雪の女王と人狼の懺悔 2
落ちかけた日は柔らかな紅色を雪ににじませ、木々の間からは、炎のように赤い空が見えている。影を纏って真っ黒な木立は影絵のようだ。
空のてっぺんが深い夜色に染まるのを見届けながら、コウは夜空に散らばった星々に目を奪われていた。
きらめく星々は濃紺のドレスにちりばめた宝石を思わせる。そんな場合ではないのに、ただ美しいと思ってしまった。ため息の出るほどの壮観をじっくりと見ている暇がないのがおしい。
「コウ?」
先を歩こうとしたルーが、立ち止まるコウに不審そうな目を向ける。まだ疲れていますかと問われ、コウは首を振った。コウの視線がどこに向いているのかに気付いたのだろう。ルーは思いがけずにふっと優しく笑い、「綺麗なものですね」と呟いた。うん、とコウは頷く。月の光だけが二人を照らしていた。
どこを見ても銀色の世界だった。夜空の濃紺と大地の銀が視界を二分している。コウは紺と銀の境目に立っているのだ。
こんな時でなかったら、ゆっくりと見たい景色だったとコウは息をついた。
降り積もる雪は優しい月光を拒絶するように、その光を白く、仄蒼く照り返している。ルーの白磁の肌が青ざめているように見えて、コウははっとした。
「悪い。星空に見とれてる場合じゃなかったな」
「気持ちは分かりますがね」
姉さんも星空を見るのが好きでした、とルーの声が吐息とともに宵闇に滲む。何故過去形で語るのだろうとコウは思ったが、それを口に出すことはなかった。ルーがさっさと先を歩いて行ったからだ。
空気はしんと冷えて、あたりに響くのは雪をふみしめる音だけだ。
先を歩き、雪を踏みしめていくルーにぴったりとくっついて、コウは歩みを進めていた。もう少し進めば目的の古城にたどり着くだろう。古めかしく、凍り付いた石の外壁が目の前に見えている。遠くから見たときも随分大きな古城だと感じたが、近くで見るとさらに大きく感じた。
夜の雪山を歩くというのは、普段であれば自殺行為だ。夜は暗く、視界も悪い。ルーと共にいるのでもなければコウもこんなところを夜に歩き回ったりはしなかった。
天気は落ち着いていて空は晴れ渡っているが、ここは山だ。いつ天気が変わるかも分からない。吹雪になったら最悪だ。吹きすさぶ風に巻き上げられた雪が、視界を真っ白に染め上げてしまう。そうなったが最後、自分の居場所も方向感覚も視界も、何もかもを失う。
ルーは人狼ということもあってか方向感覚が人間よりも鋭いのだろう。目的地まで迷うこともなく、黙々と足を進めている。
古城の門までたどり着いたとき、コウは言いようのないおちつかなさを覚えた。これから『怪異』に相対するという不安感はあるが、それ以外にも何かを感じていた。
これから何かが起こりそうな、そして出来ればそれが避けたい事柄であるような、虫の知らせとでもいうのか。
「どうしました。やはりまだお疲れで?」
「ああ……いや、そういうんじゃない。なんとなく胸が騒ぐというか」
「虫の知らせ?」
薄青い瞳が穏やかにコウを見る。多分それだと答えたコウに、「君は勘が鋭いですからねえ」とルーは一瞬眉根にしわを寄せる。
「十分に気をつけるといたしましょう。何かあったら、君、僕より先にここを立ち去るんですよ。自分の身の安全だけ考えてらっしゃい」
「お前、またそうやって」
「異議は認めませんよ」
僕はどうとでもなりますから、とルーは無理矢理に約束を取り付ける。コウは顔をしかめるしかなかった。
この約束は、コウとルーがそろって『怪異』の元に赴く際、毎回欠かさず交わすものだ。
こうした約束をするのに「俺だけが安全でいるのは対等じゃないだろう」とコウは毎回渋ったが、コウが毎回文句を言うたびに、ルーも懲りずに「馬鹿をいいますね」と親しげにコウの不服をたしなめるものだから、結局のところは何度やったって最終的にコウが折れることになるのだ。
