雪の女王と人狼の懺悔 4
図書室を出てからというもの、ルーはコウの隣を黙って歩いていた。コツ、コツ、と靴が床を叩く音が静かに響く。ルーの顔からは先程までの自嘲的な微笑みは消え去っていて、今は普段通りの冷ややかな美しさをまとった無表情だ。
何がルーにあんな顔をさせたのだろうと思いながら、コウは「魔女のルセットって」と話しかける。
「ちょっと詳しそうな口ぶりだったじゃないか。なにか知ってるのか?」
「『魔女のルセット』は……」
ルーはそこで一度言葉を切った。
普段と違って、ルーはコウの顔を見なかった。暗闇の中に何かを見定めるように、ただ前だけを向いている。
風の吹き抜ける音が、獣の咆哮のように外を駆けていく。暗くて冷たい、悲しい夜だった。
「愛の呪いじゃないかと僕は思っています。縋らずにはいられない者に囁く、悪魔の書」
「愛の呪い……?」
どういう意味だと聞き返したコウには肩をすくめて、ルーは「雪の女王に会いに行きますよ」と素っ気なくコウを促した。
こうなるとどう問うても答えないのをコウも心得ている。過去に何かあったのだろうかと前を行く背中を見つめた。少なくとも今の状態では、きっとルーは話さないだろう。
「愛の呪い」などという、ある種のロマンティックさをはらむ抽象的な言葉がルーの口から出てきたことが、コウには意外なことに思えた。
他の生き物の魂を捧げて誰かを蘇生させるような、「何かを奪う本」に、「愛」などという言葉を持ち出してきたのも気にかかる。単純に「悪魔の書」と切り捨てるだけなら、コウもそれを受け入れて気にも留めなかったというのに。
切っても切り離せないような何かがルーと『魔女のルセット』にはあるんじゃないか。
そこまで考えを巡らせて、けれどそれ以上には何も出てこないのにコウも諦める。情報が少なすぎた。もう少し情報が欲しい。だが、詮索されるのをルーは好まないだろう。
いつか『魔女のルセット』を手に入れることがあったら、それを片手にきくのが一番に良いはずだ。その時はきっと、ルーの硬い口も渋々開かれるに違いない。
階段を粛々と下がり、石造りの廊下を黙りこくって歩き、たどり着いたのは一つの部屋だった。閉じられた扉の前に立つだけでより一層の冷気が身に染み渡る。ここか、と視線だけで問うコウにルーも視線だけで返す。
二人が立つのは地下の礼拝堂の入口だった。使われなくなって随分経つのだろう。扉の近くに設置されている燭台には蜘蛛の巣が張り、茶色く変色した蝋燭が萎びたように刺さっている。ルーはひとつ視線をよこしてコウを下がらせると、礼拝堂の扉を開け放った。きしんだ蝶番が耳障りな音を立てる。悲痛な叫び声のようだった。
「こんばんは」
ルーの声が響く。がらんどうの室内によく通る声だった。室内は真っ暗で、地下室であるから光もささない。そのはずなのに、礼拝堂の奥には青くぼんやりと光る何かが鎮座している。
礼拝堂というにはあまりにも寂しい場所だとコウは思った。
手入れのされていない石壁にはフレスコ画で神や天使の姿が描かれていたようだが、湿気によって顔の部分がが剥落してしまっている。
落ちたフレスコ画の欠片は片付けられることもなく、床にそのまま散らばって、雪のように降り積もっていた。いくつも並べられたチャペルチェアは腐食が始まっているのだろう、所々が崩れて傾いてしまっている。
部屋に充満しているのは埃とカビの臭い、それから刺すような冷気。コウは身震いしてルーを見る。ルーはいつもどおりの表情で、礼拝堂の奥にある『何か』を見据えていた。
あの青白く光っているものはなんだろう、とコウは目を凝らす。暗闇に目が慣れていたとはいえ、その青いものが何なのか理解するのに時間が必要だった。
なにか透明で、つるつるとしているもの。
なにか大きく、中には何かが収まっている。
なにか冷たく、部屋に満ちる冷気はそこから来ている。
何かが、『なにか』の傍らに立っている。
「あ」
そこにある全ての『何か』が何であるのかを、はっきりと理解したコウの口から出たのは間抜けな音だった。黙れとも口を閉じろとも言わず、ルーは一歩前に出る。コウへ振り返り、じっとその青い瞳をコウヘ向けた。
「君、ここから先は僕に任せるように」
「任せるっていったって、お前」
「彼女がその気になったなら、君はいつでも死ねますよ」
危なくなったら逃げなさいと静かに言いおいて、ルーはチャペルチェアの真ん中に敷かれた古びた絨毯の上をゆっくりと歩いていく。大きく、冷たく、透明な氷の塊のすぐ近くに佇んでいたものが、僅かに身動いだ。
見えるでしょう、とルーは振り返り、視線でコウに注意を向けさせた。ぼんやりと青白く光っているのは大きな氷塊だ。その中にあるのは。
