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消える概念



 どうしたもんか、とコウは深くため息をついた。ため息をついたコウをじろりと睨みつけ、「なにか問題でも?」と美しい声でルーが不服を口にする。長い足を優雅に組んでソファに腰掛けている姿は麗しかった。そのソファがいかにボロくとも。


「言い分を聞くよ。お前は短気だけど理屈は通ってるから」


 足を組んだ麗人の前、同じようにボロいソファにコウは腰を下ろした。


 『管理者』のうちの一人をルーが殴りつけた、という話をコウは聞いていた。頬を腫らすだけで済んだというのだから穏便に収まったというほかない。人狼のルーが本気で殴ったのなら、頬を腫らすだけでは収まるわけがないのだが、そこはルーも加減をしたのだろう。それを知ってか知らずか、他の研究者も管理者もコウが不在のうちに起こったそれを責めるものはいなかった。だが、そもそもルーは人狼だ。そんな血の気の多い『怪異』を制約なしに野放しにしておいていいものか、という話が持ち上がってしまったのだ。だからこうして、コウが話を聞く羽目になっている。


「僕が短気であろうがなかろうが、理屈が通ってようがなかろうが、君は僕から言い分を聞き出すだろ。だから『付き合ってやっている』のを忘れるなよ」

「わかってるよ。落ち着いてくれ」


 『付き合ってやっている』というのは全くそのとおりだ。結局、一介の人間が声高に叫んだところで『怪異』のルーに枷だの鎖だのをつけられるわけがない。彼が少しでもその気になれば、人間の頭なんて素手で簡単に捩じ切れてしまえる。制約をつけろ枷をつけろと言ったところで、どのネズミが猫に鈴をつけられるのか、ということだ。


 全てはルーに主導権がある。コウはそれをよく知っているからこそ、呆れ混じりの苦笑いをこぼしてしまった。この笑いはルーに向けたものではない。


 ルーは優美だ。人を殴り、顔をパンパンに腫らしたり歯の何本かをぶち折ってしまうような攻撃性の持ち主とは思えないほどに。


 優しげな眼差し、白磁の肌、柔らかな雰囲気の銀髪にうるわしい容貌。ひと目見たら忘れられないような、夢の中でしかお目にかかれぬようなその美貌。想像上の『紳士』と『王子』を足して割ったならこんな感じだろうな、とコウは一瞬考えた。少なくとも、その手につけた白い絹手袋に、真っ赤な血をベッタリと纏わせるのが似合うタイプではない。


 だからこそだったのだろうな、とも思う。ルーの見た目はいわゆる優男だから、相手もそう危険視しなかったのだろう。何よりルーの物腰は穏やかだ。優しげで、誰にでも同じ温度で接するような、温厚な人間に見える。

 ただしこれは、その根底にある『強烈な人間嫌い』と『他人との境界線を強固に引く』、という性質を見抜くことが出来なければ、の話である。


 何も知らなければ本当に見目の良い、物腰穏やかな青年だ。しかし、実際は人間を嫌うからこそ距離を取った物腰でやり取りをしている、というわけだ。


 言葉の通じる相手とは分かり合えるだろう、と人は錯覚しがちだが、物腰穏やかな相手の本心までが穏やかとは限らない。コウはそれを眼の前の人狼の青年から学んだ。


「……僕は本当に人間が嫌いだ。愚かな人間が嫌いだ。理屈を守ろうとしない人間が嫌いだ。自分の掲げた理屈すら遵守できない人間を、心底軽蔑しています。ご存知ですよね」


 先程よりは幾分落ち着いた声だった。口調もいつものものに戻りかけている。普段のうっとりしてしまうような心地よい声でコウヘ語りかけた。


 しかし、落ち着いた声とは裏腹に、ルーは血のついた絹の手袋を乱雑に手から抜き取って、ゴミでも扱うように床に放り投げる。儀礼だのなんだのにうるさい彼がこうして雑な仕草を見せたということは、相当頭にきているというサインでもある。コウは自分でも知らずのうちにごくりと唾を飲み込んでいた。


