裏切りの代償と人魚の涙 1
ふうん、とコウは気のない相槌を打ち、顔を真っ赤にして照れるシレーヌを見つめていた。
ただの世間話。ただの世間話なのに、何もかもおもしろくなくなってしまった。きっかけはなんてことのない、よくある世間話だったのに。
先日、珍しくシレーヌを街で見かけた。声をかけようと思ったら、シレーヌのとなりにはコウの知らない男がいたのだ。
友人か何かだろうとその場は立ち去って、今日改めてシレーヌに「そういえば、先日街でお前を見たんだけどさ」と切り出しただけ。
友達と遊びにいくなんてずいぶん人間の生活にもなれてきたんじゃないか、と笑いながら話したコウにシレーヌが「大事な人なんです」とはにかんだだけだ。たったそれだけ。
たったそれだけなのにコウの心は冷たく冷えた。夜の砂漠のように乾燥して、シレーヌの話の何もかもが面白くなくなってしまった。
普段はどんな話をされても耳を傾けていられるし、シレーヌの声を聞くだけでも満たされるものがあったというのに。
「一緒にシャーベットを食べに行きました。あの、桃のシャーベットを」
「……俺が連れていったところか」
「はい。とても美味しかったから、その人にも知ってもらいたくて」
「そうか」
前にシレーヌをとあるカフェに連れていったことがある。シレーヌは桃が好きだから、桃のシャーベットはきっと気に入るだろうと思ったのだ。
案の定、シレーヌはシャーベットをいたく気に入った。
おいしいおいしいと普段より早いペースで口にして、その後の頭の痛みに呻くくらいには。「急いで食べたら頭が痛くなるぞ」と笑いながら教えたコウに「もうちょっと早く教えてくれればいいのに」と膨れていたのを思い出す。
あの店は俺とお前の特別な店だと思ってたんだけどな、などとは口にせず、自然な微笑みを浮かべている自信がコウにはある。シレーヌがいつもどおりにこにこしながら話しているからだ。
カウチソファでくつろぎながらその時の話をするシレーヌにコウは微笑みながら相槌を打っていたが、その瞳が笑っていないのにシレーヌは気付かない。
「また今度、いっしょにお出掛けしようと誘って下さって」
「へえ。良いやつだな。外出するにしても、足は大丈夫なのか? 最近誘拐とか、失踪事件とか多いらしいから気を付けろよ。迎えなら俺かルーが行くから」
「大丈夫です。杖を使って歩くので。暗くなる前に戻るようにとルーにも言われておりますし」
あまり遠くへ行けないのが申し訳ないのですけれど、とシレーヌは少し寂しそうに微笑む。ふうん、とコウはまた低く呟いた。俺と出歩くときはそんなこと言わないのにな、とシレーヌを見てしまう。楽しそうだった。
「なあ、そいつってどんなやつなんだ? もっと聞かせてくれよ。お前の大事な人なんだろ」
にっこり笑ったコウにシレーヌははにかんで、「聞いてくださるのなら」とふにゃふにゃした笑みを浮かべながら話し始める。
いつもならずっと聞いていたくなるような甘い声に、花びらのような唇に、コウは今までになく苦いものを飲み込んだような顔をしそうになる。シレーヌと話す時間がこんなにも長く感じられたのは、初めてのことだった。
***
ゆっくりと酒を楽しむのには少々騒がしいが、仲間同士で楽しむのには最適な店だ。
久しぶりに訪れたブラッスリーは最後に訪れたときと変わらず繁盛していた。夏の夜にビールを求める客も多く、店内ではジョッキをぶつける音がいたるところから響いている。
乾杯する相手もなくカウンター席についたコウは、焼いたソーセージとチーズをつまみにジョッキを傾けていた。蒸すような夜にキンキンに冷えたビールは最高のはずなのに、どうも気分が上がらない。今日はこのまま帰ると伝えたとき、「今日は泊まっていかないんですか」とルーにもシレーヌにも不思議がられた。が、この気分のままあの双子の屋敷にとどまるのは躊躇われた。要するにやけ酒だ。飲まずにこの感情を飲み下せる自信がコウにはなかった。酒を共にしても飲み下せるとも思えなかったが。