「……あれが、この屋敷の主だったのか」
遠目からでも分かるほど、痩せ細った男性だった。骨と皮だけのようにも見え、白髪交じりの黒い髪がよじれながら体に張り付いている。抱いた執着が体にまとわりついてでもいるような、不気味な風体だった。
男性が封じ込められているその大きな氷の傍らには、純白のドレスを身にまとった女性がたたずんでいる。あれが『雪の女王』なのだとコウは直感した。
聞いていたとおり、雪のように白い肌には血の気がない。死人のような無表情がぼんやりと二人の方に向く。
即座にルーが背負っていた登山用リュックをコウに投げつけ、コウを朽ちかけたチャペルチェアの陰に叩きつけるように押し込んだ。乱暴な扱いにコウが驚く暇もなく、コウの目の前を鋭い氷が飛んでいく。
「帰って」
冷たく、温度のない声が響いた。
ルーは動じずに雪の女王へ語りかける。
「夜分遅く、許可も得ずに踏み入れてしまい申し訳ありませんが。少し僕の話を聞いてはもらえませんか」
「帰って」
無表情は揺るがない。
距離を縮めてこようとするルーに向かって、雪の女王が次々に鋭くとがった氷のかたまりを飛ばしていく。
真っすぐ歩くルーにはそれが一つも当たらない。なんだか妙で、本気で当てる気があるとは思えなかったが、ルーはコウに注意が向かないようにわざと大げさに、目立つように足音を響かせてずんずんと雪の女王へ歩みを進める。
雪の女王の顔がゆがむ。怯えた様子も見せずに近づいてくるルーに思うところがあったのか、氷を飛ばすのをいったんやめて、冷たい瞳でにらみつけた。
「あなた、バケモノね」
まなざしの刺々しさに反して、何故かその声音には安堵のようなものが含まれているのにコウは気付いた。
ルーは優美に一礼し、穏やかに微笑んでみせる。
「僕は『人狼』ですよ」
「人狼? なんでそんな化け物がこんなところにやってきたの。……人間と連れ立って。どういうつもり?」
口調は変わらず刺々しいが、探るような眼差しに殺意は認められない。
「観光ってわけじゃないでしょう。何しに来たの。……こんなところ、どうして」
一瞬震えた声にコウは顔を上げる。チャペルチェアの陰から雪の女王を見た。困惑が浮かんでいる。
「あなたに一つお願いを」
ルーは極めて穏便な口調で、気分の良くなるような優しく響く低い声で囁く。相手に殺意がないのを読み取ったのだろう。シレーヌが「穏便に解決できるなら穏便に」と日頃口にしているせいだろうか。ルーの方にも力づくでことを片付けようという気はないらしい。今回は穏やかに終わりそうだぞ、とコウは胸をなでおろした。話の通じる怪異のようで良かった、と。
「お願い?」
「夏を我々に返していただきたいのですよ。雪を降らせ、氷を張り巡らせるのをやめていただけませんか」
ルーが言い終えるや否や、雪の女王からは冷気が立ち上る。ぞっとするほどの冷たさにルーの眼差しが厳しくなった。誰に言われずともコウは理解する。穏便には終わらない。ほとんど金切り声のような怒号が響き渡った。
「帰ってッ!」
一瞬にして出来上がった氷の柱は、いくつもの巨大な棘となってルーを貫くように生えてくる。不意をつかれたのにルーは顔を歪ませた。頬をかすった鋭い氷が血で赤く濡れ、ルーの端正な顔からはぽたりと血が落ちる。
「あなたたちに返すものなんてない! 私は何も奪っていない! 奪われたのは私の方、返して、私を返してよ!」
髪を振り乱し、呻くように絞り出す声と連動して氷はどんどんと生えては大きくなっていく。あっという間にルーを閉じ込めるように生え揃った氷の柱に、これはまずいとコウは登山用リュックの中をかき回した。カラカラに干からびたオオウイキョウを取り出して、大きく振り回す。一直線に炎の帯が舞い、ルーを取り巻いていた氷が溶けた。
「いやっ……いやあ! やめてよッ!」
怯えた顔で雪の女王が次々に氷をコウへ向かって投げつけたが、オオウイキョウからあふれる炎がそれらを霧散させていく。投げられる氷を必死で溶かし、頼むから話だけ聞いてくれないかと重ねたコウに、「近づかないでったら!」と雪の女王は叫んだ。
「溶けちゃう! あの子が……! 焼けちゃう!」
「コウ!」
ルーが振り向き、手を上げる。
オオウイキョウを振り回すのをやめ、コウは震える雪の女王に目を向けた。
氷が溶け、滑る床を必死に走り、雪の女王は氷に閉じ込められた男の足元に座り込んで、その冷たい氷に頬を寄せる。どうしてそっとしておいてくれないの、と小さな声が朽ちた礼拝堂に響いた。
「あの子もそう。ずっと眠らせてくれればよかったのに。……そんなに私が嫌いなの? 私を化け物にしてまで……」