 ここまで怒っているルーを見たのは、おそらく初めてのはずだった。うん、とコウはひとつ頷いて、それから言葉を選んで話す。


「わかってる。理屈に則っていれば、お前が本当に誠実なのも俺は知ってる。だからこうして話を聞いているんだ。お前の『誠実』を踏みにじったのは誰なのか、どうしてそうなったのか。それを聞きたい。原因が分からなければ対策できない。不満があるなら改善したい。ルー、『相手には誠実に向き合いたい』……俺のこの原理をお前は分かってくれているよな」

「ええ、もちろん。だから君には話すんですよ。他のやつなら願い下げだ」


 君を呼ばなかったら、ここの研究所の人間すべてを八つ裂きにするところでしたとルーは微笑む。美しい笑みだったが、それが余計に恐ろしく見えた。これが冗談ではなく本気なのだとコウは知っている。


「端的に申し上げましょう。僕が殴った『管理者』は、怪異の管理に不適格です。立場を弁えていない。死なせたくないなら辞めさせるべきですね。シレーヌ相手にあんな口を利くとは思いませんでしたから」

「シレーヌ相手に?」


 思わず素っ頓狂な声をコウは上げてしまった。ルーの目の前でシレーヌに対して不遜な態度を見せた『管理者』や『研究者』がどんな目にあったのかは広く知られているはずだったからだ。どんな目にあったのか知っているなら、シレーヌ相手に無礼な行動などは絶対にやらないはずだ。自分の命が惜しいのなら、なおさら。

 つまり、今回殴られた『管理者』は入ってまだ日が浅いのだろう。殉職やら大怪我やらで人の出入りが激しい部署ではあるが、あまりにも『初歩的なミス』だ。これは情報の周知を徹底しなくては、とコウは頭を抱えた。


 シレーヌというのはルーの双子の姉の『人魚』だ。人狼と人魚とでどうして双子になるのかと不思議で仕方がないが、少なくとも検査をした結果では二人は双子に違いない。おとなしい姉のシレーヌをルーは非常に大切にしていて、要するにシレーヌを見くびった途端に、苛烈な性格のルーまでもを敵に回すことになるのだった。


「『人魚の総排出腔はどこにあるのか』などと、初対面で聞くのが人間の流儀ですか」


 呆れ果てたと言いたげなルーの顔に、コウはさっと青ざめて思い切り頭を下げた。背中に汗が吹き出る。総排出腔。生物学的用語だ。産卵や排泄等にも使われるもののことで、簡単にいってしまえば、人間に対して「お前の肛門ってどこにあるの?」と聞くようなものだ。首元にナイフを突きつけられたような、体温が一気に下がったような、奇妙な気持ち悪さが襲ってきた。


 これは間違いなく入って日の浅い人間がやる『初歩的なミス』だろう。


 “怪異を見下して接するのはやめましょう”──。研修では必ず教わる事項だが、どうにも毎年何人かは危険な橋を渡りたがる。そうして肉塊に成り果てるなり、生き血を啜られるなり、四肢を失うなり、或いは目玉をくちばしでえぐり出されて食われたりもする。それにくらべたら頬を腫らすだけで終わったのは本当に幸運なことだろう。ルーは随分良心的に対応したらしい。


「研究者だか管理者だか知らないが」


 コツ、コツ、コツ、とテーブルをルーが指先で叩く。顔を上げて、と静かに口にされ、コウはゆっくり顔を上げた。


「見た目で僕たちの“本質”を知った気になって接する人間は、本当にこの職業には向いていません。遅かれ早かれ殺されるでしょう。僕たちの恐ろしさを、本質を、全く理解していないのでは? 瓶のラベルだけを見て、中身を見ないのと同じです。愚行ですよ。君たちの目の前にある瓶には“蒸留水”とラベルが貼ってあるかもしれないが、中身が無色透明の毒である可能性も大いにあるわけです。それだというのにその可能性を考慮することなく、一息にあおるようなもの」


 熟慮し、思考し、適切に処理する能力に欠けています、とルーが足を組み直した。もっともな話だとコウは項垂れるしかない。

 殴るだけで終わったのがありがたいだけではなく、こうして直々に“忠告”をしてくれるぶん、むしろ親切だと言っていいだろう。大抵の怪異は気に入らない人間には黙って惨たらしい最期を贈るものだし、わざわざ忠告もしない。