ルーは、こういうところでは絶対に譲らない。「君がそういう態度でいるなら、僕はもう二度と君たちの組織に協力なんてしてやりませんよ」と脅しの言葉まで引っ張ってくる始末で、それを言われるとコウとしても弱い。
「大体ねえ、怪異に人間が会いに行くのが愚の骨頂なんです」と心底呆れたように説き伏せられ、それからはコウも顔面で不満を表しつつ大人しく約束に従うようにしている。今のところ、ルーが譲歩してくれたことは一度もないが、そのうち一度くらいは譲歩される日が来るのではないかとコウは願っている。友人に危険な役目を押し付けたいわけじゃないのだ。
「君、人間は死んだらそこでおしまいですからね。良いですか、君は僕たちの友人なんだ。つまらない考えで命を落とすのだけはやめてくださいよ」
「そういう言い方、ずっとずるいと思ってるんだけどな。文句言えないだろ、そういわれると」
コウが口をとがらせればルーはそれを鼻で笑い飛ばした。
「何がずるいものか。僕らをこれだけ人間に慣れさせておいて、さっさと死ぬ方がよっぽどずるいというものでしょう。君とは違って、長く続く僕らの一生ですよ。瞬きのうちに消えた君の代わりを見つけてこいなんて、酷いことは言わないでしょうね。君の人生の続く限り、君は僕たちに責任を持たなくては」
くすくすとルーは笑う。
「君がいなくなるとシレーヌもひどく悲しむでしょうからね。分かったら、行きますよ」
ルーはいつも通りコウの前を行く。しばらく歩けば城門が立ち塞がった。
ルーは眼前の大きな城門を一度見上げて、門扉に手をかけた。流石にそれは開けられないだろうとコウは止めに入ろうとする。馬車が一台通れるかどうかの幅ではあるが、重い素材で出来ているのは想像に難くない。おそらくは樫か何か重い木材でできていて、そこに鉄板で補強がなされている。
敵の侵入を防ぐために作られるものなのだ、いくらルーが怪異であったとしても簡単に開けられるものではないはずだった。そのうえ、門扉は白く凍りついている。門扉の錠には小指の先程の小さなつららが垂れていた。
手を痛めるから止めておけとコウが口にするより先にルーは門扉を押す。美しい顔は眉一つ動かさない。ルーの足元の雪がぐっと踏み潰され、ルーの腕がゆっくりと張った。力を込めているのだ。
ルーがそのまま扉に力を加え続ければ、何かがひび割れるような音が響く。それが門扉を覆っていた氷の割れた音だということにコウは気付いた。あんぐりと口を開けてしまう。
しばらくして、門は地響きのように大きな音と共にゆっくりと開いていった。門扉が雪を押し、扉に沿ってこんもりと雪が盛り上がる。
門を完全に開け放ったルーは、身だしなみを気遣うように自分の体を一瞥したあと、「どうぞ」とコウを手招く。まったく涼しい顔だった。
「お前、本当に見た目によらないよな……」
背は随分と高いが、威圧感より優美さのほうが勝る容姿だ。とてもではないがこの門を一人で開けるような膂力があるようには見えない。それでもルーはやり遂げてしまうのだ。『怪異』の特異さにコウは舌を巻いてしまった。
「外見が『そう』だからといって、中身までもが『そう』だとは限らないでしょうに」
呆れたように小さく笑い、ルーは石造りの古城を見上げる。
積み重ねられ壁と成した石にもやはり氷が張っていた。夜の月明かりには氷に覆われた石壁は濡れたように黒く輝き、磨かれた墓標を思わせた。ひと月前までは蔦も伸びやかにその蔓を伸ばしていたのに違いない。厚く覆われた氷の向こうには、時を止めたように石壁に絡みつく緑がみえる。
雪と氷に覆われた城には人の気配がない。月の明るい夜ではあるが、城内に明かりは灯っていないようだ。
ここに来るまでに寄った街で、この城には持ち主がいたことをルーもコウも聞いていた。
