた私は王太子付きの近衛騎士として一番傍でベルモンド──陛下を支えることとなった。国の大事に一族の諍いなど些事に過ぎない。義母派との衝突でラングラン公爵家の内情はそれなりに大変だったようだが、私欲に甘んじて歯向かう者を尽く処罰し追い出せばいつの間にか静かになっていた。
無駄な抵抗や危害を加えぬ限り身の安全は保証すると言えば義母も悔し紛れに屋敷を出ていった。豪華な別邸を宛がって、そこで生涯を穏やかに過ごして欲しいというのは、私が義母にしてやれる唯一の親孝行だったのだ。
ジェイディスが望むのであれば屋敷にいれば良いと持ちかけたが嫌悪を顔に滲ませながら屋敷を出ていった。義母と同じ王都の別邸で暮らすようだ。
「や、ディー。今日の仕事はどれぐらい残っている」
「残るも何も手をつけておられないようで。殿下の机が沈みそうです。あと私のことはどうかラングラン公爵とお呼びくださいと何百回言わせれば済みますか?」
「誰もいない時くらい力を抜かせてくれよ。ただでさえ古参連中は口がうるさいんだ」
ベルモンドは正式に第一王位継承者として立太子してから仕事が格段に増えた。判子を押すだけの仕事だがその内容を振り分け吟味し、王国の財政を維持するのは相当なストレスがあるらしい。その上、何よりも面倒だったのが婚約者の制定だ。
ベルモンドは幼い頃から何人かの婚約者候補がいた。これは王国の教育方針で、何人かに王妃として競わせた方が質の良い妃が出来るからだとか。当の本人は婚約自体に興味はなく、急かされる毎日だった。
「だがな……俺だけの話ではないと思うがぞ。お前もそろそろ身を固めなくてはならないのでは?」
「……まあな」
私には婚約者がいた。いたという言い方は他人行儀だが実際聞かされたのは最近なのだから他人行儀と言っても差し支えがない。幼い頃から決まっていた公爵家同士の婚約だと義母から知らされたのだ。
会ったことも名前を聞いたこともない公爵家の娘。体が弱く社交界でも端で座っているだけの美しい"ラグランジュの華"は有名な話だ。
困ったことに義母は正式な書類を作成していた。いつ作ったかも分からない、ただの判が押された証明書だ。
「大っぴらに外堀から埋められる前に手を打っておけよ。この際適当な娘を見繕ってやってもいいが……」
「いや、いい。それくらいは自分で決める」
別にラグランジュの公女が嫌なわけではない。義母が用意した縁談であることが問題だった。
身分も魔力も、素養もある娘だが、義母を通して与えられた娘を妻にする気はなかった。愛はなくとも愛する義務はある。父のようにはなるまいと決めていた。
せめて愛にならずとも尊重し合える家庭を築くべきだと。
その後も縁談が無くなることはなくマデラ・ド・ラグランジュは私の婚約者であり続けた。婚約の意志がない旨を伝えてもラグランジュ公爵家が手を引かなかったのは計算外だった。
公爵家の地盤を強固にしたいつもりは無い。私で終わる一族であればそれで良かった。純粋な氷の魔力を持つのは私だけなのだから、私と共にこの一族を終焉に導くのも悪くはないと、そう思っていた。
義母との婚約に関する諍いは落ち着くことがなく、そろそろ本格的に無かったことにするべきだと結論づけた時、国家の一大事が起きた。
レクス公国が周囲の二国と力を合わせ、ラペンドルド北部のシャンヴァルス地方に侵入し、国境であるリンガーラッシュ要塞を占領したのだ。
リンガーラッシュは最北の堅牢な要塞で建国以来侵されたことの無い土地だった。リンガーラッシュの陥落はラペンドルドにとっては大きな意味を持つ。
「ラングラン公爵、伝令はなんと言っている」
「こちらに送られて来た時点で既に瀕死の重体です。ただ一言"将軍が"と言って今は中央教会で集中治療を受けておりますが快復の目処は立っていないようです」