シレーヌのことは好きだ。ルーも含めて家族のように思っているし、シレーヌもそういってくれている。シレーヌが色恋沙汰に怯えると知っていたからコウはシレーヌへの想いを出来るだけ隠すようにしていたし、実際バレてはいないだろう。
コウがシレーヌに恋慕を抱かないからこそシレーヌは安心してコウに甘えて、懐いて、いい関係を築けていた。コウがソファでくつろいでいると隣にやってきて本を読み始めるのも愛おしく思っているし、ついうっかりそのまま寝てしまって、コウの肩で寝息を立てているのも好ましく思っている。
だからこそ、余計に辛かった。大事に思う相手から信頼されて、落胆する日が来るなど考えてもみなかった。距離が近すぎたのだろうか、と消えゆくビールの泡を見つめる。シレーヌにとってコウは家族で、安心できる存在だからこそ“そういう関係”にはなれなかったのだろうか。
──“あなたのおかげで、少しだけ人が怖くなくなりました”。
シレーヌが桃を好むと知ってから連れていったカフェで、桃のシャーベットを食べていたシレーヌ本人から言われた言葉だ。その時はとても嬉しかったし、可憐なかんばせが綻ぶのにじんわりと満たされていくのを感じたのに。
「……うまくいかないもんだな」
今はひたすらに苦い。苦い気持ちが胸を満たしていく。冷たいビールを喉に流し込んで、さっぱりとさせたくてもあとに残るのは苦味だけだ。
シレーヌがずっと人を怖がっていてくれたなら、信頼できる人間の自分だけをその目にうつしてくれていたのだろうか、とそんなことを考えてしまう。
コウがしんみりと感傷に浸っていれば、程近いテーブルで若い男のグループが興奮したような口調で何事かを話し合っているのが耳に入る。
「お前さ、こないだものすごい美人とカフェにいたろ。銀髪のさ」
「ああ、あの女。すげえ美人だよな」
「人間とは思えないっつーか……いやあ、どうしたんだよ。そうそういないだろあのレベルは。よく引っかけたなあ。どうやった?」
銀髪、美人、女という言葉にコウは思わず反応してしまう。脳裏に浮かぶのはたった一人で、もうコウのなかでは銀髪の美女といえば世界にたった一人しかいない。カウチソファでごろごろしながら、サメのぬいぐるみをもちょもちょと揉んで本を読むシレーヌしかいない。思わず聞き耳を立ててしまう。ビールの泡が弾ける音さえ聞こえてきそうだった。
「道に迷ったふりして品定めしてたんだよ。その時に出会ったってわけ」
「へえ。いつもの手段じゃん。あのレベルの美人に声かけて、よく無視されなかったな」
「俺もそこは驚いたんだけどね。なんか人慣れしてない感じだったんだよ。おどおどしてるって言うかさ。いけるな~と思ってちょっと押して、好青年装ってたらチョロかった」
「お前、見た目だけなら真面目そうだもんな。悪い男には見えねえよ」
わいわいと盛り上がる男たちの声を聞きながら、不自然にならない程度にコウはげらげらと笑い転げる男たちの方へ視線をやる。三人組の男だった。そのうち一人は確かにシレーヌと並んでいたあの青年だ。コウよりよほど真面目そうというか、「ちゃんとしていそう」な見た目だった。
が、酔っぱらってにやにやと笑う姿はあまりいい印象はない。他の二人がどちらかと言えばアウトローよりな見た目ということもあって、頭を使うタイプの無法者のような雰囲気すらある。
「デートも何回かしたよ。博物館と、美術館と。で、そのあとにあのカフェ。ここの街の博物館、なんか不気味だったぜ。昔化け物に人間が六百人食われたとかってさ。ここの街、そういう伝説が残ってるんだって。六百は盛り過ぎだろ」
「博物館ならそういう伝説とかの展示はよくあることなんじゃねえの?」
ふだん行かねえから知らねえよ、そんなこと。と仲間内の一人が応じた。俺ら全員縁はねえだろ、とシレーヌと歩いていた男がけらけらと笑う。あんなとこいったってつまんねえよと。
「そんなつまんねえところによく付き合ったなあ。らしくねえ~。ま、美人を連れて歩けるなんてそう無いもんな。で、どうだった?」
「急かすなって。……あの女、独り身じゃないか? 家族の話も一切出さないし、独り暮らしか……。友人はいるみたいだけど」
