雪の女王と人狼の懺悔 3
勝手知ったる我が家とでもいうようにルーはどんどんと歩いて行く。灯のない場内には二人分の足音が響いた。きたこともない城の図書室の場所なんか分かるのかとコウが驚けば、ルーは「鼻が良いので」と頷く。
人狼の嗅覚は鋭敏らしく、本の匂いをたどれば図書室にはたどり着けるとルーは請け負った。
暗い通路を慎重に歩きながら、コウは懐中電灯をつけるか迷う。夜目の利くルーとは違い、暗闇ではものが見づらいのだ。かといって、懐中電灯などを灯せば相手からは丸見えになる。
ルーはそんなコウの懸念を察したのだろう。気がつかなくてすみませんと謝りながら「つけても問題ないですよ」とコウに保証した。でもなあ、とコウは躊躇いを口にする。
「灯りなんかつけてたら相手に居場所が分かっちまうだろ」
「僕たちが侵入したのを知ったところで、彼女はあの場から離れないでしょうね。あれだけ大きな音を立てて門を開けても何の反応もありませんでしたから」
相手が近づいてきたら分かりますよとルーは自分の鼻を指し示す。便利だなあと嘆息したコウには「酷い匂いも拾ってしまいますけれどね」と肩をすくめた。
「死体の臭いって言ってたよな。……城の主か?」
「どうかな。いろんな臭いが混ざっているし、獣臭い。その上、腐敗がひどすぎて……さすがにこの臭いが誰のものなのか分かりません」
「『雪の女王』が……殺したのか?」
「どうだろうか……。もしかすると何らかの『儀式』に使われた生贄であるとか、そういうものかもしれません」
ルーはそこで黙り込んでしまう。黙々と足だけは動かし続けて、どこかに向かっているようだった。図書室に向かっているのだろうと思っていたが、ルーは城の奥へと歩いて行く。城の一階部分を延々と歩いているところを見る限り、向かっているのは図書室ではないだろう。気が変わったのだろうか。どこかぼんやりしているようにも思える。無駄なことはしないやつだしな、と思いながらもコウはルーに行き先の確認をした。
「ルー、図書室に向かっているんだよな?」
「……ああ、いえ。目的地を変更しました。伝え忘れましたね。図書室へ向かう前に寄っておいた方が良い場所がある気がしまして。裏庭の方かな……」
「寄っておいた方が良い場所?」
「僕の予想が当たったなら、雪の女王の正体が分かるものかと」
灯りを持っているとはいえ、照らされるのは足下だけだ。ルーの背中を追いかけて歩いているコウには、自分が今どこを歩いているのかも分からない。石の床を歩き、朽ちた絨毯の上を行き、時には何か木の板が敷かれているような場所も通った。
城の中は凍えるように寒いが、風がないぶん外よりはマシだろう。時折、懐中電灯で上の方を照らせば、霜の張った燭台が照らされる。床には寒さで死んでしまったのだろうネズミや、トカゲなどの小動物が落ちていることもあった。それらをできるだけ踏まないようにして歩くコウに、「ここですね」とルーが声をかけて立ち止まる。ルーの目の前を照らしてみれば、そこにあるのは小さな扉だった。
「勝手口みたいなもんか」
「出てみましょう」
ドアノブは凍り付いていたが、そもそも鍵自体がかけられておらず、扉そのものもきちんと閉められていなかった。扉をゆっくり押せば簡単にあいてしまう。小動物たちはここから入ってきたんじゃないかとコウは考える。
外の寒さに耐えかねて城に来たのだろうが、結局ここも冷凍庫並みの寒さなのだ。すぐに力尽きてしまったのだろう。蝶番が軋む音がもの悲しく暗闇に響き、ルーとコウは扉の外に出る。冷たい風が身体を打つ。
「裏庭かな」
「随分荒れ果てていますね……」
全く手入れのされていない空間であることは明らかだった。雪に覆われてすべてが白く見えてしまっているからあまり気にならないだけで、そこかしこの低木が枝を自由に伸ばし、絡み合っている。
,雪が所々盛り上がっているのを見る限り、きっと草も生え放題だっただろう。辺りを見回せば、何かがぽつんと立っていた。
