絵画の怪
「あんなところ、行くもんじゃないよ」
葉巻をふかしながらの老女の言葉にコウは苦笑いした。ちょっとした道案内をお願いしたつもりが、かれこれ三十分ほど彼女の昔話に付き合っている。まあ時間に余裕はあるしな、とコウは温かいコーヒーを一口。コーヒーの傍らにおかれたチョコレートは、少し寂れたカフェの店長である老婆からのサービスだった。昔話の聞き役には妥当な駄賃だろう。緑色のピスタチオが乗ったチョコレートは香ばしくてコーヒーによく合う。
年季の入った壁紙が、実家のような心地よさを醸し出していた。昼の日差しも大きな窓からたっぷりと入り、居心地は悪くない。ただ、これだけいい天気の日にはカフェよりも公園で過ごす住人の方が多いのだろう。店内にはコウ以外に客はいなかった。
「あそこはね、魔女狩りの時代からあるって言われてんのさ。相当古いよ」
「へえ。でかい屋敷ってことくらいしか聞いてなかったんですが、ずいぶん前からあるんだなあ」
「人が住まなくなってから何百年経ったかって話だよ。でもね、石造りだからさ、丈夫なのよ。未だに崩れてない」
「なるほど」
スパーっ、と葉巻の煙を吐き出し、老婆は頬杖をつく。灰皿の上に葉巻をのせて、「悪いことは言わないからやめときな」とコウをじろりと見た。カウンターを隔てての客と店主の会話であるはずなのに、老婆の方はもうすっかり茶飲み友達と話すような調子だ。この距離のなさもコウには面白い。日本ではなかなかない距離感だ。悪くない。
「あんた、“魔女の肖像”って知ってるかい?」
「いや。知らないですね」
「知らんのかい。あの屋敷には魔女の肖像画がかけられてるんだよ。その絵を見ちまうと絵の中の“魔女”に心奪われて、まともじゃなくなっちまうの」
「はあ。相当美人なんですね、その魔女は」
「それはもう、この世のものとは思えないほどの美人だったって話さね。この辺に伝わる狼男の話があるだろ。616人の人間を食った、あの怖い化け物の話がさ」
「そんな話まであるんですか?」
「そうだよ。そんな話まであるんだよ、この土地は。……それで、その狼男が主人と仰いでいたのがその魔女って話もあるくらいだ。美しくて、恐ろしくて……そりゃあもう、とんでもないやつだったんじゃないのかね」
そういうのがすんでる屋敷だったんだよ、と老婆は灰皿においた葉巻をもう一度つまみ、齧るように咥えた。
「ま、あんたがそれでも行きたいってんなら止めないよ。過去にも肝試しであの屋敷にいったバカはいくらでもいる」
苦いコーヒーで唇を湿らせ、コウは「その“バカ”はどうなったんですか」と老婆に話を振った。深いため息をついて、老婆はシワだらけの顔をさらにくしゃりと歪める。
「大体は何事もなく帰ってきたよ。でもね……時折、とんでもないやつがいたね。“魔女の肖像”を見たってやつが」
「まともじゃなくなって帰ってきたと?」
「そう。来る日も来る日もあの屋敷に通いつめて……思い詰めて。ついには肖像画を盗んできちまう。でも、せっかく持ち帰った肖像画も次の日には屋敷に戻ってるって話さ。いつまでも手に入らないのに追い続ける。そうして窶れて死んじまう」
魔女に人生を狂わされるんだよ、と老婆はやるせなさそうに首を振る。疲れきったとでもいうように。
「あたしの爺さんがそうだったんだ。ほんの少しの好奇心であの屋敷にいってさ、それきり。魔女に心を奪われて、毎日毎日通ったそうだよ。夏の暑い日も、冬の寒い日もね」
大雪の日に屋敷の前で倒れてるのが見つかってさ、と老婆は懐かしむように目を閉じる。凍死だった、と。
灰皿の上に老婆が葉巻をそっとおく。じわじわと焼けていた葉巻の先が静かに灰になって、雪のようにほろりと灰皿の上に落ちた。
「あんた、この辺じゃ見ない感じのいい男だね。魔女に気に入られないようにしなよ」
「はは。気を付けます」
存外軽いコウの返事に老婆はほんの少し片眉をあげて、それから同じように軽く笑って、火の消えた葉巻を指先でとんとつついた。残っていたコーヒーを飲み干して、コウはカウンターを立つ。
「面白い話、どうもありがとうございました」
小銭と札を一枚とって、コウはカウンターへと乗せる。釣りはいらないと前おいて老婆に微笑んだ。
「また来なよ。今度はケーキもつけてやるから」
「魔女の肖像を見に通うより、ここに通った方が良さそうだな」
「あんた、本当にいい男だねえ」
口がうまいよと笑いながら、「気をつけて行っておいで」と老婆はコウを見送る。それに手を振って返して、コウは屋敷へと向かった。