まあたかだか友人だからな、と声を落として男が笑った。家族と違って行方不明者届も出せねえ、と。
「今時珍しく機械音痴みたいだったぜ? 一回携帯に連絡が入ったときにあたふたしてて。ああ、あと、足が悪いみたいなのがラッキーだよ。拐いやすい。売ったらいくらになんのかな」
「あれだけ美人だと買い手が殺到するだろ。競りに持ち込むのもアリだな」
「んじゃ、そいつをどうにかしたらこの街は出るか。飯もうまいし住人はのんきだし、穴場ではあったけど」
「あんまりやると足がつくしな」
それにしても美人だよなあと口々に話す男たちに、コウは思わず握ったグラスを握り潰しそうになった。最近失踪事件が増えていると聞いて、物騒になったものだと思っていたが、まさか。
この場で殴り倒してしまうべきかと考えたが、この状況で殴り飛ばして警察に連れていっても何の証拠もない。
これだけ騒がしいブラッスリーで、酔っ払った人間が溢れているなかで、この男たちの話を仔細漏れなく聞いていた人間なんて自分しかいないだろうとコウは考え直す。コウだって、銀髪だの美人だのと言われなければ全く気にもとめなかったと思うからだ。なんだか賑やかだ、くらいで終わっていた自信がある。
男たちがテーブルをたったのと同じくらいのタイミングでコウも席を立ち、店を出る。三人組はほろ酔いでぶらぶらと楽しげに歩いていたが、コウの内心は恐ろしく煮え繰り返っていた。許されることならこのまま路地裏に引きずって三人とも殴ってしまいたいが、物事はいい方向には進まないだろう。ゆっくりと息を吸い、コウはのんびり歩くふりをしながら男たちの雑談に耳を傾けていた。
***
「宿でもとれなかったんですか? それとも、店から追い出された?」
「いや……。ちょっと話しておきたいことが出来た」
男たちが帰路に着くのを確認し、コウはそのまま双子の屋敷に戻る。いつもどおり耳のよいルーがコウを出迎えた。真夜中ではあったが、元々ルーもシレーヌも夜型の生活をしている。針仕事をしていたのだろう。ルーの指には指輪型の指ぬきがはまったままで、首からはチェーンに下げた糸切りばさみがかかっていた。針仕事をするときに使う眼鏡をかけたまま、ルーはコウを見る。
コウの顔を見てすぐ何かに気付いたのか、ルーはそれ以上軽口を叩くこともない。
「悪いな、遅くに」
「いいえ。どうせこの時間は起きていますからね。ご覧の通り、縫い物をしていました。ですから、お気になさらず」
「シレーヌは寝てるのか」
「あの子は好きなときに寝ますし、最近は昼に出歩くことも多かったですから。今日は寝ていますよ。起こしますか?」
「いや。寝ているならそっちの方がありがたいよ」
ふうん、とルーが冷えた目でコウの目をのぞきこんだ。視線は冷たいが、それが自分に向けた感情ではないのをコウは知っている。ルーがコウに向けて怒るときはもっと激しく感情的だからだ。
「ブラッスリーに行ってきましたね? 酒と煙草と食事の匂い。ビストロよりも気軽な場所の匂いです。……それから、嗅いだことのある人間の匂いがひとつ。最近シレーヌからするのと同じもの」
「鼻が良いなあ」
「僕が“何であるか”をお忘れで?」
皮肉げに歪められた口許は、冷たい笑いを夜の闇にうっすらと浮かべている。二人の歩く石造りの屋敷の廊下には燭台はあれど、火はひとつも灯っていない。ルーが手にしたランタンだけが灯りで、窓からは月光が柔らかくさしていた。青い月の光に浮かび上がるルーの顔はシレーヌと負けず劣らず美しい。人ならざる者の、触れがたい美がランタンの灯りに静かに揺らめいている。
「コウ」
いっそ不気味なほど、優しくて落ち着いていて甘い声だ。誰かを魅了するにはぴったりで、けれどその声をルーがコウに向けて操ったのは初めてのことだった。撫でるように鼓膜を揺さぶる美声にコウは首をふる。やめてくれと呟けばルーはとたんに普段どおりの声になった。
「でしたら、何事も包み隠さずどうぞ。シレーヌがいない方が都合がいい、そして最近シレーヌの“友人”になった人間の匂いがする……ということは、何かしらその人間に“不都合”なことがあるのでしょう」