ベルモンド──殿下は厳しい顔つきで右手を上げた。国王の体調が思わしくないのだ。日に日に体調を崩し、床から上がれないほどだという。
殿下は既に意識していた。……次の玉座が近づきつつあることを。
「……公爵よ、どう思う」
「"将軍"と言えばレクス公国の階級制度です。軍の最高司令官に名付けられる名称です。シャンヴァルスで戦えるような将軍であれば水の魔力を持つ相手でしょう。──私を送るべきです」
「今この時期にお前を失うことがどれだけの痛手か分かっているのか?」
ベルモンドは常に最低を考える。デイビッドを送り出した時にはデイビッドが戦死した時のことから想像しなければならない。
父は病に倒れ、王子の地盤はまだ固まっていない。有力な公爵として後ろ盾になっているデイビッドを今失うことの意義は何よりも理解していた。
「もちろんです。……そして私は何があっても貴方の元に帰ります」
「他の方法は」
「ありません。今のこの国に、私より使える男はいない。さらにリンガーラッシュ要塞は我らラングランが作った氷の城──私が行くべきです」
建国の時に活躍した火の『ルキアルス』、風の『リシュタンヴェルゼ』、雷の『ラガーディア』、水の『ラングラン』、地の『ロックウッド』、光の『ラセルフォード』、闇の『ラグランジュ』は"建国の英雄"と呼ばれていた。特に世界樹の恩恵を受けた『L』の文字を持つこれらの一族は、世界樹の祝福により子孫繁栄の栄華を頂いたのだと言う。
その建国の武勇伝のひとつがラングランのリンガーラッシュだった。その昔ラングラン公爵が一代で築いた氷の要塞。
元々極北のシャンヴァルスは戦うにふさわしい場所では無い。ラングランの家系の者の中でもより王家の血を引き継いだ"氷の魔力"を持つ私だからこそ戦えるのだという自負がある。
「それに、殿下はこのようなことに気を揉むよりもまず、国王陛下の周辺を探るべきでしょう」
「……その通りだ」
「国王陛下の薬剤に毒物が混入されていた可能性も視野に入れるべきかと」
「…………ああ。全く、王族は兄弟を多く産むものでは無いな」
それが殿下の了承だったので、私は別れも告げずにそのままシャンヴァルスに突入することにした。
リンガーラッシュは特別な要塞で大人数で守るための物として機能していない。これは氷の魔力を持つ者がただ一人で魔力を流して起動させる言わば魔法道具のひとつ。
負けるつもりはなかった。ハナから勝てると思わなければ戦場には出ない。
魔物の討伐や暗殺者を殺すことはいつでも出来た。だから──思ってもみなかったのだ。
氷の大地を灼熱に変えることが出来る人間がいるなど。
シャンヴァルスはほとんど人の住まない土地とはいえ、そこには共同体がある。数ヶ月前の視察で駆けていた騎獣が見当たらない。猛吹雪だった場所が溶岩に囲まれて、生物という生物は溶けてしまったのかもしれない。
「貴様、なんと言うことを……」
剣を持って構えを取る。敵陣に一人現れた私の姿を見た敵将は喜ばしそうに笑った。
初めからこれが狙いだったのだ、と下卑た口で吐き出したのだ。
死んでも死なないように呪いをかけて、少しでも私をおびき寄せるために人を使い捨てた。
「なぁに、リンガーラッシュの主導権さえ奪うことが出来ればあとは用無しだ。……お前の魔力を根こそぎ寄越せ!」
見たことの無い魔導器を向けられる。重火器にも似た重々しい見た目のそれはこちらを見据えると白く発行して周囲の魔力を吸収していた。
そう、明らかに私の氷の魔力を吸い取ろうとしていた。
周囲は炎に囲まれて火柱が上がる。火の魔法の使い手ばかりが集まったこの世界で氷は簡単に溶けていく。
体を包み込んでいた魔力が搾り取られる予感に距離を稼ぐにも、周囲は地獄のような火達磨ばかりで、身動きひとつ取れやしない。