明かりが乏しく暗いのと、それから距離があるのとで『石で出来た何か』、ということくらいしかコウには分からない。懐中電灯で遠くから照らせば、雪から一部分露出したつやのある表面がおぼろげに光を反射した。
あれだ、とルーが小さく呟く。ざくざくと雪を踏みしめてルーはまっすぐにそれに向かった。その後ろをついていき、コウは息をのむ。本来、裏庭にはないはずのものがそこにあったのだ。
暗闇に溶け込んでしまいそうな塊は石だ。その表面には雪が薄く積もっていて、銀世界に飲み込まれる寸前といった様子だが。
土塊が無造作に盛り上がり、近くには何か大きな板状のものが転がっていた。棺の蓋だとコウが気づいたのは、そこに寂しく立つ石がなんであるかを理解したからだった。
「墓、だよな」
「そうですね。しかも掘り起こされている」
苔むしたうえ、雪の降り積もった墓標のすぐ近くには、掘り起こされた跡があった。こじ開けられた棺の蓋が無造作に転がっている。雪が薄く積もり、木製の棺が朽ちかけているのを覆い隠していた。
中身のない棺というものは存外不気味に見えるもので、コウは思わず棺から目をそらしてしまう。目をそらした隙に何かが横たわっていそうな気もして、つい棺の中に目をやってしまいもするのだが。
ルーはそっと膝をつき、墓標に積もっていた雪を払いのけた。雪を払い除けた先、干からびた花が墓石にへばりついている。刻まれた文字を読み、やはりか、と目をぎゅっとつぶった。
「ゲルダ……この墓に眠っていたはずの人物の名です」
「ってことは」
「この城の主の姉でしょうね。随分前に亡くなった、という。そして今は……雪の女王です」
「ゲルダ……というと、『雪の女王』に出てくる少女と同じ名前だな」
「だからこそ『雪の女王』を連想させて……『雪の女王』を生み出してしまったのでしょう。怪異は君たち人間のイメージに強く影響されるものですからね」
「掘り起こしたのはこの城の主で間違ってないな?」
「ええ。信用に足る『蘇生術』でも見つけたのでしょうが! ……なんて馬鹿げたことを。ああ、本当に」
ルーにしては珍しく感情をあらわに嘆きを口にする。その表情には悲痛さが表れていた。何か不味い儀式でもしたのかとたずねるコウに「気付いたときには遅いものです」と重々しく息を吐くのみだった。
***
城の図書室に足を踏み入れ、コウは思わずうめく。よく冷えた空気の中でも分かるほどの異臭がしていたのだ。胃の方からこみあげ、せり上がってくるものをなんとかやり過ごす。
経験上、これは動物の死骸だな、とコウは懐中電灯であたりを照らした。照らしてから、照らすんじゃなかったと後悔する。
怪異を追うものとして、こういう現場には慣れっこだったが、いつ見ても気分のいいものじゃない。そこかしこに腹を切り裂かれた犬や、首から血を流して事切れている山羊などが転がっていた。どす黒く変色した血が首回りの毛にこびりついて、首輪のようにも見える。鼻のきくルーは心底辛そうな顔をして、ハンカチで鼻と口を覆っていた。
「何も図書室で儀式をしなくともなあ……」
無残な姿で転がっているのは『蘇生術』の犠牲になった動物たちだろう。絨毯の一部を剥ぎ取った床には、血で描かれた召喚陣まである。あたりには本が散乱していた。何かを書き殴ったメモが散らばり、コウはついこの屋敷の主だったという男に思いをはせてしまった。狂気の沙汰だ。だが、そうなってしまったのも理解できないわけではない。
どんな手を使ってでも蘇らせたい人だったのだろう。大事な家族だったからこそ諦めきれなかったのだ。そんな人を失った悲しみたるや。気が狂ってしまったとしても仕方のないように思える。
「『蘇生』が成功したのは一月と少し前のようですね。この地域に『雪の女王』が観測されるようになる……一週間ほど前なのかな」
「何だ、何を読んでるんだ?」