「察しも良いなあ」
「ハッ。僕が“何であるか”、お忘れとは言わせません」
鼻で笑ったルーに「元々隠すつもりも庇い立てるつもりもないよ」とコウは笑った。
「俺がお前をなだめたり、お前から人間をかばおうとするのはその人間に瑕疵がない時だけだろ」
「どうだか。君は基本的に甘いですから。──それで?」
「シレーヌの“大事な人”、人拐いみたいだぞ」
金属が思いきり歪む音が夜の廊下に響く。ルーの手元を見ればランタンの持ち手が握りしめた形に圧し潰れていた。
「──ああ、すみません。つい力が入ってしまった」
何もなかったかのようにさらりと口にされたのが逆に恐ろしい。良くないですね、と小さく呟いてルーは真っ直ぐに前を見る。コウと視線を合わせようとしなかったが、横顔だけですぐわかった。怒り狂う一歩手前だ。コウがいるから怒りを表に出さないようにしているだけで。冷静さを捨てないように激情を押し留めているだけで。
「酒場だからって口も軽くなったんだろ。仲間内で話してたのをたまたま聞いたんだ」
「なるほど。──なるほどね。よくわかりました。それで?」
「……人の法に則って対処するのが一番いいと思う」
「ええ、ええ。……それが一番良いでしょうね。“人として”は。僕としては今すぐにでも外へ行って、そいつの喉笛を裂いてやりたいところですが」
「それをやるとシレーヌが悲しむんじゃないか。……初めて出来た“大事な人”らしいから」
ルーの舌打ちはよく響いた。
「ああ、腹が立つ。よりによって人拐いですって? よくもまあ。──よくもまあ、この地でそんなことをする気になったな」
「俺としては、シレーヌには出来るだけ気付かれないように何とかしたいと思ってる。穏便に。……後味悪すぎるだろ。仲良くなれたと思ったら人拐いで、相手は自分のことを拐って売ろうとしてたとかさ」
好奇心旺盛で変なところで図太さを発揮することはあっても、基本的にシレーヌは怖がりで繊細で、人が苦手なお人好しだ。そんなシレーヌが自分以外に初めて作った“大事な人”の正体を知って、傷付かないわけがない。心の一番柔らかいところに深く爪を立てるような、そんな悪趣味はコウの望むところではなかった。これはおそらくルーも同じだろう。はあ、とルーが大きく息をついた。
「僕は非常に腹を立てていますし、出来ることなら生きたまま腸を引きずり出して首にかけて、木にぶらぶらと吊るしてやりたいくらいの気持ちでいます。が、今回は君がいうところの“穏便”に収めましょう。僕だってシレーヌの傷付く顔は見たくない」
「助かるよ」
腸で首をつった男を木から下ろさないで済む、とコウは緩く首をふる。恐ろしいことにこの手のルーの発言は嘘でもなんでもなく、放っておいたら本当にやりかねないものだ。
ある程度“優しい”シレーヌと違って、ルーは人の理から外れるような者を心底嫌っているし、そういう人間に失望しているし、疎ましく思っているのだから。
普段からうっすらと「こいつは大抵の人間が嫌いなんだな」と察することが出来るほどには、ルーは人のことをよく思っていないのだ。
それなのに、よりによってルーの大事な家族であるシレーヌに手を出す真似をしようものなら。“最悪の事態”なんて言葉がかわいく見えるほどの惨事を引き起こしかねない。
それだけは避けねばとコウは一人心を決めた。ルーたちが生まれた時代ではどうだか知らないが、今はどんな理由があれど人の腸を引きずり出したりしたら間違いなく犯罪者だ。ルーを刑務所に入れるわけにはいかなかった。大人しく捕まるとも全く思えないけれど。
「……一応確認をしておきますが。証拠の隠滅、遺体の処理くらいなら完璧に出来ますけど。それでもダメですか。僕が以前過ごしていた時代ではよくあることでしたから、慣れているんですが」
「とんでもない時代だったんだなあ。……せめて一回は人間の法に委ねてくれないか。それでダメだったら少し考える方向で」
「わかりました」
不服そうな顔だった。