コウもルーと同じように、人の気配がないことを考えているのだろう。凍りついて雪に覆われている庭らしき真っ白な空間を見つめ、「生きていると思うか」とルーに尋ねる。ルーは肯定の代わりにゆるく首を振った。
首を横に振った人狼の青年にちらりと目をやり、そうだよな、とでも言うようにコウはため息をつく。これだけありとあらゆるものが氷に覆われているのだ。まともな人間が中にいるとは思えない。
「人間がいれば保護。怪異がいれば鎮圧、回収のいずれか。君の目的はそうでしたね」
「ああ。今回はもう、怪異の回収、鎮圧ってことになるだろうな。生きているとはとても思えない。この城の主がどうなったのか気になるが」
「オカルトマニアの男性だった、と調査書には記載されていましたね。姉がいたとも」
「うん。姉の方は随分昔に亡くなったらしい。姉が亡くなってからこの城の主がオカルトに傾倒しはじめたって話で……」
この城の主が街の人間から少し距離を置かれていたのは、街の人間の口振りでわかった。
資産家としてこの古城で生まれ育った男性には、歳の近い姉がいたという。たいそう仲も良く、時折二人で街に遊びに来ることもあったそうだ。両親が亡くなってからは二人の絆はさらに強まり、健気な姉弟として街の人間も何くれと気を配っていたらしい。幼い子どもたちだけが残されたのではかわいそうだから、と。
しかし、成人する前にその姉も亡くなってしまい、そこから城の主はオカルトに傾倒していったそうだ。降霊術、悪魔の召喚術、魔女の秘術、その他の色々。西も東も構わずに、彼は亡くなった姉の魂を神の御手から奪い返す術を求めていたという。気が狂ってしまったのは明らかだった、と街の老人は語った。
若々しく張りのあった頬はこけ、瑞々しかった眼はどろりと濁った。柔らかく微笑んだ唇はひび割れて固く引き結ばれて。あまりの変わり果てた姿に街の人間も恐れをなして、それから彼にはできるだけ近づかなくなったようだ。そうして十数年後のこの夏に『怪異』の騒ぎが起こったというわけだった。
もしかしたら、とコウは思う。一番初めにこの異常な気候を『怪異』と結びつけた人たちは、城の主のことが頭にあったのではないか、と。
「降霊術だの何だのが雪の女王に関わってくるとは思えないんだけどさ。関係あるのか?」
コウの問いにルーは難しい顔をしている。まさか城の主がそのまま「雪の女王」になったわけじゃないだろうが、とコウは続けて、凍った城の回廊をゆっくりと慎重に歩く。うっかりすれば滑って転んでしまいそうだ。吐く息が月光に照らされて青白く光った。
濃紺のトレンチコートをまとったルーは、気を抜けば影に溶け込んでしまいそうだ。きれいに整えられた銀髪も、雪の白と見間違えてしまいそうだった。普段は誰よりも存在感を放つルーが、今夜に限ってはひっそりとしている。夜の闇に飲み込まれてしまいそうだ、とコウは思った。
「この城の主のオカルト趣味について、君の上の人間は何か話していましたか。あるいは……怪異以外にも何かを回収するように指示があったりはしましたか」
「ん。怪しいもんがあったら回収してこいとは言われてるよ。ただ、この件に片がついたらあっちの方で勝手に調査するみたいだぞ。この城の図書室は期待できるとさ」
「……そうですか」
「伝承やら伝説やらを調査するのが俺たちの活動内容だからなあ。オカルト趣味の資産家が集めた書籍なら、俺たちがまだ回収できてない本やら資料やらがあっても不思議じゃない」
コウの話を聞きながらもルーはどこか上の空だ。書籍か、と小さく呟いてコウを見る。しばらく考え込んだのか、ためらうようなそぶりを見せながらも「図書室へ向かいましょう」とルーは歩みを早める。どこにあるのか分かってるのかとたずねたコウには「本の匂いがしますので」と人狼の青年はこたえ、それから平然と口にした。
「それから、死体の臭いもね」