裏切りの代償と人魚の涙2
人の法に委ねるとして、とルーは少しばかり考えた風に目を伏せる。長い睫が揺らめいて、ぱさぱさと音でも立てそうだった。
アンティークの調度品に囲まれた居間、声をひそめてルーとコウはこれからのことについて話を重ねる。シレーヌが傷付かないように、あの人拐いの男とうまい具合に縁を絶つ方法があるかどうか。それを二人で思案していた。
「人拐いの証拠をもって警察につき出すのが一番早いんだけどな。なにせその証拠がない」
張るなり何なりすれば出てくるものかもしれないが、とコウは腕を組む。相手は三人だ。三人に対して二人で張り付くのは人数からして無理だし、シレーヌとあの男の外出をこっそり追跡して、決定的な瞬間でとらえるというのもあまり現実味がない。
シレーヌがショックを受けるのを阻止するという点において、シレーヌが拐われそうになった時点で終わりだし、そうなると「拐われそうになったシレーヌ」を状況証拠とするのは避けた方がいい。シレーヌの心を傷付けたくないというのはコウもルーも同じ気持ちなのだから。
しばし考え込んでいたルーが、ふと口を開く。
「彼らが人を拐うのは、お金になるからですね」
「まあ、そうだろうな」
「高値が付く人というのは──他より優れているということですよね」
ひとつひとつ、確認するような問いだった。そうだ、とコウも頷く。ルーが言いそうなことが何となく頭に浮かんでいた。ルーさえ良いのならそれが一番安全な気もするが──とコウは考える。問題は相手が引っ掛かるかどうかだ。
「コウ、君はシレーヌから離れないようにしていて下さい。不自然にならない程度に、ずっと彼女のそばにいて。一人にしないで。この件が片付くまでは、間違っても君以外の人間と二人きりにしてくれるな」
あとは僕がどうにかいたしますので、とルーは簡単に言うと、コウの顔をじっと見る。
「コウ。僕は強そうに見えますか?」
「拐いにくそうに見えるか、って意味ならノーだな。人なんか殴ったことなさそうな奴に見えるよ」
「そうですか。では──貴方なら、僕にいくらの値段を付けますか?」
「つけて貰いたいか?」
「ふふ。まさか。僕の価値は僕が決めます」
それなら聞くなと返したコウにくすくすとルーが笑う。楽しげな、悪い笑顔だった。
良くできた彫刻のような整った唇がゆっくりと動いて、人外の美貌をさらに華やかに魅せる。
「この街には“人間とは思えない”美人がもう一人いること、思い知らせてやりますよ」
***
最近ずっとここにいますね、とシレーヌがコウを見る。一週間くらい? と尋ねたシレーヌに「そうだな」とコウは頷いた。仕事もそう差し迫ったものもなく、元より自由のきく身だ。ルーとシレーヌの屋敷に滞在すると連絡をいれれば、コウの“上”からはあっさりと許可が降りた。
もしかして邪魔だったりするか、とコウが聞けばシレーヌは「まさか」と首を横にふり、「嬉しいのです」とはにかんだ。何を飲んでらっしゃるの、というシレーヌの問いかけにコウは「コーヒー」と返す。お前も何か飲むか、というコウの言葉にシレーヌは「お気持ちだけで」と微笑んだ。あなたがそのマグカップを使っているのを見るのが好きなの、と。
コウの手の中の、コーヒーの入ったマグカップ。シレーヌとルーとコウとでお揃いにしたものだ。ルーが紺色、シレーヌは緑色、コウのは珊瑚色。ルーが“デザインが良かったんです”と蚤の市で買ってきたもので、シレーヌも気に入っていた。
「その……三人でご飯をたべたりとか。こうやって夜起きてきたら、あなたが居間でコーヒーを飲んでいるのとか、そういうのが嬉しくて。……ずっと続けば良いのにと思いました」
「……お前、ほんと素直で良いやつだよなあ」
複雑そうな顔をしたコウにシレーヌはこてんと首をかしげた。コウの表情と言葉が合っていないような気がしたからだ。
なにか変なことを言っただろうかとシレーヌがコウを見ていれば、「騙されないようにしろよ」とコウがマグカップをおいてシレーヌを手招く。ソファに腰かけていたコウの隣に並べば、コウはそっとシレーヌの頬に手を添えた。何のはなし、とシレーヌが訊ねれば「人間の話」とコウはシレーヌの長い髪を耳にかけて優しく囁く。
