雪の女王と人狼の懺悔 5
「どうかこれを。……あなたの弟君が、あなたを蘇らせるまでのことが綴られています」
懐から古びた手帳を取り出して、震える手でルーはそれを雪の女王へ差し出す。恨むような視線をその手帳へ向けながら、細くて白い指がルーの手のひらからそれを受け取った。ぱらぱらと手帳をめくり、ゲルダが嗚咽を漏らす。
「どうしてこんなこと。私のことなんか放っておいて、自分の人生を歩んでほしかったのに」
愛しげに手帳の文字をなぞり、雪の女王は厚い氷に覆われた弟をくしゃくしゃの顔で見つめた。少し揺り動かせば目覚めそうなその顔は、それでも永久の眠りについている。途方もない隔たりが二人の間には横たわっているのだ。目覚めさせたかった弟、そして眠りにつかせてしまった姉。
「この子の人生、何だったの?」
周りに不気味がられながらも姉を蘇らせるために幾年も費やして。蘇らせた姉には永遠の眠りを与えられ。冷たい氷の中、今は朽ちることもなくただ在るのみの肉体。仲の良い姉弟であったからこそ、ゲルダの口からでてきた言葉だった。弟の人生を浪費してしまった姉だったからこそ、口から出てきた言葉だった。その言葉の責めるような調子は、すべて自らに向けられたものだ。
どうして私は目覚めてしまったの、とゲルダがルーを見上げる。誰もその答えは持っていない。そんなのはルーもコウモも承知の上だった。それでも答えるしかなかったのだ。
「誰にもわかりません、ゲルダ嬢。ただ、……あなたの弟君の、カイ様の愛に……願いに、応えたものがあったというだけ」
「私は……」
気泡のない氷のような瞳が、年老いた弟の顔を静かに見つめる。希望のないその横顔にルーはただ項垂れていた。ふと、ゲルダが口を開く。素朴な祈りにも似た言葉が、礼拝堂にひとつ落ちた。
「私のこの命は……この子にはあげられないの」
「それは……」
ルーの顔がハッとしたものになる。その表情を見て取ったのか、雪の女王はひっそりと笑った。
「出来るのね? 出来るんでしょう」
「ゲルダ嬢、あなたが『雪の女王』で……。弟君が『カイ』ならば……けれど……」
「ルー、シレーヌをここに呼べばいいか?」
たずねたコウにルーは苦しげな顔をした。出来ないの、と問う雪の女王にルーは「どちらとも言えません」と返す。それは本当に申し訳無さそうな顔で、今までにルーが見せたことのない表情だった。
「元通りにはならない。……元通りには出来ないんです。『あれ』はそういうルールだ。……けれど、あなたがそれを望むなら。ゲルダ嬢、『雪の女王』から『カイ』を取り戻すことは……可能です」
「じゃあ、そうしてよ。私はどうなったっていい。この子に……もう一回、チャンスをあげて。ちゃんとした人生を歩めるチャンスを」
氷の粒のように小さな涙をぽろぽろと落とし、ゲルダは呟いた。
「私は雪の女王なんて嫌だもの。ゲルダでいたいの。この子の家族でありたいのよ」
***
息を吸うたびに花と草の香りが肺へ広がる。日除けに帽子を被ったにもかかわらず、顔が刺されているかのように痛い。日差しの熱も度をすぎれば痛覚に変わるのかとコウはぐったりしてしまう。
汗でしっとりと濡れたシャツが不愉快だ。ベタベタとしていて今すぐに脱ぎ捨てたい。熱せられたアスファルトからはじらじらと陽炎が立ち上り、路面にはアイスクリームを売るワゴンがいくつもでていた。
雪雲は追いやられ、青い空と強烈な日差し、そして草花の香りをまとう風がコウの頬を撫でていく。夏だ。紛れもない夏がそこにあった。
日本の夏とはちがって湿度はそう高くないから、風が吹くたびに心地良い。それでも少しうっかりしようものならたちまちのうちに参ってしまうだろう。冴え冴えと晴れ渡る空、降り注ぐ太陽の光。眩しすぎる陽光に遠慮はなく、けれど皆が不思議とその熱を歓迎していた。