ルーが手帳か何かを読んでいることに気づき、コウはルーに近寄った。暗いから読みにくいでしょうとルーは散らばった書斎机の上からジッポをつまむ。近くに転がっていたカンテラを拾い上げ、中の蝋燭に火を灯した。
ぼんやりとあたりが明るくなったことで余計にこの部屋の惨状が浮かび上がる。転がっていた動物は十や二十ではきかないだろう。一部の死骸は腐り始め、茶色く崩れた肉の合間から骨がのぞき、一部には凍りついたウジが固まっていた。極寒だからこの有様ですんでいるが、これが夏だったら虫も腐る程湧いて、とんでもない有様だったに違いない。
ぞっとしたコウの気をそらすように、ルーが「日記のようです」と手帳を手渡す。中には何十年もの間、姉の魂を求め続けた男の苦悩が綴られていた。
西洋の術を試し、悪魔の召喚を試み、東洋の秘術にも手を出して。けれど死んでしまった姉は戻ってこない。語られている悲しみは文字の震えからも読み取れる。時折文字がにじんでいるのは、彼の涙だったのだろうか。
何年も、何十年も、気の狂ったように蘇生術を追い求め、ある日彼は一冊の本を手に入れたらしい。
「あー……。ルセット・ドゥ・ソルシエール……。魔女の……?」
Recette de sorcière、とルーが流暢につぶやき、「魔女のルセット」とコウに目を向けてから、「魔女のレシピ、でも構いませんよ」と表情を消した。
「魔女のルセット? 魔女が編み出した秘術書みたいなもんかな。にしては『調理法』なんて妙な言い回しだけどさ。人間を調理する手順でも載ってるのか?」
「そうですね。……罪深い本です」
しばらく手帳を読み進め、コウは顔をしかめた。
「これ、『魔女のルセット』自体が怪異なんじゃないのか。『姉のゲルダに蘇生術を施した後、その本は忽然と消えてしまった』……。怪異だろ、これ」
「きっとそうでしょうね。対価と引き換えにこの世の理を書き換え、捻じ曲げ、創造する……。目的を達成したなら使用者の手の内から消える。〝世の理に反する何か〟。正しくもって怪異です」
これは回収しておきたかったとぼやくコウを見ながら、ルーはそっと声を低くして問う。
「この近くで……大規模な行方不明事件や、殺人事件などは起きていませんか」
「いや? 何でそんなこと……ああ、対価に人間が使われたかもしれないってことか」
事前の調査でも大きな事件はなかったぞとコウは請け負う。『怪異』絡みの事件では、たびたび人が消えたり、何らかの生贄に捧げられたりするからと、事前になにか事件が起こってはいないかと調査をすることが多い。今回はそういった兆候となるような事件は特になかった。
近くの街の住人たちもそういった話はしていなかったし、そんな事件があったならこの『雪の女王』ももっとおどろおどろしく語られていたはずだとコウは結ぶ。
「昔ならともかく、今は誰かを連れ去るのは難しいと思うぜ。すぐ話題になるからな。近くに貧民街でもあれば話は別だろう。探してくれる人のない人間なら、いくらだって拐ってこられる。だけど、このあたりは観光地だろ。貧民街があったら……『観光の邪魔になりそうな場所』があったら、力尽くで潰しにかかるだろうさ。自分たちの失策で作っておいて、国の『恥部』なんて見せたがらないんだからな。ふざけた話だぜ。……旅行者の行方不明もさらっておいたが、そういう報告もなかった」
「そうですか。ですが……この程度の供物で……。ヒトの再構築……蘇生を行えるとは……とても……」
「まあなあ。あんまり良い言い方じゃないが、人ひとりは捧げてもおかしくないような内容ではあるよな。人間の蘇生だろ。動物の命で釣り合うのかどうか」
とはいえ部屋の惨状を見れば納得は行くんだが、とコウは吐き気を催すような光景を視界に入れる。小型の生き物ならネズミから始まり、大型の生き物はヤギで終わる。近場にすむ四足の生き物を片っ端から集めて殺したというような惨状では、それが人ひとりを捧げたときの罪深さと変わりなどないようにも思えた。人一人の命と多数の生き物の命が、生命の天秤において同等だというのもおかしな話だが。