片膝をつく。
生まれて初めて地面に膝をついた。
「この時を待っていた──希少な氷の魔力、早速我が国の進歩に協力していただこう」
将軍と名乗る男は、頭上に大きな火球を浮かべながら、私の目の前でリンガーラッシュを燃やしていく。先祖や一族などに興味はなかった。血筋なんて途絶えてしまっても別にいいと思っている。
けれども、それでも──今までの長い時をかけて慈しんで来たものを壊されるのはお門違いだった。
「──やめろ!」
焼け落ちる要塞を見ながら、初めて悔しさに顔を歪めた。
──その時だった。
将軍が浮かべた火球を包み込むほどの大きな魔力。この地球上に存在するはずのない、有り得ないほど高密度の焱が舞う。火球なんてものではない。もはや隕石のような巨大な塊がリンガーラッシュに直撃する。
地響きと言うにふさわしい、まるで世界か揺れ動くような爆音と共に周囲に分散していた火の魔力が掻き消される。私を焼き殺そうと膨れ上がった魔力を消し飛ばすほどの大きな新たな火は、驚く程に心地よく体に馴染んだ。
柄にもなく油汗をかいた体を包み込む。自然とそれは快副作用もあるのだと理解する。
視界の隅にいる将軍が慌てふためきながら苦しむ様子を見るに、この作用は自分にだけ向けられているのだろう。
リンガーラッシュが燃える。一族が誇りに思っていた要塞の最後の姿だった。将軍の火どころでは無い。燃え盛る火柱の勢いは増して、リンガーラッシュは赤く染っていた。
炎の塊の中から何かが動き出す。
「てめぇ……、何しやがった!」
将軍の視線は私に向けられている。だとしても説明しようがない。この展開は想像もしていなかったのだから。
答えられるような解は持っていない私はただ睨むように睨み付ける。敵の将軍は私の仕業だと決めたのかもう一度火の魔力を元って立ち上がる。焦土と化したこの地は彼にとって非常に立ち回りやすい場所だ。体内で魔力を錬成せずとも外界の魔力を吸収することが出来た。
もう一度頭上に出来上がった火の玉は確かに大きいが、先ほどの隕石のような火球を見や跡では些か物足りなくなる。
ろくな魔力は残っていなかったがそのまま攻撃を受けるわけにもいかない。先ほどの強大な火の隕石が何かを探る暇もなく将軍は駆け出した──はずだった。
私達の狭間に降り立った一人の少女に思わず動きを止める。
「なんだ……? てめぇは」
「不味い火だ。礼儀がないな」
戦場に響く鈴の音のような声。焼け野原の中心に立つ細い体。スラリと伸びた手足に背筋が伸ばされて、小柄ながらに大きな印象を得る。
──それから、一際目を引く……燃えるような赤髪。
今火の玉と共に空から降ってきたらしい少女が髪をかきあげながら振り向いた。つり上がった目尻に凛々しい眉。ひと目で意志の強さを実感する。燃えるような紅玉が見定めるような視線を向けている。頭のてっぺんから爪先まで指一つ動かせないほどの衝撃を受けた
その視線で射抜かれて、柄にもなく恐怖に近い感情を覚えた。
心臓がはやる。鷲掴みにされた心の臓が忙しなく動き出す。魔力が体内を循環し、息苦しかった呼吸が楽になる。
「まったく、乙女が現れたらまず手を取ってエスコートするものでは無いのか?」
この場に相応しくは無い台詞だ。
空から落ちてきた人間──美しい赤髪の女の子は、不服そうに私を見下ろした。
「──そこのお前、ちょっといいかしら」
不敵に笑う。状況に相応しくない微笑みは華が開くようで。
彼女の魔法は何もかもが美しかった。火のような髪が風に靡く。
女神が争いの全てを焼き払うために現れたのだと、直感で理解した。
「……いい男だ。名前は?」
「デイ、ビッド、……ラングランと、言う……」
それがアーデルハイドとの初めての出会いだった。
閲覧ありがとうございました。