「『不思議』ってこともないか……」
やっと来た夏だもんな、とコウは隣りにいるルーに話しかける。サングラスをかけて、普段より風通しの良さそうな出で立ちをした人狼の青年は、「そうですね」と賑わう大通りを眺めた。誰も彼もが夏の装いで、弾けるような笑顔を浮かべている。アイスクリームを片手にはしゃぐ子供や、日差しの下で身体を焼いている青年を見たとき、誰がこの町に雪が降っていたことを信じるだろう。
つい三日ほど前までは一面の銀世界だったこの町も、今となっては夏真っ盛りだ。大通りに面した公園のベンチに並んで座る今回の功労者である三人にも、日差しは容赦なく降り注いでいた。
「何とか上手くまとまって良かったよ。シレーヌをこっちに連れてくるのに骨が折れたけどさ。シレーヌもありがとうな、寒いところは苦手なのに」
「あの寒さではまともに意識を保てていなかったでしょうにね。……それでも、やりきってくれたことに感謝しますよ、シレーヌ」
大きめの日傘をルーにさしてもらい、日傘に収まりながらシレーヌが微笑む。どういたしまして、と応じるその手の内には、コウがワゴンで買った桃のジェラートが握られていた。味も好みだったのだろう。美味しそうに食べながら、時折コウの方にも差し出してくる。一口ずつそれを口にしながら、「よくあんなこと出来たなあ」とコウは感心したように呟いた。
「カイさんは完全に亡くなってたんだよな?」
「ええ。わたしが到着したときにはすでに。凍死です。あなた方もそれは確認しているはず。ただ……」
『カイ』で『ゲルダ』で『雪の女王』でしたから、とシレーヌは優しく笑った。
「ご存知のとおり、【雪の女王】は、雪の女王から主人公ゲルダが友人のカイを取り戻す話です。ゲルダさんが雪の女王であることを望まず、そしてカイさんを取り戻すことを願うなら。わたしは【怪異】としての雪の女王をゲルダさんから切り離し、人間に戻ったゲルダさんが【雪の女王】からカイさんを取り戻した、という筋書きに書き換えられます」
「そこは理解できるんだけどさ」
他のところが色々問題だろ、とコウは首を傾げる。雪の女王からカイさんを取り戻すって言ったって、死人を生き返らせることが出来るものなのか、と。シレーヌは少し不思議そうに目をぱちぱちとさせてから、一つうなずいた。
「ええと……。雪の女王に凍らされた心臓を、なかったことにしたのです。『凍死』。つまり、『凍らされた心臓』、を『雪の女王』にすり替えて……。あれが凍死でなければ、わたしにも手は出せませんでした。雪の女王から導ける死の解釈は、凍死しかありませんから」
「……すまん、わからん。相変わらずめちゃくちゃな理論だよな。どうなってるんだよそれ」
「『船が船であるためには、船は船でなくてはならない』」
シレーヌがよく口にするフレーズを囁いた。ルーが片眉を上げたが、何事もなかったかのように振る舞う。
「『〝そういう風に〟扱いたいなら、〝そういう風に〟扱えば良い』のです。凍死も、雪の女王も、同じように冷たいのですから。雪の女王を凍死と解釈して、あの人の体をそれから取り戻せば良い。【雪の女王】から……【凍死】からカイさんを救えばよかったのです」
「……考えても無駄か」
俺には出来ないことだしな、とコウは空を見上げる。
「それでも、完全にもとに戻すことは出来ませんから。……」
言葉を切ったシレーヌに、ルーが静かに問いかけた。
「シレーヌ、もし君が……ああいう風な状況におかれたとして。君が、……僕に蘇らされたとして。君は、僕を恨む?」