「ゲルダ嬢。どうかお話願えませんか。僕たちは本当に、あなたに危害を加えたいわけではない。ただ、この異常気象を元に戻してもらいたいのです。このままでは人も死ぬ」
「もう死んでるわ。手遅れよ」
恨んでいるとも慈しんでいるとも見えるような表情で、雪の女王ゲルダが氷柱の中に眠る男を見上げる。カイ、と呟かれたのがその男の名であり、雪の女王ゲルダの弟の名なのだろう。
「……恨みましたか。あなたの弟のことを」
「わからない。大事な弟だもの。でも、悲しく思うの。この子はきっと……私のことを愛してはいなかった。愛していたなら、私を化け物にはしないでしょ?」
「そんなことはないはずです。弟君は……」
「……。眠っているみたいでしょ」
話は所々噛み合わなかった。それでも、ルーはゲルダの話を遮りはしなかった。
細い指で氷を撫でて、私が殺しちゃったの、とゲルダはぼんやり呟いた。
「目覚めたときにこの子が私を見てたの。でも、私、この子がカイだなんて気付かなかった」
独り言のように、魂の抜けたようにゲルダは続ける。
「私の記憶にあるカイとは違うんだもの。不気味なおじいさんの見た目になってた……」
外側がカイじゃなかったの。ゲルダはそう呟いた。
ぽつりと落ちた言葉の重さに気付き、コウは表情を強張らせる。カイにとっては何十年をかけても会いたかった姉だろう。だが、ゲルダにとって齢を重ねたカイは『弟』には見えなかったのだ。だから。
「私の知ってるカイじゃなかった。わたし、気付かなくて、驚いちゃって、それで……気づいたら。この子は凍ってて、私は自分が化け物になっていたのに気付いたの」
この子は私を恨んでいるわよ、とゲルダは重ねた。ぽろぽろと涙が落ちる。落ちた涙は瞬きのうちに凍りついていく。
「殺されて恨まないことなんてあると思う? ないわよね」
「……恨んではいないはずです。恨むほどなら、あんな真似などしていない。他の命を奪っても。形はいびつでも、それでも……。それでも、すべて。あなたを愛したがゆえの愚行だ」
ルーの顔は蒼白だった。ゲルダは泣きながらその顔を見て吐き捨てる。
「何にも知らないくせに! ただの人間と、ノコノコこんなところに来るくせに! あんたは私と違うのよ! ずっとずっと幸せなんでしょう! 放っておいてよ、もう良いの、私はここで、この子とずっと一緒にいるのだから! 眠ったままのこの子と! 殺してない! 死んでないっ。寝てるだけなの! 溶かすもんか! この氷は溶かすものか! あんなに大事な弟だったのに……! 私が……。全部嘘っ。私が化け物なのも、全部全部全部……っ。愛しているなら、どうして化け物にしたの! 化け物の私を一人おいていったの!」
口から出る言葉が支離滅裂なのを、それでもルーは黙って聞いていた。吐きそうな顔をして、泣きじゃくるゲルダを見つめていた。息を大きく吸って、吐き出す。
「僕にも姉さんがいます。その人がいなくなったら……。もし生き返らせることが出来たなら……。きっとそれに縋る。邪神にだって祈りますよ。たった一人が戻ってきてくれるなら。そんな方法があるのなら」
「祈りが呪いに変わっても?」
私にとっては呪いだ、とゲルダはルーを睨みつける。化け物になってまで戻ってきたくはなかったと。
「私にとっては紛れもない呪いよ……。祈りなんかじゃない。こんな風にならなければ、あの子を殺めることもなかったのに。化け物になることもなかったのに。あなたはそれを祈りだと言うの」
ルーは息を呑む。ゲルダの発した言葉がルーをえぐったのは明らかだった。普段ならツンとすまして変わらない表情が、今や苦しげなものになっている。場に割り込める雰囲気でもなく、コウはただ黙って二人を見つめるほかなかった。
冷たい空気の中、コウの持った懐中電灯の光が、一直線に死体の収まった氷を照らし出している。眠っているかのように穏やかで、けれどそこに温もりも鼓動もない。
「あなたが祈りだと思ううちは祈りでしょうね。あなたにとっては!」
ゲルダが嘲笑ったのは化け物になった自分なのか、それとも甘いことを言い連ねるルーなのか。
ゲルダの嘲笑を痛ましく見つめながら、ルーはうつむいて応える。
「それでも……。呪いとなってしまっても。あなたの弟君は、あなたを愛しているんです。ゲルダ嬢、どうか……。あなたの弟君の愛を疑わないで。受け入れなくて構いません。どうか……疑わないで下さいませんか」
ルーの悲痛な声音に、愛の呪い、という言葉がコウの脳裏をよぎる。それからハッとして、コウは「手帳」と呟いた。
「ルー。手帳だ。……カイさんがどんな思いでゲルダさんを蘇らせたのか。そこに書いてある」