「ルーほど疑わなくても良い。出会った人間ぜんぶ疑えって訳じゃない。でも、良い人間ばかりとも限らないからさ。……最近、外によく出てるだろ。あー……“大事な人”と。心配なんだ。お前、あんまり人を疑わないから。いつか騙されたりしそうで怖いなって、ふと思っちまった」
「まあ。子供扱い? わたし、あなたより長く生きているのに」
ふふふ、と笑うシレーヌにコウは「それはそうなんだけどさ」とシレーヌの頬をむにむにと指先でつまむ。妹か何かにするようなそれにシレーヌはますます微笑んでしまった。
「大丈夫ですよ。心配してくださってありがとう」
「だと良いんだが。お前は……結構のんびりしてるから俺は不安だよ。せっかく携帯を持たせたってのに、連絡がつかないときもあるし」
「のんびりするのはあなたとルーの前でだけ。ご心配には及びません。……機械のことはわからないですけれど! 良いじゃないですか、あなたもルーも大抵わたしといてくれるのですから、携帯端末なんていらないでしょう」
まるでお兄さんみたい、と楽しげに笑ってシレーヌはコウに寄りかかる。嘘みたいにきれいな顔が自分の肩に寄りかかってくるのにもコウはもう慣れてしまっていた。
お兄さんか、と複雑な気持ちになるのを何とか押し込めて、甘えてくるシレーヌの髪を撫でる。もし例えばこの先、今回のようにシレーヌが“大事な人”をみつけてきたとして──この距離はどうなっていくのだろうかとコウは考えた。
コウが兄みたいな存在だったとして。シレーヌがいつか、コウではなく誰かのシレーヌになってしまったとき──シレーヌはコウの肩を借りてまどろんだりするだろうか。しないだろう。
寒いからといって腕の中に飛び込んできたりもしないだろうし、甘えるようにコウをつついたりもしないだろう。考え事をしている間、コウの手で遊ぶこともない気がする。
シレーヌに配偶者が出来たなら、今の近すぎる距離は見直さなくてはいけないことくらいコウにも分かっていた。本当の兄ならまだ許されるのかもしれないが、コウはそうではない。兄みたいな存在だからこそ、兄にはなれない。似て非なるもの、で収まってしまう。
「……あなたさえ良ければ、なんですけれど」
「どうした?」
細い手がコウの手で遊んでいる。武骨な指に華奢な指を絡めてみたり、手荒れひとつない白魚の肌で、傷がひとつ走ったコウの手の甲を撫でてみたり。シレーヌが考え事をするときによく見せる癖だ。
「あの……明日。博物館にいってみませんか。街の。……すぐ近くの」
「こないだ行ってきたんじゃないのか? その──“大事な人”とさ」
「えっ?」
そんな話までしましたっけ、と目を丸くしたシレーヌにコウはひやりとした。いけね、と内心で呟く。これは酒場で聞いた話で、シレーヌから直接聞いたものではなかった。コウが知っているはずの情報ではない。
「自分で話してただろ。俺がその……お前の大事な人の話を聞きたいって言った時に。でなきゃお前たちがどこにいったか俺にはわからん」
「ああ、確かに。それもそうですね」
コウのごまかしに素直に納得したシレーヌをみて、コウはほっとした。理屈が通ってさえいればシレーヌは素直にその話を信じる。今回もそうだった。
「こんなすぐにまた見に行くほど気に入ったのか? あの博物館……何ていうか、展示物がちょっとホラーだろ。前に俺が見に行ったときは……魔女狩りとか人狼とか、そういうのが多かった気がするんだよな。お前が見たいなら俺は構わないけど」
お前がとても気に入るようなものには思えなかったんだが、と疑問を口にするコウに、シレーヌは困ったようにはにかむ。
ほんの少し考えるように口を閉じると、「この前行ったときはあまりゆっくり見られなくて」と目をぱちぱちとさせる。
「足がちょっと痛かったの」
ああ、とコウは思い至った。「この前行ったとき」の相手は、シレーヌの歩幅や歩調に合わせて歩くやつじゃなかったのか、と。
「そりゃ大変だったな。じゃ、明日は俺がエスコートしてやるよ」
「うれしい! あの、ゆっくり見たくて……朝からでも大丈夫ですか?」
「お前が起きられるんならな」
俺ならいつでも良いよ、と返したコウにシレーヌはにっこりとする。嬉しそうな顔にコウもつられて笑ってしまう。これからのことを考えれば不毛なことだと分かってはいても、シレーヌの笑顔を見られるのは、やはりどうしようもなく幸せだった。