唐突なルーの問いにシレーヌは驚いた顔をして、それから悩ましげに顔をしかめる。ルーにそっくりの美しい顔はしかめられても美しかった。しばらく悩んでから、「どうかしら」とシレーヌは困ったように返す。
「その時になってみないとわからないけれど。きっと、わたしはあなたを恨まない。でも……悲しく思うと思うわ。あなたが、わたしのために何かを犠牲にしたなら」
「……そうですか」
「大丈夫よ、ルー。わたしはあなたをおいていったりしませんもの」
ね、と微笑んでシレーヌは桃のジェラートをルーに差し出す。冷たくて美味しいですよ、と言い添えたのはシレーヌなりの気遣いだったのか。
美味しいなら君が食べれば良いのにとルーが小さく笑えば、美味しいからあなたと分けたいの、とシレーヌも笑う。
シレーヌからジェラートを一口もらったルーは、少し気分が良くなったようだった。ジェラートを食べるシレーヌを慈しむように見つめ、口元に笑みをにじませる。仲の良い双子を眺め、コウはそれを微笑ましく見ながら、古城の二人を思い起こした。あの二人は、今後どうなっていくのだろう。
年老いた弟と年若い姉は、年老いた姉と年若い弟となり、再びこの世へ戻ってきた。『元通りにはならない』というのはこのことだったか、とコウは苦々しく思う。いずれにせよ、彼らの年の差は埋まらず、順当に行けばやはり姉のゲルダが先に亡くなるのだろう。
シレーヌとルーいわく、シレーヌの【書き換え】は、『絶対に変えられないルール』の中でいくつかのすり替えを行うようなものらしい。
今回の場合、「姉のゲルダが先に死ぬ」「どちらかは高齢である」のは避けられないのだそうだ。それでも、自分の死後に弟が取りかねないいくつかの行動について、話す時間が増えたのは悪くなかったはずだ。
若返った自分と年老いた姉に、死の淵から蘇ったカイも困惑していたが、それもそのうち、彼らなりの形を持つことだろう。
ふたりはこの地を離れ、別の所で暮らすことにしたそうだ。見た目も何もかもが以前と異なってしまったし、何より異常気象事件の張本人たちなのだ。周りからの目もあるだろう。そこにどんな事情があっても、すべての人間が理解を示してくれるとは思えない。この先短い人生ならば、出来るだけ心穏やかに暮らしてほしいとコウも願っている。
意外なことに、二人が別の地で暮らすことを望んでいるのを知ったルーが、コウの組織に「彼らの次の人生をサポートしてくれ」と願い出た。普段なら他人など歯牙にもかけないあのルーが。やはり姉と弟というところで共感してしまったのだろうか、とコウはぼんやり考える。今回のルーはいつになく感傷的な面が多かったようにも思えたからだ。
「今までの時間を取り戻せると良いですね、あのお二人」
ジェラートを食べ終わったシレーヌはそう呟いた。先程、旅立つ二人を見送ってきたところだったのだ。大きな旅行鞄に荷物を詰めて、老いた姉の手を引くカイはそれでも嬉しそうだった。ゲルダもだ。小さな弟の手を握り、三人にも何度も頭を下げた。
旅行ついでにと列車での旅程を選んだ二人は、これから少し遠回りして空気の良い山の方へ行くらしい。彼らの次の住居はコウの組織が手配したもので、今後を静かに暮らすには申し分ない。
よくやったもんだとコウは意外に思ったが、怪異であるルー直々の願いとあれば、組織の方も突っぱねるのは難しかったのだろう。
「それじゃ、俺たちも帰るか」
「帰ったら、ルー、わたしたちも旅行に行きますか?」
「帰って早々? ちょっとそれはいただけないな……」
家のベッドが恋しいんですよ、宿のは固くて、と顔をしかめたルーに「冗談ですよ」とシレーヌは優しく笑って弟の頬をそっと撫でる。爽やかで暖かな風が三人の間を通り抜けていった。