「こういうのって、本当に成功するもんなのか」
ふとこぼしたコウの声に、ルーがゆるく顔を向けた。薄暗い部屋の中だからだろうか、白い肌がいつにもまして白く見える。
「成功例ってのを、俺は見たことがない。……他の何かを犠牲にして、蘇るなんてこと……『元通り』になるなんてこと、あるのかな。他の何かを捧げても……この場合は他の生き物の命っていうのかな。捧げたそれが『蘇らせたい人』をどうやって構成するんだ? 奪ったぶんの魂が蘇らせたい人を構成するのか? そうして蘇った人は、『元と同じ』ものなのか?」
「テセウスの船、でしょうかね」
どことなく自虐的に笑って、ルーはコウを見つめていた。どうしてそんなに傷ついた顔で微笑んでいるのかとコウは聞けなかった。この寒い夜よりももっと深く、黒く、凍てつく何かがルーの瞳には沈んでいる。踏み込めない、とコウは直感した。黙るしかなかった。
「壊れた船を、その都度新しい部品で直したとして。数年後にすっかり元の船の部品が新しい部品に置き換わったとして。それが『元と同じ船』なのか、それとも『元とは別の船』なのか。……僕はね、全く別の船だと思いますよ、コウ」
ルーの声は普段よりも一段と低い。快く響く声なのに、その声音には陰鬱さが纏わりついている。ルーの瞳に沈む冷たいものは蝋燭の火にも融けることはなく、ただ痛々しいほどの暗さをもってコウの眼に照らされていた。
「『船が船であるためには、船は船でなくてはならない』……シレーヌがよく言いますね、こういったことを。彼女は『〝そういう風に〟扱われたいなら、〝そういう風に〟振る舞え』という。人として扱われたいなら、人として振る舞えという。彼女はテセウスの船を、『前のものとは別の船』だとは定義しないでしょう。その船が以前の船と同じように振る舞う限りは。ですがね、コウ」
ふう、とルーがゆっくりと息を吐く。自分を落ち着かせる深呼吸のようだった。
「振る舞いが……外見が『そう』だからといって、中身までもが『そう』だとは限らないでしょう。いつか……僕の中身が今とすっかり違ってしまって、けれど見た目だけは僕のままで……。そんな僕を、君は『僕』だと思いますか?」
どこか縋るような瞳でルーはコウを見つめた。すきま風が二人の頬を冷たく撫でて、ランタンの明かりが一瞬揺らめく。
「……どうかな。俺がどこに『ルー』を見出しているのかにもよるだろ。見た目なのか、中身なのか。もちろん、どっちも揃って『ルー』なのは間違いないけどさ」
少し口を閉ざし、コウはそれから「信じるか、信じないか、なのかもな」と呟いた。
「中身が違ってもお前だと信じるか、それとも信じないのか。今見ている『ルー』が、自分の知っているルーと変わらないものであって欲しいのか、欲しくないのか……。そんなもんじゃないのか」
結局のところはさ、とコウは手帳を閉じてルーに差し出す。
「本当に『そう』かなんて、本人にしかわからないんだよ。以前と同じものか、そうでないかなんて。外側からじゃわかんないだろ。だったら、どう在ってほしいのか、で決めるしかない。俺は信じるよ。見た目がお前なら、中身もお前だって思いたいし、そう信じてるよ」
「……もし、その『信じてる』を裏切られたら?」
「お前にもそういうところがあったんだな、そこも含めてお前なんだなって思うことにするかな。外側だけを見て期待して、勝手に落胆されたら俺は嫌だから。新しいお前を見つけたんだって、俺はそう思うことにする。俺にはそれしかできないよ」
都合のいい考え方だけどさ、とコウは部屋の中をぐるりと見回す。
「こんな風にいろんなものを犠牲にして、そうやってまた生み出されたのに。その先で『自分が呼び出したかったのはお前じゃない』なんて言われたら、俺はどうしたらいいのかわからなくなるよ」
「……そうですか」
ふっ、とルーは小さく笑い、古びた手帳をコートの内ポケットにしまう。
傷ついたような瞳にランタンの明かりがきらめいた。