「人間は本当に学ばない。自分と見た目の違うもの、自分と性質の違うもの、それらを自分より下において話したがる。体の半分が魚であったからといって、あるいは獣であったからといって。人間に劣る具体的理由はありますか? 見下し、容易くからかいの言葉を吐いてよい理由になりますか。人間と同じように思考し、同じように不愉快に思い、同じように話す存在であるかもしれないことを忘れてはいませんか」


 何も言えないままのコウをちらりと見て、もちろん、とルーが言葉を続ける。


「もちろん、大半の人間は僕たちにある程度の敬意を払っています。人と同じように僕らを扱う。君たちの文化の範囲内で僕らに敬意を払っている。それは理解している。それを踏まえた上でも、やはり腹立たしいんですよ」


 ルーの怒りはもっともだった。ぶん殴られた管理者がシレーヌに投げた言葉は、人間が人間相手に吐いた言葉であったなら白い目で見られる言葉だろう。ハラスメントと言われて当たり前の言葉だ。

 なぜそれを怪異には向けてしまえるのか。それはきっと、「自分とは違うもの」だからだ。

 自分と違うものであるなら、自分のことのように大事には扱わない。自分ではないものが粗雑に扱われようと、自分のことではないから『関係ない』。その傲慢さをルーは指摘しているのだ。


 眼の前にいるものが自分とは違う性質を持っていたとしても、敬意を払うことを忘れてはいけない。自分と違うものだからこそ、注意深く、出来うる限りの気を払う必要がある。だからコウは頭を下げて謝罪する。


「不愉快な思いをさせていることに本当に申し訳なく思っている。嫌な思いをしたのにも関わらず、“大半の人間は”って前置いて話してくれる、そうやって気を使ってくれてることも申し訳なく思ってる」


 重ねて頭を下げるコウに「本当は謝らなくていい君が謝るのも僕は納得していない」とルーがため息をつく。


「シレーヌは基本的には何も言わない。何を言われてもね。だから僕が手を出したのだけれど。……何も言わないからと言って、彼女がそれを受け入れたわけじゃありませんよ。むしろ彼女の場合は──」


 わかっている、とコウはうなずいた。シレーヌは不遜な扱いを受けても表立って不満を口にすることはないし、不服な顔を見せるわけでもない。ただ、一線を越えた場合にルーよりもよほど恐ろしいのが彼女だった。


「結果的に無礼な行いとなったとしても、誠意を持って接されたのなら、彼女はそれに誠意で応えます。そういう人だから。彼女は他人と自分の違いを受け入れ、理解することを心掛ける人だから。そういった……お互いの違いを〝文化の違い〟として受け入れられる人だから。きっと、怒りすら見せないでしょう。『この人はそういう習慣で生きてきた人なのだ』と納得する物分りの良さがあります。けれど、今回は。侮辱するつもりで不遜な振る舞いをしたでしょう、彼は。しかもご丁寧に、シレーヌの一番嫌がる部分を逆なでしていった」


 呆れてものが言えませんでしたよ、とルーは頭が痛むとでも言うようにこめかみのあたりを揉む。


「僕たちがまだ『彼』の話を口にできるということは、シレーヌが『それ』には及んでいないということです。今後、彼の話ができなくなる可能性はありますが」


 「存在そのもの」を消し去ることの恐ろしさは、君たちにはピンとこないのでしょうか、とルーは息をついてソファにぐったりともたれる。張り詰めていた空気はようやく緩み、コウもそっと息をついた。


 シレーヌの恐ろしさは見た目からでは計り知れない。ルーが物理的に制裁を下すのに対して、彼女は穏便に、けれど残酷に制裁をくだす。しかもその制裁は下されたかどうかが誰にもわからない。シレーヌは「知っておいてもらう必要もあるでしょうから」とコウにその話をしてくれたが、もしかしたら牽制の意味合いもあったのかもしれない。あるいは、彼女なりの【誠意】であったのか。彼女の考えの本当のところはシレーヌにしかわからないが、少なくとも彼女から提示された事実は、誰の背を震わせるのにも十分なはずだ。


 シレーヌの恐ろしいところは、『存在』を綺麗さっぱりと消してしまえるところだ。概念そのものをなかったことにしてしまえる。


 当たり前のことだが、存在しないものを語ることはできない。存在しないものは知覚できないからだ。知覚できないものを語ることは人間にはできない。本当に『無い』ものは、その概念すら『存在しない』。

 もし、この世から【りんご】という概念が丸ごと消え去ったとき、誰がりんごが消えたことを知覚できるだろう。概念そのものがなくなるということは、そこに在った事実さえ消え失せてしまう。


 それと同じように、シレーヌがもし、誰かを概念そのものから消してしまったのなら。それは誰にも感知ができない。そんな概念は『存在していない』からだ。過去、現在、未来、すべての時間軸、あるいは世界線というものから抹消される。


 怪異なら全てそんな事ができるのかと言われれば否だ。シレーヌだけが引き起こせることで、そして何故シレーヌにのみそんな力があるのか、誰にもわかっていない。その力を使えばひどく眠くなるというデメリットはあるらしいが、それでも想像よりもずっと気軽にそんなことを起こせてしまうことには変わりない。


 コウは『管理者』として、この世界にいる人間のうちでは誰よりも彼女と長く時間を共にしているが、それでも全くわからないことの一つだった。ルーですら、どうして姉にそんな力があるのかは知らないらしい。


「……彼女が目覚めてから今までに消した〝概念〟は3つだと聞いていますがね、彼女に近いところにいる僕だって、消えたそれらを思い出せないんですから。もう少し慎重になっても良いかと思いますよ」

「3つか……」

「内訳は教えてくれませんでした。『消えてしまった以上、内訳を話しても理解はできないですから』と。その通りですよね。彼女にしか覚えておいてもらえないんだ。シレーヌだけが僕らとは違う(ことわり)の中で生きている。そして、僕らが生きている世界の理を、彼女だけは書き換えてしまえる。……本当にその恐ろしさを分かっていますか? 君に話したところで詮無いことですが」


 人間にとっては他人事なんだろうね、とルーはため息を付いた。愚かだ、と静かに付け加えて。


「いつか自分がそうなるかもしれない、などとは考えていないのか。概念ごと消えてしまっては顧みることもできないから、懸念が頭の中にないのか。いずれにせよ、危機感は持っておくべきです」

「だよなあ。シレーヌは怪異の中じゃ大人しいし、こっちの要望も聞いてくれるしでありがたいけど。……いや、大人しいからって舐めてかかるのが良くないよな。人間同士でも失礼なことをしたらいけないのは当たり前で」


 たまにそういうことをやらかすやつもいるから、本当に申し訳ないんだよ、とコウは唸った。そして、「そういえば」とルーの方に目を向けた。


「手袋が落ちてるぞ」

「……おや。ポケットから落ちたのかな」


 真っ白な絹手袋が床に落ちていたのをコウが拾い上げ、ルーに差し出せば、ルーは不思議そうな顔をしてそれを受け取った。


「いつ外したんだったか……」


 手袋を見つめてルーが首を傾げていれば、部屋の扉がノックされた。コンコンと軽い音に「どうぞ」とルーが応じる。中に入ってきたのは先程まで話題に登っていたシレーヌだった。いつもどおりの穏やかなほほ笑みを浮かべ、ゆっくりと二人の元まで歩いてくる。こんにちは、と声をかけたコウに「こんにちは」と嬉しそうな笑顔が浮かんだ。


「ああ、シレーヌ。今、ちょうど君の話をしていました」


 ルーの言葉に少し目を丸くして、「まあ」とシレーヌは軽くまばたきをする。こちらにどうぞ、と席を詰めて自分の隣にシレーヌを座らせたルーは、「どんな話を?」と尋ねてくるシレーヌに「君にしかできないことの話です」と軽く応じる。


「あまり口に出すことでもないでしょうが、この3人だけなら構わないでしょう。ほら、前に僕が『今までにいくつ概念を消したの』とたずねた時の話ですよ。今ここで、コウに『僕らを怒らせると怖いぞ』という話をしていて」

「まあ……。それでわたしの話に?」

「うん。シレーヌは滅多にそういうことはしないし、こっちもさせないように気を配るって話をな」

「そうしていただけるとわたしも嬉しいです」


 シレーヌはにこにことしてルーの肩に寄り掛かった。どこか眠そうで、「寝るなら部屋に戻りますか」とルーはたずねながらも快く肩を貸してやっている。シレーヌは眠気にとろけた声で応じた。


「5つめがどれになるかなんて、わたしも考えたくないですもの……」




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